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『就職戦線異状なし』['91] | |||||
監督 金子修介 | |||||
ひょんなことから'91年の公開時以来の再見となったが、昨年『紙の月』の映画日誌に「僕は、日本社会のモラルの底が抜けたのは、…政府の金融政策がもたらしたバブル景気の時代に、それを煽ったメディアが生み出したバブル風俗によるものだと思っている」と記していたことの真っ当さを改めて確認するような気分になった。 バブル崩壊直前の、言わばピーク期における超売り手市場の就職事情を描いていて「就職戦線、今年も異状なし」との見出しで報じている記事が映っていたが、これ以上の“異状”はなかろうという有様が描き出されていた。内定学生に高級ブランドスーツやロレックスの時計を贈答したり、銀座のクラブでの豪遊接待をしたり、内定拘束のための豪華旅行の供応をしたりして、学生ごときを増長させる時代だったのだ。いま観てこれを“異状”と思わない人はいないに違いなく、当時でも少なからぬ人が異常な状態だと感じていたからこそ、本作のような映画になっているわけだ。 そんな時代にあって尚、狭き門を掲げて増長学生たちを上から目線で翻弄することのできる位置をキープすることで更なる増長を遂げていたと思しき、就職難度最高位のマスコミの姿が透けて見えていたところが目を惹いた。大学に“マスコミ研究会”なるものが出来て、その名の元にさまざまな企画イベントと称する収益事業活動が税申告もなしに大規模に展開されるようになり、税務当局が問題視し始めたのもこの頃だったような覚えがあるが、さすがに映画のなかでは最終的に中止されたものの、事業活動どころか“賭博”というほかないものが、注目の就職希望学生を競争馬に見立てて公然と行われていたりもした。「マスコミュニケーションというのは、大勢の人を煽って儲けようとすることだ」と本気で思っている連中がいたからこそ、“マスコミ研究会”という名を掲げることに躊躇いがなかったのだろう。 この時代、業界としてのマスコミや大手広告代理店への就職に憧れるのは、高額報酬と華やかな業界に身を置いて、ひたすら「いい女にいい車」を手に入れることを夢見てのこと、と映画ではなっていたわけで、そういう匂いを撒き散らすようになっていた業界に群がった人々や、彼らに先立ち入社してバブルを謳歌しただけで昭和の時代の報道をろくに知らない世代が四半世紀後の今、その業界で中心的な役割を担っているのだから、今の体たらくも宜なるかなという気がしてならなかった。 結局のところ、政経学部の北町(坂上忍)は大手広告代理店に就職しなかったし、社学部の大原(織田裕二)も、本作の制作会社たるフジテレビジョン自ら言うところの“ケーハクな「エフテレビ」”には入社しなかったが、「D通」の内々定を既に得ていてデパートに就職するつもりもないのに、限度額いっぱいまでの接待費を引き出すことに悪びれず銀座クラブで豪遊していた北町は、父親の死亡による社長業の後継さえなければ、就職していたに違いないのだ。 本作に登場した、学生に銀座クラブで豪遊させるデパートにしても、ブランドスーツや時計を贈答し旅行接待する食品メーカーにしても、目的のために手段を講じるに際しては何でもありになって、底が抜けたというか箍が外れていてもそれが異状ではなくなったバブル風俗の象徴のような気がした。そして、デパートや食品メーカーとは根本的に違う優位にあれば、余裕をかました偽装としての模擬とかセミナーと称し、ルール違反の青田買いをしつつ己が優位を誇示することにいささかも悪びれない姿というものを、雨宮人事担当チーフ(本田博太郎)の仕打ちに借りて曝け出していたわけで、この優位者の思い上がりもまた、もう一つのバブル風俗の象徴であるように感じた。 そして何よりも痛烈だったのは、いかに下品であっても“目的のためには手段を選ばない破廉恥”と“優位者の思い上がり”という二つのことが、日本社会の力ある階層の人々を完全に毒するようになっていると感じられたことだ。このことが最近とみに露呈してくるようになって改めて、『紙の月』の映画日誌に綴ったことが筋違いではなかったと再認識させてもらえる再見となったように思う。 参照テクスト:黒沢美貴 著 『ベイビーローズ』(幻冬舎 単行本)を読んで 参照テクスト:堀江貴文 著 『拝金』(徳間書店 単行本)を読んで | |||||
by ヤマ '15.10.11. BSプレミアム録画 | |||||
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