『愛を読むひと』をめぐって | |
「映画通信」:(ケイケイさん) (TAOさん) 「銀の人魚の海」:(アリエルさん) (とおりすがりさん) ヤマ(管理人) |
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◎掲示板(No.8083 2009/06/29 22:22)から
(ケイケイさん) ヤマさん、こんばんは。 ヤマ(管理人) ようこそ、ケイケイさん。 (ケイケイさん) 楽しみにしていたので、早速拝読しました。いつにも増して気合十分で、読み応えたっぷりでした。 ヤマ(管理人) ありがとうございます。 (ケイケイさん) でもびっくりしたのは、「刑務所の図書室で借りてきた本の冒頭の定冠詞“the”をそっと発音し、ページ内に探して丸囲みをし始めるまで、彼女が文盲だとは気づかずにいた。」……遅過ぎます(笑)。 ヤマ(管理人) そうですか? でも、おかげで「あぁそうだったのかぁ」とあれもこれものフラッシュバック効果がいっぺんに降りかかってくる快感シャワーを浴びられたわけで、僕は得したと思ってます(笑)。 (ケイケイさん) 私はサイクリングデートの時、わかりましたよ。 メニューを見て、「あなたが頼んで」って、マイケルに頼んだでしょう? あの時のケイトの演技がすごく上手くてね、あぁ朗読ってそうだったのか!と、 ヤマ(管理人) その時点でわかっちゃうと、フラッシュバックするものが、その分だけ少なくなっちゃうでしょ? 僕はね、「あぁそうだったのかぁ」というのが、早く気付いたケイケイさんのように朗読のことだけじゃなくて、あの忽然と姿を消す前の昇進を告げられて強張った表情や、このメニューのことや、バーグが今度はキミも読んでって言ったのをかわしたことや、法廷で白い紙を見つめながら、ペンを握ったままじっとしてた姿や拙日誌にも綴ったバーグが「僕だけが知っている」と言い得たことの意味やら、何もかもがいっぺんに全部降りかかってきたんですよ、そりゃもう凄かった。 とっても興奮、とっても快感!(笑) うまくここまで引っ張ってもらえたことに感謝してます。 (ケイケイさん) 私は早くにわかったので、ケイトの絶妙の演技が楽しめましたから、おあいこかな? ヤマ(管理人) なるほど。確かに、絶妙感を即時的に堪能するには、知ってることが必要だ(笑)。 (ケイケイさん) でも途中で気付いたマイケルが、教授に相談する時に「彼女は文盲なんです」って、言ってなかったですか? この辺は思い違いかも知れませんが。 ヤマ(管理人) そう問われると、僕も見落としかもって自信なくなりますが、僕のなかに起こったフラッシュバック・シャワー効果を思うと「刑務所の図書室で借りてきた本の冒頭の定冠詞“the”をそっと発音し、ページ内に探して丸囲みをし始める」というインパクトのあるシーンを用意している作り手が、彼女の秘密をセリフで明かすような野暮はしてないような気がするんですけどね。 (ケイケイさん) そのフラッシュシャワーですが、裁判で「私が書きました」とハンナが言った時、マイケルの脳裏で表現されてたでしょう? 私はあそこで観客にわからせようとしたんだと思ったんです。 ヤマ(管理人) なるほどね。先に判っていれば、そう御覧になるのももっともでしょうね。 (ケイケイさん) ヤマさんは、あのシーンはどうご覧になりました? ヤマ(管理人) 確かに八年前の日々がフラッシュバックされていましたが、僕のなかでは、それがハンナの文盲に繋がる部分のみの取り出しだったような気がしないんですよ。もしそのように編集されていれば、気づいたんじゃないかと思いますが、作り手は、そのようにあざとくは構成していなかったような気がします。