『ゆれる』['06]
監督 西川美和

 本年度のソーレ主催事業「わたしのためのリフレッシュタイム~夜編~」にて、『スープ・オペラ』(監督 瀧本智行)を観た際に、ちょうど図書室に置いてあったので借りてきたDVDで再見した。

 原作小説を読んだとき“稔の落涙”が映画ではどうなっていたか観直してみたい気がした。と記した部分については、映画では深々と下げた頭は映しながらも、顔は見せていなかった。

 十年前の掲示板談議において多勢に無勢となった稔と智恵子の性関係については、再見しても、僕にはそうとしか思えなかった。三人で出かけた渓谷で猛に「あの人、もう気づいてるんじゃないかな」と言った智恵子の「あの人」という言葉の使い方には、そういうものが宿っていた気がするし、智恵子の死の後、客とのトラブルに激高してフロントグラスを叩き壊す変貌を稔が見せるのも、高いところも揺れるところも苦手なのに、彼女を死に至らしめる追詰めを行うことになった吊り橋に稔を向かわせたのも、そもそも帰宅の遅かった猛に妙な鎌の掛け方をしたのも、それがあったからこそだと思う。

 猛がずっと囚われていたのは罪悪感だったわけだが、そのピークは、やはり葬儀の後、シャワーを浴びながら智恵子との情事を思い出し思わず嘔吐したときにあったのだろう。兄に対して抱いた罪悪感以上に、智恵子に対して募るものがあったように映った。だが、七年後に母親の遺品のフィルムを観て、幼いときに自分は渓谷に行ったことがないと思っていたのが兄の言うように記憶誤りだったことを目の当たりにして、七年前の渓谷で野花の接写撮影から振り返って見上げた際に確かに目撃していたはずの兄の衝動的な殺人行為の後の救助の手を転落事故における救出のように想い起したのは、罪悪感がもたらしたものとは違うことを明瞭に描き出していたところが、なかなかの作品だと改めて思った。

 智恵子が吊り橋の上で叫んだ「やめてよ!触らないでよ!」も、猛が東京に誘ってくれたという嘘も、彼女の母親が猛に問い掛けた「あの子は、殺されるような悪いことを何かしたのでしょうか?」と言うには酷な無理からぬ言葉ではあったが、智恵子のことがなくとも弟に対する嫉妬に屈託を抱えていたと思しき稔には、このうえない凶器の刃となる言葉だったのだろう。是非も無いことながら、その二つの言葉さえなければ、と思わずにいられない巡り合わせだった。

 掲示板談義で話題になった稔のエプロンないし割烹着については、そのいずれでもなかった。にもかかわらず、そのような女性姿を印象付けた香川照之の演技は流石に見事だと改めて思った。

 再見した後、観た当時の映画日誌を久しぶりに再読したら、我ながら少々感心した。一回観ただけでここまで綴ることのできる集中力を今はもう失っている気がした。




参照テクスト:十年前の映画日誌
http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/2006j/16.htm

 
by ヤマ

'17. 8.20. DVD



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