『砂と霧の家』(House Of Sand And Fog)
監督 ヴァディム・パールマン


 殊更の悪意に満ちたいかなる人物も取り立てて登場しないどころか、むしろ切迫した状況を背負って懸命に打開を図ろうとしつつも、自己都合だけを有無を言わさずに押しつけるわけではない人々が、とことん残酷な悲劇に見舞われる物語であるところが、チラシに謳われる“最も美しい悲劇”の美しさの所以なのだろう。

 行政の手違いと自身の過失で亡父の遺産である屋敷を奪われたキャシー(ジェニファー・コネリー)にしても、それを合法的に取得し何の落ち度もないベラーニ大佐(ベン・キングスレー)にしても、強い意志で困難な状況に臨み行動し、安易に妥協したり泣き寝入りしたりしないけれども、決して範を逸脱した手段に訴えたり、騙し討ちを企てたりはしない。それだけに哀しみがひとしお増してくる人物像の奧行きが実に見事な悲劇だったように思う。キャシーの恋人となった警官であるレスター(ロン・エルダード)は、違法行為による圧力をベラーニ大佐に掛けるのだが、彼とても警察学校では指導教官も務める副官として、教え子から敬意を払われる人物だ。自らの正義に基づく必要悪として非常手段に訴えることがあるのは、公権力の行使に携わる者にありがちな欠陥ではあるけれども、自身の利得のための悪に手を染めるわけでは決してない。キャシーのためだけに手段を選ばぬ行為に出るのであれば、彼は、彼女と恋人関係にあるが故に自身の利得なしとまでは言えないけれども、自己都合のためだけにそうするわけではないことを偲ばせる“DVを繰り返す者の不当逮捕”のエピソードを添えていることが効いている。それがあるために、キャシーにいいところを見せたいという自己都合だけが彼を駆り立てていたわけでもないことが示されると同時に、誤った自らの正義として彼を駆り立てた部分に、中東からの亡命資産家に対する偏見と差別が潜んでいることが浮かび上がるようになっていた気がする。


 イランから亡命してきたベラーニ大佐の人物造形が素晴らしく、誇り高く静かな威厳を備えた家長をベン・キングスレーが見事に体現していた。かなりの資産を持って亡命入国しても所得が得られぬ限りみるみる細っていくのは自明のことながら、彼ほどの人物でも名前も人種も正確に認知して貰えない屈辱とともに、工事人夫の肉体労働やコンビニの店員での細々とした稼ぎに身をやつして働くしかないのが、後ろ盾やコネのない中東亡命者の状況なのだろう。映画のなかでは明らかにされなかったけれども、恐らく彼は、秘密警察の任務に関与して、身を汚していたのではないかという気がする。だから、亡命生活を送るなかでも、コネや後ろ盾が得られなかったのではないかと推察されるし、彼もかつて持っていた権力のつてによる助力を求めなかったのではないかと思われる。そのように解し、職務で身を汚していたにも関わらず、個人としての威厳と品位を保ち得ていたと受け取るほうが、彼の人物像の破格と深みが増すように思う。惨めさに挫けず、几帳面な筆致で残り5万ドルにまで減じた所持金をこっそりと細かな家計簿につけて管理していたのが切ない。

 それでも、妻子には苦境を一切知らせず、ぎりぎりまで豪奢なホテル住まいを続け、娘の結婚式は盛大に行わないではいられない彼の家長としてのプライドの有様が強烈だったが、目に映るところだけにプライドを掛けているわけではない生き様には感銘を受けた。夫の苦労、妻知らずでホテルを引き払うことを告げると引っ越しで調度品に傷がつくと文句を零し、かつてを偲んでは亡命生活への不満を洩らす妻ナディ(ショーレ・アグダシュルー)への憤慨を、事情を明かさぬ自身のツケとして飲み込む姿や状況認識の隔たりの大きさのあまり思わず妻に手を出してしまったことで息子に対して恥じ入る彼の姿、取得した屋敷の転売という起死回生のチャンスを得ながらも、最後まで、貧すれど貪せずを貫いてキャシーに当たっていた彼の男らしさなどには、哀しい愚かしさを認めないではいられないけれども、惚れ惚れとしてしまう。

