『龍馬伝』
NHK大河ドラマ

 三年近く前に観た武士道残酷物語の映画日誌にて言及した男たちの大和/YAMATO大日本帝国の日誌に引いた坂東眞砂子の地元紙への寄稿大河ドラマにだまされるなに示されていたことは、かねてよりの僕の思いと重なる部分が多く、歴史に対する関心は比較的あるほうだと思っている自分だけれども、初回から欠かさず観続けたNHK大河ドラマというのは、ほとんど記憶がない。それどころか、そこそこ観た覚えのあるシリーズというのも、松坂慶子が新境地を開拓して大いに魅了してくれた『毛利元就』と堺雅人が新鮮な家定像を演じて驚かせてくれた『篤姫』くらいしかなく、48回に及ぶ全部の回を欠かさず観通した『龍馬伝』は、例外中の例外だ。

 そうなった一番の理由は、第35回「薩長同盟ぜよ」の日誌にも綴った初回の持っていたインパクトにあるように思う。もっとも従前からのおりょう像を逸脱しようとしている点では予想どおり『アマデウス』同様ながら、龍馬暗殺への弥太郎加担を見くびっていた件と同じく、やはり僕の予想をかなり超えていきそうに感じた。と記した部分については、残念ながらそこまでには至らず、また、終盤の駆け足ぶりにも、かなりの無理を感じた。それでも思っていた以上に面白く観ることができたし、全部の回を通して最も感銘が深かったのは、第四部にあった第43回「船中八策」だった。各条を読み上げながら「これは横井小楠先生、これは勝先生、これは武市さん…」などと連ねながら、吉田東洋らにも言及する龍馬の姿が実に素敵だった。モーツァルトのようなオリジナリティによって次々と曲を編み出す天才では決してなかった男の非凡さを作り手が描こうとしていることに心打たれた。

 幕末を駆け抜けた龍馬の生涯を観ていると、改めて人の人生は成り行きによって形成されるというか、人を形作るのは出会いと行き掛かりに他ならないとつくづく感じる。そして、龍馬がそれを最大限に生かすことができたのは、武市半平太や岩崎弥太郎に顕著だった“こだわり気質”とは対照的な、何とも屈託のない“ぼんぼん気質”だったような気がする。そして、そのことを描出したいがために、過剰とも言えるほどの対照を武市や弥太郎との間に強調して設けていたのが、今回の脚本だったように思う。妙なこだわりがないからこそ吸収力に富み、誰の元にでも直に会いに赴くことができるわけで、その脳天気なまでの行動力が、一介の浪士に過ぎなかった龍馬に恐るべき影響力を持たせ得たのだろうというのが、福田靖の描いた龍馬像だったのではなかろうか。さればこそ、半平太や弥太郎に真似られようはずもなく、サリエリがモーツァルトに抱いた嫉妬に勝るとも劣らないほどの葛藤と敵愾心を弥太郎にもたらしたりするわけだ。サリエリは、モーツァルトの音楽の才に神を呪うほどの嫉妬を抱き、弥太郎は、龍馬の生育環境に度し難い憤りを覚えていたように思う。そして、その“ぼんぼん気質”を育んだのが坂本家に屯するたくさんの女性たちで、そのような坂本家の描き方には、武田鉄矢原作・小山ゆう作画の漫画『お〜い!竜馬』が影響しているようにも感じられた。

 そういう点では、弥太郎のナレーションによって「もう龍馬は、以前の龍馬とは違うた人間になっていったがぜよ」と語られてから後の龍馬が、武市や弥太郎と同じ仰々しく入れ込んだ台詞回しをするようになっていったことが悔やまれる。後半の福山龍馬の口調の暑苦しさは少々いただけなかった。しかし、得てして余裕たっぷりだったり、豪傑然とした人物に描かれがちな龍馬を、ある意味いっぱいいっぱいの状態に気負った姿で描き出そうとしていた作家的野心には、黒木和雄監督の映画作品『竜馬暗殺のチンピラ竜馬像にも匹敵するくらいのものがあったと言えるのかもしれない。



参照テクスト:掲示板談義の編集採録
by ヤマ

'10. 1月〜11月. NHK大河ドラマ



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