ですから、僕は、拙日誌に「この作品の一番の値打ちは、かつて受けた性の手解きと、朗読によって文学を共有する歓びに溺れ、親子ほどに離れた歳の差を越えて真剣に愛した女性が、人類史上最悪の犯罪の一つとも言われるナチスによるホロコーストに加担していた事実を前にして、バーグが頭を抱え込んで打ちひしがれながらも、そのことによって彼の心が彼女の人格に対する断罪へとは向かわなかったところにあるように、僕は思う。」と綴ったように、裁判を傍聴しながら、そこで露にされた看守時代の彼女の行状と八年前の記憶にある彼女の姿が交錯していたのだと思います。「八年前に睦み合い、裸の胸に凭せ掛けさせた頭を囲うようにしつつ本を手にした腕のなかで、自分の朗読してやる物語に涙していた女性がホロコーストに加担していた事実を受け入れるのは困難至極だったのだろう。」と僕が受け止めるにいたる、頭を抱えてうつむく彼の混乱と苦衷の具体を示しているように観ていたと思います。 (ケイケイさん) 私はヤマさんがハンナの文盲に気づいたとおっしゃる“the”を丸囲みをし始めるシーン、あの我の強かった彼女が、とうとう学ぼうとしているんだと、泣けて泣けて。人知れず学びたかったろうし、そうすると仕事が出来ない。ハンナはまず生活に追われて、字を学ぶ機会がなかったんだと思いました。 ヤマ(管理人) 同感です。このシーンで初めて気づいた僕には、泣けて泣けてという余裕はありませんでしたが(たは)。ただ、そのとき思ったのは、バーグが彼女に朗読テープを送り始めたのは、離婚したときに帰った家で十八年前の手帳を見つけ、そこに記録してある彼女と過ごした日々に読んだ書物のタイトルを見て、朗読の再現というか録音テープを送ることを思いついたわけですから、当然にして、十八年前に読んだ順番に録音していったと思うんですね。で、拙日誌にも「ハンナに読み聞かせた本を、ホメロスの『オデュッセイア』からチェーホフの『子犬を連れた貴婦人』に到るまで順に朗読テープにして差し入れることを思い立った」と綴っているのですが、それで言えば、僕は『子犬を連れた貴婦人』が最後のテープだったと思っています。あのときハンナは最後の本が何であるかを覚えていて、この後もうテープが来ないことを知っていたと思うんですよ。それでバーグからのテープを教材に字を覚えようと思い立ったのだと思いました。拙日誌に「バーグのおかげと自分の必死の努力」と綴ったのは、そういうことで、そこには「バーグが手間隙かかる朗読テープの差入れをしてくれたのは、“坊や”だけは自分の罪を赦してくれたからだろうと」の想いが作用していた気がしたんです。 (ケイケイさん) 監獄というのは、ある意味衣食住が満たされていますよね? ある意味、矯正という観点からは、彼女の行動はベストだと思いました。 ヤマ(管理人) そういう意味での境遇の余裕があればこそというのは勿論ですが、やはり僕は、上にも書いた“バーグの赦し”が大きく作用していた気がします。 (ケイケイさん) それも重要な要素だったと思います。 ヤマ(管理人) ですよね。そして、矯正を企図した教育刑としての執行を果たそうとすれば、何が先ず必要かということに大きな示唆を含んだエピソードだった気がするのです。 (ケイケイさん) 私は文盲に早くから気付いてましたからね。だからそう感じたのかも知れません。 ヤマ(管理人) えと、これは「矯正という観点からは、彼女の行動はベストだと思いました」とお書きのことを指しているんですよね? つまり、識字自習に向かったハンナの行動について、それが「矯正という観点から」ベストだということですよね。 彼女は“バーグの赦し”に力を得て文盲の克服に向かいましたが、'88年の面会のとき、「“坊や”だけは自分の罪を赦してくれた」と思っていたものが崩れ去って、気丈なハンナも自死を決意したのだろうと思いました。 (ケイケイさん) 直接の原因は、マイケルの態度でしたよね。 ヤマ(管理人) そうです。それによってハンナは、拙日誌にも綴ったように「“坊や”は私を赦してなどいなかったのだ」と受け止めて生の力を失ったのだと解してます。