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『アイネクライネナハトムジーク』 | |||||
監督 今泉力哉
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伊坂幸太郎原作の映画化作品は、これまでに映画日誌を綴っているものだけでも、『アヒルと鴨のコインロッカー』['06]、『フィッシュストーリー』['09]、『重力ピエロ』['09]、『ゴールデンスランバー』['09]、『オー!ファーザー』['13]、とあるのだが、『オー!ファーザー』の拙日誌に「この軽妙さとあり得なさのなかにある実感溢れる味わいがたまらない。僕は、伊坂幸太郎の造り出すそういう世界と、とても相性がいいようだ。」と綴ったように、本作も大いに楽しんだ。 早々に佐藤(三浦春馬)と織田(矢本悠馬)との間で交わされる会話で提示された“出会い”が本作のキーワードなのだが、出会いとくれば続く“巡り合い”との言葉を想起させるような数々の巡り合わせが巧みな運びで施されていたように思う。「こう来るんなら、こうでなくっちゃいけないよなぁ」と思わせるものをきちんと満たしてくれる心地よさと、「おっとそう来るか」とのハズされ感のほどのよさが実に愉しかった。前者ばかりになると見え透き感が強くなって心地よさが削がれ、後者にそりゃないよ感が伴うとシラケてくるのだが、僕にとっては、藤間(原田泰造)が言った“鋏の仕舞い忘れ”以外は、全てジャストヒットだった。 結局、最初に織田が佐藤に言ったようにハンカチや財布の落ちる劇的な出会いは、なかったということになるわけだが、そのエピソードの運び方がよく、また、もう一方で“折れた枝の落ちる出会い”が、十年越しのウィンストン小野(成田瑛基)のファイトを介したある種の巡り合わせとして生まれることを予感させてくれるところがいい。“出会い”の提起で始まった物語が数々の“巡り合い”で締められていた気がする。 そして、エンドロールで流れる斉藤和義の歌う♪小さい夜♪の歌詞にあるように、絵に描いたようには“劇的じゃないけれど”も日常に潜んでいる劇的な瞬間を幾つも描き出しつつ、何か繋がりのあるものとして捉えていたように思う。例えば、佐藤が小枝を踏んだ音で聴覚障害を持つ少年への暴行が止まったり、その少年(中川翼)が十年後にリングサイドで枝を折った姿(藤原季節)を観て小野が奮い立つことができたり、紗季(多部未華子)の乗ったバスを追って来た、『運命じゃない人』の宮田を思わせる佐藤が小枝を踏んだら、その音など聞こえるはずもない紗季が振り向いて彼の姿を見留めたりするわけだ。そして、情けない男にしか見えなかった父親(柳憂怜)が、いかにも彼らしく培った大人の知恵でウィンストン小野並みの奇跡のパンチを放つところを息子の久留米和人(萩原利久)が目撃する場面が訪れ、今度は和人が想いを寄せる美緒(恒松祐里)を救出する場面に繋がる。数々のエピソードを細切れにならないよう紡ぎ出した構成が見事だった。 だが、本当に凄いのは、日本人ボクサーがヘビー級で世界チャンピオンになるなどというような桁外れの出来事に匹敵するような数々のあり得なさそうな出来事を、逆に「典型的には“劇的じゃないけれど”も日常に潜んでいる劇的な瞬間」として描いていることに違和感を感じさせなかったことだというふうに思った。そして、その描出のなかに生の実感溢れる味わいの宿っているところがいい。 織田の妻を演じた森絵梨佳を映画で観たのは初めてのように思うが、なかなか素敵だった。そして、久留米の妻(濱田マリ)の存在と佐藤が織田の娘美緒に語ったエピソードが、織田夫妻の本間夫妻との違いを語るとともに、織田夫妻と久留米夫妻は案外、似たような夫婦とも言える気がした。 織田が言っていたように、求めるべきは“劇的な出会い”ではなく、“出会えてよかったと後々になって思える出会い”なのだから、出会った時点で決まるのではないことに間違いない。還暦も過ぎた僕の歳になると、つくづくその想いには沁みてくるものがある。また、仙台は当地に比べると大都市に違いないけれども、僕のように地方都市に住んでいると、人と人との思い掛けない巡り合わせにも卑近な現実感があって、人の生とはそういうものだという思いが強くなっているから、尚更に本作のような物語が味わい深く迫ってくるのだろう。何だかとても気持ちのいい映画だった。 | |||||
by ヤマ '19.10.10. TOHOシネマズ5 | |||||
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