『武士道残酷物語』('63)
監督 今井 正


 その名に覚えはあるものの初めて観たが、なんとも凄みのある作品だった。時代劇かと思いきや、現代劇から始まったので驚いたのだが、そこには重要な意味があり、1600年の関ヶ原の戦いの後、槍の腕を見込まれて浪人の身から信州矢崎の小さな大名、掘家の家臣に拾われた飯倉家の物語として、360年余に渡って代々受け継がれている“日本男児の負のメンタリティとしての武士道”を綴った作品だった。

 原作は、南条範夫の『被虐の系譜』という小説らしいが、一言にすると、強き上の者を憚り懼れて隷属し、弱き下の者を虐げて怯むところのない、醜悪を以て美学とする倒錯とも言うべきものを武士道精神の本質として見て捉えていたように思う。そして、それこそが“民が救われず、民に犠牲を強いることを厭わない日本という国家”において、明治維新によって武家政治から天皇親政に転換されようとも、第二次大戦に敗れ民主主義が導入されようとも、本質的には何ら変わることなく受け継いでいる精神構造であり、徳川幕府265年の治世において築いた負の遺産だというわけである。五年前にラスト・サムライ』(エドワード・ズウィック監督)が話題になったとき、その最も重要な作品主題を黙殺看過して、外国人も讃える“武士道”として専ら愛国心称揚に絡めて復古的に礼讃していた輩に、見せてやりたいような作品だとも思った。今井正が凄い監督だったことを今更ながらに思い知るとともに「こんな映画が撮られてた時代もあったのに、今や…。」と嘆かわしい気分に見舞われた。

 それとともに、いささか僕の気分がめげたことについては、単に今の時代状況のせいばかりではなく、若いときから武士道的なメンタリティを意識的に排除してきたつもりの自分でさえ、ここに描かれた負のメンタリティを未だに系譜として受け継いでいて不覚にも突かれてしまうところがあるということなのかもしれないとも思った。それほどに自分の心の奥深いところに打ち響くような応え方をしたということだ。

 原作タイトルは『被虐の系譜』ながら、ここに描かれた残酷物語は、それと表裏一体となる“加虐の系譜”でもあるわけで、一方通行では成り立たないところが大事なところだ。少し前までは復古的に礼讃する輩は概ねそちら側に位置しているエスタブリッシュメント層だったのだが、近頃はマスコミ宣伝や男たちの大和/YAMATOの日誌に引いた坂東眞砂子の地元紙への寄稿に示されている形のようなものに煽られて、被虐の系譜を受け継いでいる仕える側にも、顕著な復古的傾向が窺えるようになってきている気がする。

 物語は、島原の乱にまつわる寛永期の飯倉次郎左衛門の章、その息子の飯倉佐治衛門の章、元禄期の飯倉久太郎の章、天明期の飯倉修蔵の章、明治期の飯倉進吾の章、第二次大戦期の飯倉修の章、そして、戦後の高度経済成長期の飯倉進の章の七つからなっていたが、次郎左衛門は領主の罪を被っての割腹、佐治衛門は領主死去に伴う近習としての殉死、久太郎は男としての死とも言うべき摩羅切りの酷刑に処され、進吾は日清戦争で戦死、進吾の息子は満州事変で死に、進の兄修は第二次大戦の特攻隊員として戦死。寿命を全うしたものがほとんどいないのが武士道精神の末路というわけだ。人口に膾炙している『葉隠』の「武士道とは、死ぬことと見つけたり」の意味するところの死が、飯倉代々のかような死に様を以て言っているのでは決してないはずなのに、結局かような死を重ねてしまうところが系譜ということなのだろう。天明期の修蔵と高度経済成長期の進には死こそ訪れないものの、愛する妻(有馬稲子)や娘を死に至らしめ、婚約者(三田佳子)を自殺未遂に追い遣るといった理不尽な犠牲を近親の女性に強いることにもなっていたわけで、それこそが武士道に秘められた暴虐であることも併せて率直に描かれていたように思う。

 とりわけ残忍な領主掘安高を演じた江原真二郎の光っていた飯倉修蔵の章と、江戸遊学中に森雅之の演じる男色を好む領主の餌食となった飯倉久太郎の章が強烈だった。360年に渡る被虐の系譜の飯倉家の男を代々七役も演じていた中村錦之助が見事で、累代の壮年や老年、若者、青年を年齢を超えて演じながら、巧みに人物を演じ分けて威厳や虚弱といった幅広い個性の違いを表現しつつ、尚かつ脈々と受け継いでいる部分をきっちりと宿らせていたように思う。大したものだ。




推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2012fucinemaindex.html#anchor002271
by ヤマ

'08. 2.11. あたご劇場



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