そういう意味でも、かのシーンは、単に彼女が字を学ぼうとし始めたことを示すだけの場面ではなかった気がします。 (ケイケイさん) 壮絶な幸福感と切なさが入り混じったプロットで、私もヤマさんとは別の意味で、作品のハイライトシーンだと思っています。 ヤマ(管理人) はい。後々まで効いてくる重要な場面ですよね。 (ケイケイさん) でもまぁ、どこでわかっても、作品の良さは変わりませんから(*^_^*)。 ヤマ(管理人) そのとおりです。 (ケイケイさん) 大事なのは、テーマの掘り下げ方ですね。 ヤマ(管理人) はい。 (ケイケイさん) 私は、サイクリングデートの時、あぁ朗読ってそうだったのか!と、もう一瞬にして彼女が何故マイケルと関係を持ったのか、理解出来た気がしました。 ヤマ(管理人) ん? ハンナは文字が読めないから、マイケルに本を読んでもらいたくて関係を持ったってことですか? (ケイケイさん) いいえ。彼女は自分の文盲に卑屈になって、対等な恋というものをしたことがなかったんだと想像しました。 ヤマ(管理人) なるほど。 (ケイケイさん) 年齢的にも女として崖っぷちの時ですし、初々しく純粋な恋愛というものがしたかったんだと思います。そこへマイケルが飛び込んできた。 ヤマ(管理人) 棚からボタ餅だったわけですか(笑)。 (ケイケイさん) 彼女にしたら、うんと年下ということで、自分が素直に出せたと思うんですね。 ヤマ(管理人) なるほど、なるほど。それにきちんとした少年でしたものね。花束持って来てたし。 (ケイケイさん) なので、女の我がままでマイケルを翻弄していましたが、決して弄んではいなかったと思います。朗読は、最初はあくまで、副産物だったんじゃないでしょうか? ヤマ(管理人) 同感です。 (アリエルさん) こんにちは。 ヤマ(管理人) ようこそ、アリエルさん。 (アリエルさん) 私も日曜にブログに書きました。 ヤマ(管理人) さきほど拝読しました。アリエルさんは、原作を先に読んでおいでたんですねー。 ならば、僕のようなフラッシュバック・シャワーなど望むべくもないですね(笑)。 (アリエルさん) ヤマさんの日誌も、今、拝読。 ヤマ(管理人) ありがとうございます。 (アリエルさん) 頭のいいヤマさんが「わからなかった」は、私も原作を読んでいないと?かなとは思いました。 ヤマ(管理人) 拙日誌に「脚本と演出の巧みさに乗せられて」と記しましたが、おかげで最も美味しい観方ができたように思います。 (アリエルさん) 原作では、旅でのメモのエピソード、他にも文盲かな?ということがいくつか書かれています。 ヤマ(管理人) この「かな?」ってことの度合いと加減が微妙ですよね。 前情報なしで観ても、勘取りのいい方だと、ちょうどその旅のエピソードのあたりで気づいたりするようですが、僕の感想から言えば、もっと後で思い当たったほうがお得な気がします。作り手としては、そういう思いで作っていたんじゃないでしょうかね。たぶん僕は、作り手の計算どおりのタイミングで気づいたのだと思います。 (アリエルさん) いくつか書かれていても、すぐには気が付きませんが、読んでいるとだんだんそうかなと・・・。だから映画だと「わからないままラストへ」になる方もいたと思います。 ヤマ(管理人) さすがにそれは少数ではないかと思いますが、最後には、イラナとバーグの会話で明示されますから、そういう観客への配慮もできている作品ってことになりますね(笑)。 (アリエルさん) 映像と文字との差です。 ヤマ(管理人) そういうことってありますよねー。 (TAOさん) ヤマさんが「マイケル」ではなくバーグで通してくださったので、とても心安らかに読めました。 ヤマ(管理人) ようこそ、TAOさん。そりゃよかった(笑)。