『わたしは、ダニエル・ブレイク』(I,Daniel Blake)
監督 ケン・ローチ

 求職手当の担当者アン(ケイト・ラッター)が、継続受給を断念しかけたダニエル(デイヴ・ジョーンズ)に思い止まらせようと「求職と面談だけは続けて。根がよくて正直な人たちがホームレスに転落するのをたくさん見てきた。」と諭すのを観ながら、先進国とされながら、男はホームレス、女はフーゾクへと追いやられるのは、いずこも同じ格差社会の在り様なのだと情けなくなった。

 思えばイギリスは、プライベート-ファイナンス-イニシアチブ【PFI】やアウトソーシングといった行政サービスの市場化を唱えるニューパブリックマネジメント【NPM】を先駆けて導入した国だった。本作でダニエルの福祉給付たる支援手当の継続審査に対し求職可能として打切り判定を下したのは、米国企業による請負業者だったように思う。作中では、無意味と思える質問に辟易としたダニエルのいわゆる反抗的態度に対して審査担当者が少し悪意を働かせた形になっているように描かれていたが、その背後には競争原理の導入による公的業務の市場化が間違いなく影響しているように感じた。

 米国保険会社が保険請求に対していかに厳しく粗探しをして不払い査定を行えるかが、担当者の昇進昇給の鍵を握っている姿をドキュメンタリー映画で捉えていたのは、十年前に観たシッコ(監督 マイケル・ムーア)だったように思うが、求職可能が理由で福祉給付としての支援手当が切られた以上、公的給付の道は求職手当しかなくなるわけで、その継続受給を確保するためには、たとえ求職不能であっても求職活動をしなければならない矛盾が生じることになる。

 実直そうだからと採用連絡を受けたダニエルが実は働けないと断りを入れた際に、それならなぜ求職に来たんだと、履歴書の読み比べに時間を割かれたことへの咎めとともに、その不誠実な態度を詰られたことで湧いた申し訳なさと自尊心の傷つきに耐えられなくて、継続受給を断念しようとしたことがよく伝わってくる朴訥な人柄が味わい深かった。困窮者への行政サービスによってあてがわれたアパートで暮らすために都会のロンドンから遠く離れたニューカッスルに幼い子ども二人を抱えて越してきたケイティ(ヘイリー・スクワイアーズ)の寄る辺ない苦境に見て見ぬ振りができないのも、同じところに根ざしているのだろう。子どもを喜ばせようにもカネのかかることはしてやれないケイティが汚れた浴室の掃除に精出していて剥がれてしまうタイルに涙したり、フードバンクで醜態を晒してしまう惨めさに泣き出す場面の痛切さが大いに応えた。

 また、就業できないのに求職活動をしなければならない羽目に陥ったダニエルが、支援手当の打切り査定への不服申立てをしようにも、不服申立てをするには再審査を経てからでないと受理されないことや、再審査を求めても査定結果が覆ることは殆どないといったことが説明される背後には、前述のNPM理論による“公的業務の市場化”のみならず、日本の司法制度において原判決破棄が非常に少ないことにも通じる“組織の論理”といったものが透けて見えるように感じられた。

 生活困窮それ自体をなくすことはなかなか困難かもしれない。しかし、窮状だけならば助け合いによって凌ぐこともできなくはないけれども、生活困窮に見舞われることによって子どもがいじめを受けたり、不本意な不実を強いられたりして“人間としての尊厳”が奪われることには我慢ならない。そういう作り手の怒りが強く静かに伝わってきて、格差助長社会への憤りを新たにするとともに、四年前に観た放射線を浴びた[X年後]』の映画日誌あれから半世紀以上経って新世紀になっても、基本的に政府のスタンスは何ら変わることなく、自国民への思いよりも常にアメリカの顔色を窺ってばかりいるわけだ。郵政民営化であれ、TPPであれ、強欲資本主義の米国ファンドの狙っているものが、ジャパンマネーの内部留保としての郵貯残高や年金・医療保険などの資金であることを承知のうえで、「一丁目一番地は規制緩和だ」などと甲高い声で調子に乗っている竹中平蔵のことを想起しながら、何だか腹が立って仕方がなかった。と記したことを思い出し、またぞろ腹立たしくなった。




推薦テクスト:「ケイケイの映画通信」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1959557690&owner_id=1095496
 
by ヤマ

'17. 8.13. あたご劇場



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