『OUT』
監督 平山秀幸


 鄭義信の脚本、平山秀幸の監督のコンビで主演が原田美枝子となると四年前に観た愛を乞うひとが観応えありだったので、ちょっと期待があったのだが、期待を上回るほどのものではなかったものの、けっこう楽しめた。観終わって、ふっと想起したのが十一年前に観たテルマ&ルイーズだ。テルマのボケを邦子(室井 滋)と弥生(西田尚美)が担って、ルイーズのツッコミを雅子(原田 美枝子)とヨシエ(倍賞 美津子)が受け持つ形で、閉塞感と不全感に満ちた日常から行きがかり的にOUTしてゆく物語だ。コンビネーションの絶妙ぶりはテルマとルイーズのコンビに何歩か譲るものの、それぞれを複数のキャラクターで担っている分、多様な同時代性を生き生きと掬い取ることに成功している。

 子供を持つには余りに未熟で身勝手な幼稚さに留まっている弥生夫婦におけるドメスティック・バイオレンス、コマーシャリズムによるブランド志向に凝り固められた邦子における買い物依存症の果てのカード破産、家族にも学校にも不適応をきたした息子を持つ雅子の夫における中年リストラによる失業、夫に先立たれて義母と二人暮らしのヨシエにおける老人介護。四人の女の苦況が全てカネがらみでもあることやOUTへの過程においてリーダーシップを発揮する雅子が金貸しの副業を通じて四人を束ねているところなど、カネに縛られ、まみれた価値観から逃れられない状況に生きているところが、いかにも現代の日本のリアルな光景であるように思う。こんな状況に誰も満足していないし、喜びも感じていないけれど、突破口もなく、夜毎、深夜の弁当工場での作業労働に集まってくるしかない生活なのだ。

 そんな、ときめき浮き立つ心の躍動をすっかり忘れてしまった生活から、とんでもない犯罪に加担していく形で抜け出していくのだけれど、巻き込まれ型で始まりつつも、とびきり非日常的な状況であるがゆえの主体性の発揮や個性の開花、そして、後戻りのできない迷いようのなさが、趣味の悪さや乾いた味わい、しっとりした情感やらを適宜織り混ぜたユーモアで描かれているから、ある種の爽快感をもたらしてくれるのだろう。

 現代的な日常性のなかですり減らされ、損なわれているものが何であるのかを雅子やヨシエが見せ始める輝きのなかに感じ取る観客は多いのだろうけれど、アウトロー的輝きが似合うのは、むしろ女性になってしまっていることが自然に感じられるのが、十一年前との大きな違いだ。そのせいか、『テルマ&ルイーズ』のときのように、男へのアンチとしての女性映画という売り方がされていない気がする。『テルマ&ルイーズ』の惹句は「男たちよホールド・アップ! すべてが快感。女たちのルネッサンス!」だったが、『OUT』の惹句は「女はいつでも生まれ変われる。」なのだ。同じように再生を謳う文句でありながら、もはや前段のフレーズが野暮になってしまう状況にあるということが自ずと窺えるような気がして、けっこう興味深い。

 羽化した雅子に魅せられる十文字(香川照之)は、ちょうどテルマとルイーズにある種の共感を寄せながら追い続けていた刑事に相当する位置づけだとも言えるのだが、かの刑事の存在が、妙に主人公の二人が女性であることを強調し過ぎて、作品に“男へのアンチとしての女”という図式を意識させたのと違って、さして邪魔になっていなかったのも、時代の変化であるような気がして興味深かった。間寛平は、意外性を狙ったのかもしれないが、いささかミスキャストだと感じたし、そもそも彼の演じた佐竹というヤクザの使い方自体が脚本的にもこなれていないような気がした。




推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2002acinemaindex.html#anchor000859
推薦テクスト:「La Dolce vita」より
http://gloriaxxx.exblog.jp/44447/
by ヤマ

'02.11.11. 松竹ピカデリー2



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