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『私の男』を読んで | |||||
桜庭一樹 著<文藝春秋 単行本> | |||||
映画化作品は一年ほど前に観たものの、最初『渇き。』と錯覚したほど記憶に薄く、浅野忠信と二階堂ふみが主演していたことは思い出したが、共演者の顔が浮かばない体たらくだった。第138回直木賞受賞作の原作小説を読んでみると、韓国映画『ペパーミントキャンディー』['00]を想起させるような“時制の逆進”と小説『告白』を想起させるような“章ごとに語り手の変わる一人称語り”が目を惹いたが、『告白』よりは本書の刊行のほうが先立っていたようだ。 それにしても、9歳で両親を奥尻の震災で失い、引き取ってくれた16歳年上の親戚の男を、淳悟と名前で呼んだり、私の男、養父、おとうさん、と呼んだりする24歳の女性の胸中というのは凡そ想像の埒外で、なかなか興味深かった。おまけに二人は飛び切りの秘密を共犯者として抱えていたりするから、尚更のことだ。第1章、第4章、第6章の語り手となっている腐野(竹中)花はもちろん、第3章の腐野淳悟も何とも不可解な人物像に映ったせいか、第2章の語り手たる尾崎美郎の人物像に妙につまされた。 花は、淳悟が自分を引き取ってくれたときと同じ歳の美郎と21歳で知り合い、二年半余りで結婚したわけだが、尾崎美郎は、淳悟とはまさに対照的な恵まれた境遇に育ち、25歳のときに「仕事にすこし慣れてきて、時間の作り方を覚え、あせらなくても、要領よくやれば、学生時代と同じように友達とのつきあいや自分のための余暇を楽しめる、とわかってきたところだった。やり過ぎない程度にきちんと仕事をこなし、ランチは友人とのつきあいに使い、夜は恋人と会ったり、趣味に興じる。父には、男のくせに意欲が足りないなどと説教されるけれど、意欲なんてものはありすぎても、なさすぎても生きるのに不便なだけだろうと思う。日々は安定して、それなりに刺激にも満ちていた。僕は概ね、自分の生活に満足していた。」(P68~P69 第2章 2005年11月)などと考えていた。 そんな美郎と、「こういう男の人とだったら、絶望的に絡み合うのではなくて、息もできない重苦しさでもなくて、ぜんぜんちがう生き方ができるかもしれない。生まれ直せるかもしれない。不吉さの欠片もない、彼の若さそのものに安堵する気持ちもあった。わたしは、できるならまともな人間に生まれ変わりたかった。ゆっくりと年老いて、すこしづつだめになっていくのではなく、ちゃんと家庭を築き、子供を産んで育てて、未来をはぐくむような、つまりは平凡で前向きな生き方に、変えたかった。そうすることで、手ひどい過去までも、ずるく塗りかえてしまいたかった。」(P48 第1章 2008年6月)という思いで結婚した花がどうなっていくかは描かれずに、彼女の言う“手ひどい過去”が、そのときどきにおいては、決して手ひどいものとしてではないような形で描かれていた気がする。 飛び切りの秘密としての殺人や近親相姦を“善悪の彼岸”(P228 第4章 2000年1月)に置いて、花の言葉としての「線を引くことは、わたしたちにはとてもむずかしい。」(P200)や「してもいいことと、ぜったいにはいけないこと。神様が決めた、線。人の道。」(P228)、腐野親子の後見人とも言うべき大塩翁の言葉としての「世の中にはな、してはならんことがある。越えてはならん線がある。」(P218)を繰り返し、花に「わたしは汚れてる」(P235)とも「わかるもの。選んだもの。わたしが……」(P210)とも語らせる物語のなかに潜む“人間の抱えた濃密な闇”の描出に圧倒された。それは、当人も含め、紋別の田舎町に住む多くの人が、いずれ淳悟と所帯を持つことになるのだろうと見ていたと思しき小町が、花が美郎と結婚した歳と同じ24歳のときに「これは、まちがった育てられ方をしている、可哀想な子供の顔だ私が嫌悪してたのは花そのものじゃなくて、その向こうに隠れている、得体の知れない誰かの闇だ。