『フィッシュストーリー』
監督 中村義洋


 アート系とエンタテイメント系というタッチの違いは明白ながら、先ごろ観たばかりのそして、私たちは愛に帰るにテイストの通じるところがある快作だった。日本には昔から「風が吹けば桶屋が儲かる」などという言葉もあるが、こういう作品を観ると、そのとき限りで完結し、将来に全く意味も影響も残さない時間と出来事など、ありはしないような気にさせてくれる。全てのことに意味はあり、価値があると思えるのは、決して不愉快なことではない。最後に「なぜ風が吹いて桶屋が儲かったのか」を軽快に繋いでいった場面に爽快感があった。

 麻美(多部未華子)が三年前のシージャックで犠牲者にされていたら、2012年の彗星衝突の回避が果たせなかったわけだから、カンフーに長けたコック(森山未來)がいなければ、地球は救われなかったのだが、彼が生まれ、父親(濱田岳)から帝王学ならぬ“正義の味方”学を叩き込まれなければ、そうはならなかったのだし、それには三十年前の合コンが大きな鍵を握っていて、“運命の人”との出会いとか“地球を救う”といった予言を受けたこと以上に、ほとほと情けない弱虫の自分の姿を突き付けられて自身に対する憤りを抱えた直後でなければ、彼は、目撃しながらも一度は背を向けた婦女暴行場面から結局は逃げ出していたかもしれないと思わせる部分があって、なかなか気が利いているように感じた。人の為す個々の善悪や個人の意思を超えたところで、この世界は成り立ち、動いていて、ろくでなしの大学生仲間さえも三十年後の奇跡に一役買っているわけだ。そして、そのときの彼らが聴いていた『フィッシュストーリー』の歌詞僕の孤独が魚だったら、巨大さと獰猛さに鯨さえも逃げ出すに秘められていた謎も明かされ、ますますもって“人の為す個々の善悪や個人の意思”に対する超越性が印象づけられるとともに、桶屋が儲かるに到った風が吹いたのは六十年も前だったことが明らかになる。ここのところを興醒めに感じさせない構成と展開というのは、けっこう難しいことのような気がして感心させられた。

 1953年・75年・82年・99年・02年・09年・2012年といくつもの時代が出てきたのだが、僕は、パンクファンじゃないながらも1975年の“逆鱗”の連中のエピソードを綴っていた場面が最も気に入った。しかし、よく考えてみると、三十年前のコックの両親の出会いのエピソードは、確かに非常に重要だけれども、それに比べると、むしろ、三十七年前のパンド“逆鱗”の曲『フィッシュストーリー』が“地球を救う”ことに果たした役割は小さいのだが、その曲を聴きながら話題にしていた「間奏中の無音の1分間の謎」に、怪しげな都市伝説を盛り込むことで、1982年の出来事にこの曲を結びつけ、うまく六十年の時間を取り込んでいたのが見事だった。そして、2012年に決定的な役割を果たす麻美については、ほとんど説明がされないままに運ばれているのも洒落ている。

 しかも、そのときは大したことをしている自覚はなく、むしろデタラメや挫折あるいは役にも立たないことをしているように見えても、人が一所懸命に取り組んだことは、家族を養うために夜も小机に向かって辞書を引きながら苦心惨憺したデタラメ翻訳であろうと、一向に売れないまま貫こうとしていた音楽性に賭けるバンド魂であろうと、倒すべき悪の見当もつかないままに積み重ねていたトレーニングであろうと、必ず意味を持っていて何か重要なことの役に立つ感じというものを観後感として与えられると、大した人生を歩んでいない僕らであっても、どこかしら人生というものへの肯定感を促してもらったような気になれる。そんなところが素敵な映画だと思った。さて、繁樹(伊藤敦史)の子を妊娠していた様子が窺えた波子(江口のりこ)の産んだ子供の人生は、その後どのように運ばれたのだろう。この物語に出てきた人物とどこかで交錯していたのかもしれない。そんなこともふと思ったりした。


推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0907_1.html
by ヤマ

'09. 7.11. 自由民権記念館・民権ホール



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