『惡の華』
監督 井口昇

 僕も高校時分、文芸部にいたようなクチだから、普通であることに耐えがたい自意識の過剰が招く象徴的イメージとしての“ボードレールの『惡の華』への憧れ”などは、痛く気恥ずかしく思い起こされるあの頃の原風景で、それがある種の変態志向といったものと隣接関係にあることも知っているし、そのことへの自覚が自身にもたらす不安と自己嫌悪という遠い日の記憶を呼び起こされて少々擽ったい気持ちになった。そして、画面のなかの若者たちにおける些か過激な発現状況に対して少々痛ましさを覚えつつ、また、若さの特権のようにも感じ、思いのほか面白く観た。

 嵐のような日々が過ぎ去った後のエンドロールを眺めていたら、押見修造による原作が「別冊少年マガジン」所蔵とクレジットされて、驚いた。文学にまつわる作品の原作が漫画という時代になっていることに感慨深いものがあった。漫画原作とは思えないくらい文学少年少女の気質が、春日高男(伊藤健太郎)と仲村佐和(玉城ティナ)の“変態と普通の間で揺れるキャラクター”に宿っていた気がする。佐和や奈々子(秋田汐梨)から何か言われるたびに高男が頻発していた「え?」という実に鋭さを欠いた間延びした反応や、時おり堪らず発する「わー!」という叫びに、彼の本質的な凡庸さがよく現れていて情けなくも可笑しかった。

 そして、佐伯奈々子を含めた早熟で複雑な三角関係を構成した三人が三人とも、ある種の通過儀礼を潜り抜けた後の道を落ち着きとともにきちんと見いだしている健全さに微苦笑を誘われた。中学の教室で夜、佐和に導かれた高男がリビドーを爆発させて笑い合った場面と、三年後の海辺の町を高男と常盤文(飯豊まりえ)が訪ね、佐和と浜辺で弾けた場面との対照に、そのことがよく現れていたような気がする。

 印象深かったのは、ラストにも現れた“惡の華”のイメージと重なるイメージで捉えられていた、玉城ティナの眼のショットだった。先に文庫本の『惡の華』の表紙カバー絵があってのショットだったのか、玉城ティナの見上げた眼があって、あのカバー絵が創られたのか、どっちだろうと思わされるくらい効果的な眼のショットだったように思う。

 ラストは、浜辺で「もうここには来るんじゃないよ」と高男に告げていた佐和と浜辺に腰を下ろし本を読み耽っていると思しき文学少女が被さりスライドするようなカットだった。佐和が既に“惡の華”の時期を通り過ぎていることを示しつつ、浜辺で読書している少女がまさに“惡の華”の時期にあることを指し示していたような気がする。
by ヤマ

'19.10. 6. TOHOシネマズ1


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