『私の男』
監督 熊切和嘉

ヤマのMixi日記 2014年10月01日23:15

 直木賞受賞という原作小説は未読だが、なんとなく原作共々、性に合わない気がした。渇き。を思わせるようなところがあるが、熊切監督にはクリエイターとしてのスケベ心といった作り手の悪趣味感が窺えはしなかったので、嫌な感じはないのだが、何とも陰鬱で…。

 どうしてこれがモスクワ映画祭で高い評価を得、原作小説が直木賞を受賞しているのか、合点がいかないくらい、僕には響いて来ない作品だった。


コメント談義:2014年10月02日 13:16~2015年10月12日 12:53

(TAOさん)
 映画と原作とは別物だと思います。
 解釈はそれぞれの自由だからいいのですけど、
 原作ファンとしてはどうも納得いかず・・・感想も書いていません。
 熊切監督だから期待してたんですけど。

 原作は結婚式場に現れたよれよれの中年男を見て、
 新婦である主人公が回想する構成になっていて、
 その思い出は陰惨で饐えた臭いがするのに甘美で、
 主人公はすでにその共依存には安住できないくらい成長しているけど、
 あれはまぎれもなく「私の男だ」と思ってるんです。
 二人とも壊れてるんだけど、他人には窺い知れない絆で結ばれていて、
 それぞれに筋を通そうともする。
 そのあたりがとても素敵なんですけど、
 まあたしかにヤマさんの好みではなさそうですよね(笑)。

 映画ではヒロインが途中からモンスターになってしまうのが違和感で、
 とくにあのラストはぜったいちがう~と個人的には思ってます。


ヤマ(管理人)
 ◎ようこそ、TAOさん、

 ご覧になっていないはずはないと見込んだのに、インデックスになくて、
 例によってリンク漏れかと公開時期の日記をも漁ったのに、見当たらず、
 おかしいなぁと思っていたら、そういう事情でしたか(笑)。
 基本的に悪口はお書きにならないですものねー。

 TAOさんが原作ファンと伺って、俄然興味が湧いてきましたよ、桜庭作品。
 まだ一作も読んだことがないですし。
 例によって、いつになるやら分りませんが、心に留め置いてはおこうと思いました。

 「それぞれに筋を通そうともする」という作品なら、僕の好みですよ、
 たとえ、どんな筋の通し方であれ。
 ヤクザ的美学は性に合わなくなってきてますが、
 任侠的美学なら、まだまだいけますし、
 OUT死ぬまでにしたい10のこともOKでしたからねー(笑)。

 ラストというと、坊ちゃん然とした婚約者(三浦貴大)との三人での会食の
 テーブルの下で『青い体験』もどきの悪戯を仕掛ける場面のことですね(笑)。
 ちょっと筋の通し方が違うというより、あれじゃ筋通してないですよね。


(TAOさん)
 やや、そうでしたか、お手数おかけしてすみません!
 そうなんです、悪口はあまり書いてて楽しくないもんですから。
 とくに原作と違う云々はねえ。

 初めて読んだ桜庭一樹がこれだったので、
 他のも勢い込んで読んでみましたが、
 ライトノベルと南米文学が融合したような饒舌な作風がどうも苦手で、
 好きなのは本作だけなんですけどね。
 文庫本も出てるのでそのうち読んでみてください。
 映画は感心しないと言っていたうちの夫も
 あとで読んだ原作はよかったと言ってました。

 『OUT』も『死ぬまでにしたい10のこと』もOKでしたからねー(笑)。
 あは、そうでしたね!ではほんとぜひお試しください。
 リアルな小説ではなくて妄想だけで描いたような小説ですが、
 その中に引きずり込まれずにはいられない、活字の快楽があります。
 花はファムファタールではなく、もっとひたむきなサバイバーだし、
 淳悟もちゃんと彼なりの結婚祝いを贈るんです。
 あのラストさえなければまだ許せたんですけどねえ(笑)。