 そんな彼が懸命に守ろうとする妻と息子なのだから、二人とも脳天気な愚者では決してない。次第に何かヘンだと感づきながらも彼の家長としての誇りを慮って、夫を問いつめたりはしないし、父には控えめにバイトを増やそうかと申し出るだけだ。薄々事情を察し始めた妻が、そのことを伝え、謝罪と感謝を示すかのように、恐らくは久しぶりのことであろうと思われる寝所への誘いを掛ける。事後にベラーニ大佐が大きく息を吐き出すように「幸せだ」と呟く場面が心に沁みた。全ての奮闘や痩せ我慢が報われるような幸福感というのは、夫として家長として、妻が認め身体で応えて癒してくれるひとときにあるものだと改めて思う。夫婦の和合というものは、かくありたいものだとしみじみ感じた。

 また映画では、この夫婦の交感場面と交互に編集挿入される形で、キャシーがレスターを誘い入れたベッドシーンも描かれていて豊かな含蓄を醸し出していたことに感心させられた。こちらの二人のセックスは、孤独と不安の埋め合わせを図るかのように求め合う交わりでベラーニ夫婦間のものとは異質のものであることをよく示しながら、男と女には、身体を交えることでしか得られない深まりや安心、決意の契機というものがあることや、行為の与える充足と手応えの力というものを鮮やかに描出していたように思う。こちらでも事後に交わされる会話に深味があって、特にキャシーが、自分が誘ったからそうなったのかを確かめていたのが印象深い。「幸せ」という言葉は二人の台詞のどちらにも配されてなかったように思うけれども、幸福感とは異なるものでも、セックスによって得ることが必要なものが確かにあることがしみじみと伝わってきた。ロン・エルダードの胸板で押しつぶされ余り出たジェニファーの豊かな膨らみが何とも眩しかった。


 思い返せば、対照的な形で二人の家長が配置されていたようにも思う。ベラーニ大佐とレスターは、ともに一家を背負う人物ながら、片やアメリカ市民権は得ながらも中東から亡命してきた外国人として厳しい現実に晒されつつ、何とか個人的才覚と奮闘で切り抜け家族を守ろうとするし、他方には、妻子に拠り所をどうしても得られない空虚と孤独から逃れられない様子が窺えた。特に夫婦仲が険悪というわけではなく、レスターが好色というわけでもないように描かれていたような気がするところに含蓄がある。彼は妻を悪くは一度も言わなかった。よき母親で子供の時からの親友だったともキャシーに伝えていたように思う。そして、父親と同じように自分も家族を棄ててしまうことになると自嘲してもいた。幼い娘から帰ってきてと泣きながら求められても応えられない父親と、狙撃された息子のために神に縋りながら息子が自分の全てだと取り乱し懇願する父親の対照は、彼が常に冷静沈着でいかに苦境にあっても一度も神に縋らなかっただけに強烈に際立つばかりか、その喪失が、亡命生活の屈辱と困難にも怯まなかった彼に生の放棄を促すほどの重みを持っていることを描いて鮮やかだった。息子を失った後、「苦労を掛けた。イランに帰ろう。」と夫が茶を差し出すことの意味を全て承知して従う妻ナディがとても美しく見えた。

 二人の家長を比較するとき、敢えて外国人の家族を設えて、その対照を描いたところに作り手の想いが託されていたような気がしないでもない。決してレスターを非難する視線ではなく、哀しみを湛えていたように思えるところに品位を感じる。そして、戦後半世紀以上に渡って何処までもアメリカナイズしてきている日本に住む僕が、この映画に描かれたイラン人家族のありようの全てを丸ごと真似することも肯定することも、既にできなくなっていることを痛感しつつも、家長の美学に眩しさを禁じ得ないでいることも自覚させられ、少なからぬ葛藤を触発されたように思う。

 ベラーニ大佐一家の悲劇の後に、あれだけ執着した屋敷を「あんたの家か?」と問われて、違うと答えるキャシーの負ったものにも重いものがある。その言葉が一日前に発せられていれば、との思いを観る者に抱かせるとともに到底それができるはずもなかったことに思い当たることで彼女が負ったものの重みを偲ばせる、劇的に非常に調った終幕だったわけだが、そのように設えてもらっていても、いささか重たい澱のような気分が残った。




参照テクスト:『砂と霧の家』をめぐる往復書簡編集採録

推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20041115
by ヤマ

'04.11.23. TOHOシネマズ4



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