『ゴールデンスランバー』
監督 中村義洋

 随所でいろいろな触発を与えてくれる、とても面白い作品だった。

 例によって現実離れしたストーリーが展開するのは、いつもの伊坂幸太郎原作映画と同じで、そうしたなかに、人の心の真実に響いてくるものが織り込まれているところが、嬉しく、好もしい。エンターテインメントたるフィクションというものは、かくあってほしいものだと改めて思った。

 メディアによって作り上げられるイメージが影響力を持つ事のたちの悪さや、ケータイやらビデオカメラによって監視可能な状態に置かれている社会の気持ち悪さは、今更ながらのことではないけれども、追い込まれている弱者に手を貸す行為の素朴な爽快感や、理不尽な強者の謀略を微力なはずの個人たちが図らずも連携して出し抜く偶然の痛快さには、確かに「よくできました」と最後に花丸スタンプをあげたくなるような心地よさがあったように思う。しかも、その弱者に手を貸す爽快感や強者を出し抜くさまの痛快さは、そのこと自体に備わっているものであって、善悪とは直接関係してこないものであることを感じさせてくれるところが大いに気に入った。そのうえでは、連続殺傷魔と思しきキルオ(濱田岳)の存在が、僕には効いていた。

 そして、首相暗殺犯にでっち上げる謀略によって指名手配された青柳雅春(堺雅人)の父 一平(伊東四朗)がメディアの取材陣に向かって発した言葉が、実にかっこよくて、痛快だった。父親たるもの、かくありたいものだ。同じく伊坂幸太郎原作の映画重力ピエロの父親もかっこよかったし、本作と同じ原作・監督コンビのフィッシュストーリーでも、父親の薫陶というものが偲ばれるエピソードが込められていたように思う。

 また、「信頼」や「習慣」を台詞でも示された“武器”たらしめていた“共有する記憶”というものの掛け替えのなさについても、改めて思った。おんぼろカローラの活躍も、打ち上げ花火によって目を逸らせる撹乱作戦も、エレベーターのボタンの親指押しをとっさに変えてしまったからこそ与えた確信も、ただの丸ではない花丸スタンプの告げたメッセージも、書初めの文字による気の利いた手紙として届いた無事の知らせも、掛け替えのない人たちの間でその意味を共有できる記憶という拠り処がなければ、湧き得なかったことのような気がする。それどころか、むしろ符牒として機能する記憶を共有していることこそが、互いの存在の掛け替えのなさというものを担保する唯一のものだと言えるのではなかろうか。

 移ろいゆくことの避けがたい愛だの、その切れ目が縁の切れ目に直結してしまいかねない金だの、引退すると同時に人々が去っていく社会的地位や権力だのに頼っていても決して得られない一方で、もしそういったものを得ていても、それを通じて“共有する記憶”さえ担保することがきちんとできていれば、たとえ愛が移ろうとも、金が切れ、地位を退こうとも、人は掛け替えのない存在を人生において得られるということではあろう。十年前に観たコキーユ 貝殻に描かれていた、浦山が忘れていた思い出を取り戻すことで得た掛け替えのなさも、ここのところに通じてくるものだったような気がする。

 やはり学生時代というのは“黄金のまどろみ”なのかもしれない。十二年前に綴った四月物語の映画日誌のことを思い出した。





参照テクスト:原作小説の読書感想


推薦テクスト:「とめの気ままなお部屋」より
http://blog.goo.ne.jp/tome-pko/e/46943a621b05580f9d01d1c254b09449
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2010kocinemaindex.html#anchor001982
推薦テクスト1推薦テクスト2:「シネマの孤独」より
http://cinemanokodoku.com/2018/03/06/goldenslumber/
https://cinemanokodoku.com/2019/08/11/goldenslumber-3/
by ヤマ

'10. 2.26. TOHOシネマズ3



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>