バーグにしても本当はベルクとかなんでしょうが、ボート漕ぎでもないのに、マイケルは、いくら何でも、ですよねー。 (TAOさん) 私は、ドイツ人なのにマイケルとは書きたくない(たとえばフランス映画でミシェルをマイケルと表記するなんてありえないですよね!)けれど、字幕に反してミヒャエルと書くのも意固地だし、と悩んでました。 ヤマ(管理人) そうです、そうです(笑)。 僕も、一点意固地主義に陥っちゃうのは何かヤだし、そこで、字幕どおりの「バーグ」(笑)。 (TAOさん) 私も原作を読まずにこれを見たかったですよー(羨)。映画化が決まる前に読んでしまったから仕方ないのですけどねえ。 ヤマ(管理人) まぁでも、それならそれで原作との比較のなかでの映画としての工夫や脚色の腕前の程を楽しめて、それはそれでいいじゃありませんか。 アリエルさんは、御自身のブログに「原作を超えたかもしれない?」ってお書きでしたよ。TAOさんは、mixi日記に「原作にはない素敵なエンディングまで付いた!」とお書きですから、やっぱり原作を超えてるとお感じになったのかな? (TAOさん) 原作は「ミヒャエル」の一人称なので、彼がどんなにチャーミングな青年だったかがわからず、ハンナの気持ちもいまひとつ掴めないのですが、 ヤマ(管理人) そうでしたか。 (TAOさん) 映画は役者の表情でわかりますから、より共感しやすくなっていました。 ヤマ(管理人) 役者の演技がまた充実してましたから、なおさらでしたね。 (TAOさん) でもミヒャエルのその後の女性遍歴など、細かい設定はやはり原作でないとね。 ヤマ(管理人) お、ハンナ痕跡が強すぎて、誰とも落ち着けず遍歴を重ねちゃったんですか。やっぱ“痕跡もの”だったんですねー(笑)。 (TAOさん) そうですよー。ハンナとミセス・ロビンソンでは、与える痕跡がまるで違ってますよね。 ヤマ(管理人) 『卒業』できませんでしたね(笑)。 (TAOさん) ほんとだ、座布団1枚!(笑) 映画は、かなり単純化されているので、原作に比べるとリアリティがないのです。いずれにせよ、活字と映像、それぞれの良さを楽しめて、どちらが劣るということはないように思います。 ヤマ(管理人) そうですか。やっぱ読んでみたくなりますね、原作。 僕が最も気になっているのは、拙日誌でも取り上げたロール教授の「若い連中が我々人生の先輩の経験から学ばないで何の意味があるというのだ。」という台詞が原作にあるかどうか、と併せて「文学の核は神秘性だ。どんな人物なのか全ては描かれない。だから、行間を読み、人物像を思い描かなければならない。」という授業が原作にあるかどうかです。前者があって、後者がないと予想しているのですが、両方ともなかったら、デヴィッド・ヘアの脚色の見事さに拍手です(笑)。 (TAOさん) これはどちらも原作にはありません。 ヤマ(管理人) おー、そうでしたか。たいしたもんだなー、デヴィッド・ヘア(拍手)。 (TAOさん) なぜって、ミヒャエルは、哲学者なのに戦争に対して何も語らない父親への面当てからこのゼミを選んだのですが、ハンナショックでそんなことは吹っ飛び、授業には出ていても何も聴いちゃいないからです(笑)。暗にハンナの秘密についてどうすべきかを相談した相手も、教授ではなく、父親だったのですよ。 ヤマ(管理人) 僕が言及した授業は15歳のときのものでしたが、父親との関係で言えば、映画での父親は影が薄かったなー(苦笑)。やっぱり原作小説のほうも当たってみたくなりました(礼)。 (TAOさん) 小説では父親とのやりとりもかなり重要なのですが、映画化するにあたって、脚色のやり方は見事でしたね。 -------ハンナにとってのバーグの存在、バーグにとってのハンナの存在------- (ケイケイさん) サイクリングデートの時のような、ああいう初々しい、爽やかなデートは、彼女はしたことなかったと思うんですよ。 