『アマデウス』(Amadeusu)
監督 ミロス・フォアマン


 モーツアルトは何故にあのような人生を送ることになったのであろうか。まさに天才と評するより外のない音楽的才能とその作り出す美の煌めきのような音楽とは、まるで対照的な狂騒と猥雑さに満ちた日常生活。あまりのギャップにサリエリは猛烈な嫉妬と憎悪を覚え、そのような事実を現出せしめた神に怒りと憎しみを抱く。しかし、観ている僕には、モーツァルトはそんなに不愉快きわまりない存在としては映らなかった。それには、音楽に総てを捧げ、そのために神への誓いと感謝を守り続けてきたのに、そんな犠牲など払わぬ天分による遙かに優れた存在を眼前に突きつけられた挙げ句、密かに憧れていた女性を戯れに寝取られたサリエリの惨めさからすれば、まるで立場が違うということがあるが、単にそれだけではない。モーツァルトの軽薄で下品な行状が、単に享楽的で愚劣なものとは映ってこないのである。どこか哀しく痛ましい。

 彼は神からあまりにも偉大で優れた音楽的才能を与えられ、また、こと音楽に関しては、それこそ真剣に真正面からそれを受け止めたために、その重みによって人間としては引き裂かれてしまった存在として映るのである。彼は決して才能に甘んじてはいない。彼もサリエリとはまた違った形で音楽にその人生を奪われているのである。彼の日常生活があのようであったことも、彼が大人になりきれないインファントであったことも、そのためであるような気がしてならない。実際、あれほど傑出した才能を持っていると、人とは対等に交われないのではなかろうか。同じ地平に立てる者がいないのである。それは、やはり孤独で寂しいことである。彼の行状や酒・薬は、それを紛らわせるものであったというか、そうしないではいられなかったということではなかろうか。自身の音楽のテーマを愛としながらも、また、妻や子供に対し素朴な感情としてそういったものを持っていながらも、結局通い合うものとしての愛をどこにも実現させ得なかった(僅かに死ぬ間際のサリエリとの共同作業を除いて)ように見える。さらにインファントとして父親に精神的依存度が極めて高かったままに、突然父親を失ったのである。その精神的打撃に追討ちを掛けるように、死をテーマにした曲作りの依頼が死装束の人物から舞い込む。それは、彼にとってあまりに過酷なことであったと言える。放蕩な生活とそのことによって心身ともに追いつめられ、衰弱の果てに夭折してしまうのだが、総ては、自身のあまりにも偉大な才能を真正面から受け止めたことによると言えるのではなかろうか。

 一方、サリエリの人生もまた過酷なものであった。彼はその人生の総てを音楽と神への信仰に捧げていながら、それを全く否定される形で天才モーツァルトの存在を知らされるのである。(モーツァルトを新作で歓迎するシークェンス、モーツァルトのオリジナル楽譜に全く添削の跡がないのを観て愕然とするシークェンス、秀逸である。)天才と同じ土俵に立たされた者の苦悩をマーリー・エイブラハムは、実に見事に演じている。「神は私に欲求のみを与えて、才能を与えなかった。その神が選んだのは、あんな奴なのか。」と嘆き、キリストの像を火にくべる姿は、彼の絶望と怒りそのものである。モーツァルトに敵意を抱き、抹殺しようとする一方で、その音楽の唯一の真の理解者でもあり、どうしようもなくその音楽に惹かれる自身に苦しむ。彼もまた引き裂かれた人間なのである。

 この遠いようで近い、近いようで遠い二人の男がモーツァルトの死の直前、レクイエムの作曲を通じて交わる。この場面の迫力は最大の見所でもあるが、このときにモーツァルトの側からは「ただ一人の友達」、サリエリの側からはモーツァルトの愛称「ウルフィ」が初めて口にのぼる。しかし、モーツァルトはレクイエムの完成を見ずに死んでしまう。サリエリにはその時の交流があったればこそ、自分がモーツァルトを追いつめ、死に至らせたとの悔いと罪悪感にその後何十年も苦しめられ、挙げ句の果てに自殺未遂を起こし、精神病院に収容されるのである。

 げにも凄まじきもの、音楽。芸術の持つ底知れぬ恐ろしさといったものに打ちのめされるような映画である。芸術こそは、人間の生み出したもので、人間を越えている最も恐ろしいものなのかもしれない。



参照テクスト:二十年後の再見日誌


by ヤマ

'85. 7.17. あたご劇場



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