ヤマ(管理人)
 「活字の快楽」ですか! 魅せられますねー。
 「ライトノベルと南米文学が融合したような饒舌な作風」ってのも気になります。

 それはそれとして、僕は原作と違うことを非とはしない立場なんで
 むしろ敢えて違えていることの意味を探りたくなるのですが、あまり違えていないと、
 先に原作を読んでいる場合に持ったイメージによる
 バイアスがかかりやすくなるのが難点ですね。


一年ほど経って…

ヤマ(管理人)
 原作、読みましたよー。
 確かに、映画とは違って、なかなかの作品でしたね。
 原作小説については、感想文も綴りました。


(TAOさん)
 ヤマさん、原作を堪能されたようで、お薦めした甲斐がありました。

 原作の“手ひどい過去”は、陰鬱どころか、甘美な過去でもありますよね。
 「私の男」というタイトルが効いていると思いません?

 熊切監督はたぶん娘に囚われてしまった父親の立場から
 手に負えない小悪魔みたいな娘の像を創り上げたんだと思うんです。
 まぁ、そういう解釈もあっていいとは思いますが、
 原作のいちばん大事なところが抜け落ちてる気がします。

 性というフィールドにおいて男性が女性に到底かなわないのは
 文学でも同じだなと改めて思った。
 そういうふうに考えたことはなかったのですが、そうなんでしょうかねえ。
 そのわりに映画ではあまり女性の描く性に感心したことがなく、
 むしろ興醒めするんですけど、女性監督の比率が少ないから?


ヤマ(管理人)
 これ、単に回想ではなく、まさにペパーミント・キャンディと同じく
 過去のその時々はリアルタイムの語りになっているところが重要で、
 2000年1月、15歳のときは
 わかるもの。選んだもの。わたしが……とも言っているわけです。
 でも同時に「わたしは汚れてる」とも言っていて、
 8年後にはまとめて「手ひどい過去」となるんですね。
 それでもなお「私の男」という部分は拭い去っておらず、
 自身を被害者なんぞに仕立てあげてはいませんでした。

 記憶の異相って彼らのような飛び切りの秘密を負っていなくても
 男女関係においてはわりあい頻繁に見られることで、
 そのあたりをも偲ばせながら、花における「私の男」の存在、
 そのうえでの15歳のときの“選んだもの”、美郎と出会ってからの“選んだもの”
 そして、24歳のときの“選んだもの”というものに
 納得感とリアリティがあるように思いました。

 でも、9歳のときに父親から「生きろ!」と残されて以降の自身の選択に、
 ずっとずっと不安感を抱き続けている感じというのもよく伝わってきて、
 だからこそ、『ペパーミント・キャンディ』のように
 人生の終末から逆進したのではない花の人生の
 尾崎花としてのその後がどうなったのか、気になるところだし、
 その覚悟のほどを知ればこそ
 足を引っ張るまいと忽然と姿を消した淳悟の人生が気になるところなのですが、
 今回の更新でサイトアップした約束の地』の映画日誌に言及したように、
 かの映画作品の老女の姿に、本作の花の終末期を観るような気がしたのでした。

 手に負えない小悪魔みたいな娘の像
 これが監督のものか脚本家の解釈なのかは定かではありませんが、
 原作感想文に抜書きした1996年3月の小町の弁にあるように、
 また、原作の読後感からしても、
 作者の造形した娘像とは異なっている気がしますね。
 演出的には監督のイメージに
 上にも書いた『青い体験』があったのは間違いなく思いますが、
 ローティーンの少年の振る舞いを引用するのは適切じゃない気がします。
 僕も「原作のいちばん大事なところが抜け落ちてる」に賛同します。
 ま、TAOさんがこの談義の最初にお書きのように、映画と原作とは別物ですから、
 抜け落ちて替わりに相応のもので埋められていればいいのですが、
 それが『青い体験』じゃあ、
 被災も父子相姦も殺人さえも経て来た彼らの最後の場面に
 とても見合うものじゃありませんよね。

 映画ではあまり女性の描く性に感心したことがなく、むしろ興醒めする
 それって、西川みわ監督のこと?(笑)
 まぁ小説は、作者とせいぜいで編集者という少人数で作り上げますが、
 映画は、たくさんの技術者による共同作業ですからねー。
 まして、他の業界以上に男社会と言われて久しい業界で、
 そこでやってる女性は生物学的に女性であっても、
 実は女性ではないらしいです(笑)。


