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“ジャコ・ヴァン・ドルマル監督&ミシェル・アンヌ・ドゥ・メイ『キス&クライ』日本初演”記念上映会
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自分たちで上映した『トト・ザ・ヒーロー』['91]の後、『八日目』['96]、『ミスター・ノーバディ』['09]と、これまで全作品を観ることができていたドルマル作品の最新作もきちんと観る機会が得られて何だか嬉しかった。最初に観た『神様メール』['15]は、いかにもジャコ・ヴァン・ドルマルらしいヘンな映画だった。ただ、旧来のキリスト教的世界が主導するパラダイムは行き詰っているとの作り手の思いだけはよく伝わってきた。父なる神(ブノワ・ポールヴールド)を、これまで彼から抑圧されていた女神(ヨランド・モロー)に置き換えることで解決できるような問題ではないのだが、少なくとも現況では、たとえ人間に余命通知がされなくても、どうにもならないところまできている気がする。そのような作り手の思いが、神の堕落というか体たらくに端的に示されていたように思う。 遊び心満載という以上に、かなり挑発的な作品で、キリスト教関係者が本作をどう観るかということが興味深く感じられ、早速に知り合いの映画好きの牧師に是非とも観るよう勧めた。一年余り前に観た『人生スイッチ』は本作の前年作だが、本作の父なる神の悪ふざけで急落する旅客機の姿に同作を思い出すばかりか、奇跡とも摩訶不思議ともいうような出来事の起こる世界を描く点において、本作に影響を与えた作品だったのではなかろうかという気がした。遊び心という点では何と言っても、カトリーヌ・ドヌーヴの演じたマルティーヌが恋したゴリラとベッドインする顛末に、大島渚監督の『マックス、モン・アムール』['86]でのシャーロット・ランプリングを想起させていたことが印象深い。ドヌーヴはやはり大した女優だと改めて思った。 また、秋に予定されている『キス&クライ』のライブ公演の予告映像と被る場面もあり、なかなかいい感じだった。手首から先の動きを人に模したパフォーマンスは、ライブだと手首から元の部分をどのようにして隠すのか興味津々だ。 その手首の動きの振付をするミシェル・アンヌ・ドゥ・メイがダンスの振付をした3本の記録映像は、それぞれ'89年、'93年、'99年と前世紀のもので、時を経るごとに洗練度が増してきているように感じた。回転する動きと崩れ落ちる動きをよく使っていたような印象がある。 二週間後に六年ぶりで再見した『ミスター・ノーバディ』では、あたご劇場で観た当時よりも自分の記憶力というものが老いて覚束なくなっているせいか、本作で繰り広げられるニモ(ジャレッド・レトー)を観ていると、過去の記憶も未来の予言も、当てにならない覚束なさではそう大した違いがないのかもしれないなどと思った。そして、起こり得たもう一つの人生という点では、先ごろ観た『ラ・ラ・ランド』を想起したりもしたが、本作のほうは、人生のなかに普遍的に潜む“ほろ苦い甘酸っぱさ”というものが心に沁みてくるような味わいには乏しく、どちらかと言えば、哲学的な刺激に富む作品となっているように思った。 それにしても、百二十年近く生きてきていても、三十四歳で止まってしまう人生というのは、何ともさびしい。前回観たときにはそんなふうには余り思わなかったのだが、今回再見して最も強く感じたのはそのことだった。この六年の違いというのは何だろうと考えてみて、まもなく還暦を迎えることになっているからかと最初思ったが、よくよく考えてみると、いちばんの違いは六人の孫たちとの関わりだと気が付いた。六年前は、いま七歳の初孫しかいなくて、また幼過ぎて僕との関わりも今ほど濃密ではなかった。孫たちの存在がもたらしてくれているものの有難味を改めて知らされたように思う。三十四歳で止まってしまうニモ・ノーバディの回想に登場したのは、当然ながら子供たちまでだった。 参照テクスト:“『キス&クライ』日本初演”記念上映会 http://www.kochi-bunkazaidan.or.jp/~museum/contents/hall/hall_event/hall_events2017/kissandcry/hall_event17kissandcry.html 参照テクスト:“『キス&クライ』日本初演”ライブ備忘録 http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/2017/27-1.htm | ||||||||||||||
by ヤマ '17. 8. 6 & 19. 美術館ホール | ||||||||||||||
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