『奇跡の海』(Breaking The Waves)
『八日目』(Le Huitieme Jour)
監督 ラース・フォン・トリアー
監督 ジャコ・ヴァン・ドルマル


 『奇跡の海』(ラース・フォン・トリアー監督)、『八日目』(ジャコ・ヴァン・ドルマル監督)を続けて観た。ともにかつて観た作品では、独特の映像感覚で強い印象を残してくれた監督である。前者は『ヨーロッパ』(1991)で、昨今はやりのハイテク駆使のデジタル感覚に満ちた映像ではなく、おそらくはハイテックな技術を駆使したとてつもなく凝った映像でありながら、ローテックな肌ざわりとアナログ感覚とに満ちた懐かしさを印象づける独特の魅力を放っていたし、後者は『トト・ザ・ヒーロー』(1991)で錯綜した構成とエキセントリックな文体を繰り広げながら、エピソードが断片的になったり、イメージが支離滅裂になったりすることなく、一定の基調を保ったうえでの絶妙の効果と抒情表現を果たしていて、強烈な印象を残してくれていた。

 ところが『奇跡の海』では、凝った映像は、各章の扉とでも言うべきタイトルを映し出す部分とラストにしか現われず、音楽もまた、そこでしか使われない。そして、本編は全面的に、手持ちカメラの生な映像でもって綴られる。この意図的な対照が観る側に手持ちカメラであることを強く意識させるのだが、そこにはチラシに書かれているような「ラブ・ストーリー独特の甘さを一掃する」ドキュメンタリータッチということよりも、ベスの同伴者としての神の眼という視点が意図されていたように思う。『都会のアリス』(ヴィム・ヴェンダース監督)を撮ったロビー・ミュラーが撮影監督をしており、ヴェンダースを媒介にして、彼が撮影監督をしたわけではないけれども『ベルリン・天使の詩』(1987)で無力な同伴者としての天使が描かれたことを想起させる。
 この無力で愛と悲しみを共感することしかできない同伴者としての神のイメージは、僕にとっては遠藤周作の小説によって提示されたものという記憶があり、遠藤の言によれば、欧米の正当なキリスト教の「神」観からは異端のものであると読んだ覚えがある。だから、『ベルリン・天使の詩』を観たときには少し驚きを感じるとともに、ヴェンダースの日本への関心の持ち方について興味と想像を掻き立てられたものだ。しかし、『ベルリン…』では、同伴者は所詮天使であって、神ではない。『奇跡の海』でも、同伴者のイメージは提起していても、神は、無力な共感者とは正反対の存在である。日本、ドイツ、デンマークの現代作家が描く神のイメージの微妙な相違と共通性が興味深く、“神は死んだ”とされる今世紀において、世紀末を迎える今なお、このように強い関心と問題意識をもって神と愛と奇跡が描かれることに感銘を受ける。

 『八日目』もまた、そういう意味では、神と愛と奇跡の映画である。『トト・ザ・ヒーロー』で見せたほどの奔放さや強烈さ、そして人生観の深みはなかった分、観終えた後、人の生の深い哀しみが沁み入るように静かに湧いてくるようなことはなかったが、やさしい共感と心地よさを誘ってくれる。特に印象深い「いい一分間だった」とジョルジュが呟く場面だけでなく、シーンやショットの作り方や繋ぎ方には独特のものがあり、実に上手く、個性的で印象深いシーンやショットが随所に溢れている。
 ただ、最後にジョルジュを死なせてしまう展開はどうだったのだろうという疑問は残った。自殺ではなく、ママのところに帰って行っただけなんだというにしても、結果的にアリーにとっては、あるとき自分のかたわらに天使のように舞い降りてきて、失くしていたはずの一番大切なものを甦らせてくれ、そして都合よく去っていってくれたことになる。しかも、『トト・ザ・ヒーロー』のように、高らかな笑いがむしろ皮肉なほどにペシミスティックな印象を残し、いささか遣り切れない思いを起こさせるようなラストシーンではなかったために、何だか安直な逃げをうった印象を残さないでもない。
 だが、無論のこと、いたずらにペシミスティックで深刻な思いに人を誘い込めば、それでいいというわけではない。むしろ、反対だと思ったからこそドルマル監督は、このような作品を撮ったのであろう。でも、そうであれば、なおのことジョルジュは死なせないほうがよかったと思う。しかし、ある程度、厳しい現実の問題を知ればこそ、脳天気なハッピー・エンドにはできなかったのだろうし、それ以上に、ジョルジュに天上に舞い昇る天使のイメージをより強く付与したかったという意図が働いたのではないかという気がする。それはそれで分からなくはないとも思う。

 もう一つの疑問は、神と愛と奇跡の物語において、神に最も近い処にいる存在としてダウン症者を登場させることの持つ意味である。『奇跡の海』のベスが、精神病院に入院していたことのある少し頭の弱い娘として登場することとも共通しているが、無垢なる魂の持ち主として、知的障害者にある種の役割が負わされることには、十五年以上も前のことではあるが、かつて精神薄弱児収容施設で指導員として働いたことのある身としては、抵抗を感じなくもない。実際、現実にそういう面があるので、無理もないというところもあるのだが、プラスのイメージであれ、マイナスのイメージであれ、特殊な眼で見るという点では差別や偏見と変わらないではないかという思いも湧くし、本当の意味で理解し、付き合っていこうとする場合には、そのことが却って妨げになることもあるような気がする。
 少なくとも、無垢なる魂の持ち主の役回りを彼らに割り当てることによって、観客の大半を占める健常者は、彼らだからという逃げ道と安心の担保を与えられる。その分「人間の魂と自分」という問題の本質から眼をそらしてしまうおそれがある一方で、我が身の脅かされる度合いが少ない分だけ共感も示しやすくなる。しかし、フェリーニ監督が『道』(1954)を撮ってから五十年近くも経って、いまだに彼らがこういった役回りでしか語られないのは、やはり残念だし、疑問を感じる。
 とは言え、彼らへの差別や偏見をいくらか緩和するうえでは、現実的に効用があるのは、以上でも以下でもない形で彼らを描くことよりも、やはりマイナスを凌駕するプラスイメージの提示のほうなのだろうとも思う。自分も含め、多くの人が本当の意味で理解し、付き合っていこうとする状況が生まれるとも思えないなかでは、本当の理解よりも、差別や偏見をいくらかでも緩和するほうが急務であるし、現実的でもある。そういう意味では、こういった作品がどんどん作られ、多くの人の眼に触れるようになるといいのだろう。何も仰々しいことを言わなくても、ジョルジュとアリーの出会い、触れ合い、関わり合いとしてだけ観ていれば、ちょっと素敵でやさしい気分になれるのだろうから。


*奇跡の海
推薦テクスト:「Silence + Light」より
http://www.tricolore0321.jp/Silence+Light/cinema/review/kisekino.htm
by ヤマ

'97. 8.30. & '97. 9.12. 県民文化ホール・グリーン



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