…ほんとうは逆だったのかもしれない。淳悟が、この子の、なにかをずっと奪っていたのかもしれない。形のないものを。大切なものを。魂のようなものを。…大人だけど、熟すことなく、腐るだけだ。だから、これ以上待つのはやめよう。あぁ、もう、ほんとうにあきらめよう。」(P291 第5章 1996年3月)と感じ取った単純さとも異なっていたような気がする。 16歳の高二の娘とのセックスを淳悟の側から描いていた「第3章 2000年7月」の描出(P158~P164)もなかなかのものだったが、「わたしは、ここにやってきたときからずっと、おとうさんに抱かれている。…九歳のときからずっと。」(P189)と高一の花が語る「第4章 2000年1月」の場面(P185~P191)の「腰に腕を回されて、起きあがらされた。下半身で淳悟を締めつけるようにして、きつぅくつながったままでじっとみつめあった。両手でわたしの乳房をいじりながら淳悟が、甘えるような顔つきをして、ゆっくりと口を開けた。こうやってつながっているときだけ、ほんのときどき、わたしと淳悟は、どっちが保護者でどっちが子供なのか、くるっと入れかわってしまうことがある。…口を大きく開けて、目を潤ませて懇願されるから、わたしは下のほうを深く突き刺されたままで、自分も唇を開いて、真っ暗な奈落のように開いた淳悟の口の中に、白い唾液のかたまりをゆっくり落とした。淳悟はあかんぼうがミルクをほしがるように、ごくりと、一心にそれを飲み干した。もっと、という目をされて、だから、つぎの唾液を、あつめて、また奈落にむかって落とした。わたしのおくで淳悟がさらに硬くなった。うれしくて、こんなことをしてるときなのに、にっこり微笑んでしまう。…」(P189~P190)といった描出に圧倒された。倒錯的な性の描写ということでは、これまで僕が読んだ小説で最も強烈だったのは、絲山秋子が『愛なんかいらねー』で描いていたスカトロ・セックスの場面だったが、それにも匹敵するようなインパクトを感じた。 それにしても、淳悟の語る「第2章 2000年7月」の「煙草をつまんだ右手の人差し指と中指を、ゆっくりと唇に近づけると、指先から女の匂いがした。火をつけると煙草の煙と入り混じって、昨夜の残り香のようなそれは薄らいでいった。」(P127)、「いつのまにか右手の人差し指と中指の付け根を、半透明の塩の結晶のようなものがぐるりと取りかこんでいた。娘のおくに繰りかえし差しこんでいた指に、ついた体液が、乾いて結晶化していたのだった。その二本の指のあいだに、煙草をはさんで、口に近づけた。花のそれの匂いが濃厚に漂ってきた。」(P162)といった文章をどこから手に入れてくるのだろう。たいしたものだ。 花の言葉でも小町の言葉でもなく、美郎が学生時分から付き合っている恋人の菜穂子の言葉として「これってさ、大人の女としては、間違ってるのかな。うちのお母さんも、女の自立、ってよく言うけど。わたし、でも、自立なんてしたくないよ、って思うこともある。もっと、誰かとずっといっしょに、どうしようもない生き方がしたいって……」(P120 第2章 2005年11月)と零した“チェインギャング”という名の「絡みあう二本の木を描いた絵画」(P117)のイメージが強く残った。「鎖につながれた囚人どうし、という意味だ。互いにつながれているために、どちらも相手から逃げられないのだ。絡まって。痩せこけて。疲れきり。それでも、強欲に枝をのばす。」(P117) 絲山秋子の『愛なんかいらねー』の感想文の末尾にも記したが、性というフィールドにおいて男性が女性に到底かなわないのは文学でも同じだなと改めて思った。 | |||||
by ヤマ '15.10. 8. 文藝春秋 単行本 | |||||
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