(TAOさん)
 ずっとずっと不安感を抱き続けている感じ
 そう、そこは大事なところですよね。
 だからこそ花は「私の男」を捨て、結婚するわけで、
 それで淳悟が死んだとしても後悔はしない覚悟で臨んでいるのに、
 「青い体験」ごっこなんてしている場合ではないはずなんです(苦笑)。

 これだけの覚悟をした花は、
 きっと新しい家族をつくって大切に守り続けると思いますよ。
 『約束の地』の老女から花の老後を連想するのはちょっと驚きました。

 『約束の地』の父親は娘の成長を受け入れられないだけで、
 支配欲はあっても性的な欲望は介在していないように見えますし、
 被災によって家族を失い、擬似的な父娘よりも
 強くたしかな絆を求めて淳悟と対の関係になることを選び、
 成長してからは淳吾から離れるために新しい家族を求めて結婚した花が、
 家族は消え去る運命。時間とともに。それでいいのとは、
 口が裂けても言わない気がします。


ヤマ(管理人)
 淳悟の失踪に呆然とする花の姿で終わった「第1章 2008年6月」は、
 時制的には最後の場面となりますから、
 再びわたしは、真っ暗な絶望の穴に突き落とされた。 あぁ。おとうさん……。おとうさんは、かつてわたしと愛しあっていたことを、忘れないでいてくれるだろうか。もしも、これっきり、逢わなくても。…そうしてわたしは、これから、いったい誰からなにを奪って生きていけばいいのか。…澱んだ川と、くすんだ色の河川敷が続いていた。私の男がいなくなったわたしの道が、どこまでもどこまでものびていた。 西陽が弱まってきた。空が藍色に垂れこめた。日が、暮れてきたのだ。(P63~P64)
 で終わっているわけですよね。

 そういう花だから、当然ながら「青い体験」ごっこは全く馴染まないわけですが、
 さりとて「きっと新しい家族をつくって大切に守り続ける」とも思えませんでした。
 拙感想文に記した「手ひどい過去までも、ずるく塗りかえてしまいたかった。」
 という思いで結婚した花がどうなっていくか
について、
 僕が『約束の地』の老女の「家族は消え去る運命。時間とともに。それでいいの」を
 想起したのは、それゆえでもあります。

 美郎は求めた家族というよりも、
 断ち切るべき家族たる淳悟から逃れるための手段であって
 こういう男の人とだったら、…ぜんぜんちがう生き方ができるかもしれないということで
 選んだ相手でしたからね。
 もっとも習い性になるというか、
 花が15歳のときに自ら選んだものだと宣言していたように、
 美郎との生活をもまた
 逞しく甘美に生き重ねていく余地がないわけではありませんが、
 環境適応力に富んだ女性の可塑性をどこまで信頼できるのかという辺りが
 分かれ目なのかもしれませんね。

 『約束の地』の父親は娘の成長を受け入れられないだけで、
 支配欲はあっても性的な欲望は介在していないように見えます
 というのは、同感なのですが、その一方で、
 娘への執着に些か過剰なる熱情を感じないではいられませんでした。
 淳悟と同質のものを感じていたわけではないものの、娘からすれば、
 冒頭シーンの寄り添いとそこからの逃避について、ある種の相関性を感じました。
 駆け落ち相手のコルトが殺されたのち、いかなることを経験したのかはともかく、
 路頭に迷ったときに、父親は帰るべき地として約束された場所では
 なかったわけですから。

 ともあれ、いろいろご提起いただいたおかげで、
 自分のなかでの想念が深まりました。
 父親と娘の関係というのは、実に難しいものだと改めて思います。
 淳悟の最後の選択は、そういう意味では、とても立派なものだった気がしますね。




参照テクスト桜庭一樹 著 『私の男』(文藝春秋 単行本)を読んで

編集採録 by ヤマ

'14.10. 1. あたご劇場



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