『トト・ザ・ヒーロー』(Toto Le Heros)
監督 ジャコ・ヴァン・ドルマル


 どちらかというとエキセントリックで構成も錯綜した物語なのに、見終えた後、静かに湧いてくるのが人の生の沁み入るような深い哀しみの感情なのは、どうしてなのだろう。恐らくそれは、主人公トマの殆ど劇画的と言えるほどにカリカチュアライズされた記憶という名の幻想を描き出す監督の眼差しが、このような作品の文体とは裏腹に人の生の核心に触れているからである。

 大きな対象喪失や欠落感が事実と必ずしも一致しない幻想を記憶として定着させ、事実以上の現実感を与えることは、トマに限らず誰にでも起こる普遍的なことである。しかし、トマほどの大きな乖離をもって長き人生を支配し続けた果てに、その乖離を突きつけてこられることは余りない。「私の人生には何ひとつ起こらなかった。」という導入の科白は様々なものを暗示している。言うまでもなく、彼の人生が平穏無事だったわけではけっしてない。トマにしてみれば、「(私の望むものは)何も起こらなかった。」ということであろう。しかし、観客が観て取るのは、「(彼の記憶通りのことは)何も起こらなかった。」ということなのである。そして、人にとって意味を持っているのは、事実による客観的な現実ではなく、記憶という名の歪められた幻想のもたらす現実感であり、しかもその歪みが自身の欠落感の転位した攻撃対象とか自己防衛のためのすり替えとか、何れも自身が生き延びるために無意識にやむをえず行なっているものであるところが人の生の哀しさなのである。トマの死が哀しいのではない。むしろ、あの死は、彼にとって唯一の救いであったように見受けられる。哀しいのは、主観と客観の間の大きな乖離が避け難い人の生とそれが死によってしか救われないという人生の結末なのである。

 それにしても、ドルマル監督の記憶という名の幻想を綴る語り口は見事であった。記憶の持つ没時空性は、カットバックの多用による錯綜した構成によって忠実に再現され、幻想の持つ超現実的な現実感は、変に明るくて変に素頓狂な実にエキセントリックな文体で描かれることによってリアリティが増している。それでいてエピソードが断片的になったり、イメージが支離滅裂になったりすることがなく、一定の基調を保っている。錯綜した構成とエキセントリックな文体というのは、おのずから観客を覚醒させるのだが、にもかかわらず見終えた後にじわっと深い哀しみの情感に浸らされるというのは、安手のドラマにありがちな情緒的な音楽による煽情とかお涙頂戴の臭い演出とかの対極にあるもので、生半可の技で為し得るものではない。ドルマル監督がその作家性を高く評価されたのもそれゆえであろう。

 ただ残念なのは、この作品を観ていて、チラシ等に謳われていた笑いの要素が期待していたほどになく、ラスト・シーンの高らかな笑いがむしろ皮肉なほどにペシミスティックな印象が深くて、いささか遣り切れなかった点である。エキセントリックな文体がかつて観たジョージ・ロイ・ヒルの『ガープの世界』を思い出させたが、あの作品もペシミスティックな人生観が支配的でありながら、そのなかには人間の持つエネルギーやユーモア、人生の滑稽さや残酷さ、それこそ生の実に豊かな宇宙的世界が造形されていたように思う。
by ヤマ

'92. 7. 2. 県民文化ホール・グリーン



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