ヤマ(管理人) 同感です。だからこそ、あの母親と間違えられた旅行先での屋外でも臆しないバーグのキスがハンナに残した痕跡の深さが偲ばれるんですよね。 (アリエルさん) 彼との関係を長引かせる〜も21歳差で「もう別れよう」と思うのは、あると思うし、まして彼は立派な家庭の息子とわかっている、自分はSSにいた、など他のことからも、別れは理解できます。 ヤマ(管理人) 原作はどうか知らないですが、映画では絶妙の按配で、バーグに心寄せていると思しき女子学生を登場させてたしね(笑)。 (アリエルさん) 彼とのことは「どちらにしてもいずれは別れる」は絶対にあったわけで、彼女の1つの区切りでしょう。 ヤマ(管理人) 根っこにそれがあったからこそ、ハンナも昇進話を突然の失踪に繋げやすかったということですね。それはそうかもしれません。 (アリエルさん) そうやって、これまでも生きてきたと思います。 ヤマ(管理人) そうなんです。ここんとこ、とっても重要ですよね。拝読したアリエルさんのブログ記事によれば、原作には「〜ルーマニアで育ち、17歳でベルリンに出てきてジーメンス社の労働者になり、21歳で軍隊に勤めたという。戦争が終わってからは、さまざまな仕事をして生計をたててきた。2、3年前から市電の車掌になった〜家族はいない」とあったそうですが、映画では職歴は描かれなかったのに、きっちり偲ばせてくれますものね。 (アリエルさん) 1つ、マイケルが最後までハンナに返事を出さなかったのは、何故だと思いますか? ヤマさんがもし21歳下の男性で、こういう状況なら・・ ヤマ(管理人) 男には、用件なしのご機嫌伺い的な手紙を書くのは苦手な人が多い気がしますが、“返事”となれば別で、通常は、返事を書くとしたものだろうと思いますが、バーグの場合は、分からなくもないところがあります。 距離感の取り方に戸惑いがあったんじゃないでしょうか。彼が朗読テープを送っていたのは、ハンナとの繋がりや交流を求めてってことより、“昔のノートを手にしたことで浮かんだアイデアによる贖罪行為”という側面のほうが強かったのではないかという気がしています。そこへ字が書けないはずの彼女からの来るはずのない手紙が来て、面食らっていたのではないかという気がします。 ハンナにとってバーグは永遠に“愛すべき坊や”だったのですが、バーグにとってのハンナは、15歳のときに溺れたままのハンナではなかったということだろうと思います。 さて、僕ならどうしたかっていう質問ですが、うえに書いたような心境だったとしても、僕なら、返事を書いたような気がします。そのことの善し悪しは、むずかしいところですが、黙殺する蛮勇というものを僕は備えてないような気がします(たは)。 (アリエルさん) 私は、状況は全く別ですが『エルスール』での不倫の男女で、女が「もう手紙は出さないで下さい。よけいに辛いです」というセリフを思いました。 ヤマ(管理人) でも、女性って、そう言うんならと真に受けて手紙を出すのを止めたら、今度は間違いなく不機嫌になるものですからね〜(苦笑)。 (アリエルさん) 手紙ってくれば、またくるかなと期待することが多いので、その辺りはどうですか・・ ヤマ(管理人) 期待にちゃんと応えられないのなら、生殺しにせずに黙殺する蛮勇を持て!ってことですか?(苦笑) (TAOさん) さて、ハンナがバーグに与えた痕跡の最大のものが、ハンナの過去にあったことには異論がありませんが、 ヤマ(管理人) ですよね、ここに不一致を観る人はまずいないはずです。 (TAOさん) もしハンナと再会しなかったとしても、15歳で初めてのめりこんだ相手になんの前触れもなく捨てられた傷は、かなりのものだったと思います。 ヤマ(管理人) 男は軟ですからねー(たは)。 (TAOさん) 初めての相手だからというだけでなく、 ヤマ(管理人) ほぅ。 (TAOさん) ハンナの命令口調と母性的な温かさって、バーグにとってはどちらもツボだったと思うんですよ。 ヤマ(管理人) 水と火で焼きを入れられ鍛えられる日本刀みたいなものかな?(笑) (TAOさん) バーグの家は上流家庭だからか、父親の権力が強く、母はおろおろするタイプで息子を抱きしめたりもしないし、スキンシップが少ないように見えました。 ヤマ(管理人) へぇ、そうだったんですか。僕は、バーグの母はむしろ甘母みたいに感じたんですが。 (TAOさん) これは映画の良かったところなんですが、バーグの目から見たハンナのアパートは質素ながらとても居心地が良さそうでしたし、お風呂上がりに身体を拭いて貰ったり、まして身体を洗って貰うということは、 あまりなかったんじゃないでしょうか。 ヤマ(管理人) これ、幼子のときの話ですよね? 15歳にもなって、バーグがハンナにしてもらっていたようなことを母親との間で交わしていたら、セックス抜きでもかなりヤバそうなんですが(笑)。 (TAOさん) はは。そりゃヤバイでしょう。 ヤマ(管理人) ですよね(笑)。 (TAOさん) ハンナの罪を赦せないことのなかには、個人的なトラウマも幾分かは混じっていたような気がします。 ヤマ(管理人) なるほどね。確かに個人的な実感に響く何かがないと、あれだけの葛藤にはならないかもしれませんね。 (TAOさん) バーグは人前で吐いてしまって動揺していたところを大丈夫と抱きしめてもらったとき、とても安心していつように見えました。それで、ストッキングを履く姿を見るより以前に、ハンナに惹きつけられたような気がしたので、あんなふうに母親から安心感を与えられた覚えがないのではないかと思ったんです。 ヤマ(管理人) そうそう。あれはいいショットでしたね、抱きしめっていうより包み込みって感じで。 それで思い付いたんですが、あのときハンナは、バーグの頭を囲うようにしてた気がします。それって、拙日誌にも綴った、後にバーグに本を読んでもらいながら涙してたときのハンナの構図と被さってくる絵だったんですねー。 いや、さっきは、風呂上りの身体拭きを例示されてたんで、母親に繋げるのはヤバかない?って思ったんですが、これには大いに納得です。幼時に留まらない未解決問題を15歳になってもバーグは残していたということですね。それがハンナに向かわせた部分がかなりあって“青い性の暴発”だけではないと(笑)。おっしゃるとおりですね、僕も大いに賛同です。そして、ベンがミセス・ロビンソンを卒業したように、バーグは、ハンナによって母親を卒業することができたんでしょうね。ハンナを卒業することはできませんでしたが。 (TAOさん) そのとおりだと思います。『卒業』が思わぬキーワードになりましたね(笑)。 ヤマ(管理人) ミセス・ロビンソン、ナイスでした。『東京タワー』の詩史では、こうは展開できません(笑)。 (TAOさん) それと、ハンナが去る少し前から、バーグは同級生の女子にも目が向き始めていましたよね。 ヤマ(管理人) はいはい。うまい配置でした。これは原作もそうだったんですか? (TAOさん) ゾフィという女の子にバーグが見とれるところは、まるで同じです。ハンナにのめりこんではいるけれど、人には言えない関係を続けることが、少し重荷にもなりかけていたと思うんです。 ヤマ(管理人) ほぅ。 僕は、あっちにもこっちにもと引っ張られる想いがあっても、若い彼女よりもハンナの魅力のほうが勝ってしまうことを印象づけつつ、老け専ではないバーグの普通さを窺わせ、なおかつハンナに対する律儀さをも描き出すうえで、必要かつ有効な人物配置だと思ってました。 (TAOさん) ええ、老け専ではないですね(笑)。単体ではむろん「若いゾフィちゃん<ハンナ」なんですけど、バーグは放課後のプールサイドという高校生らしい社交場にかなり後ろ髪を引かれてますし、なぜいつも早く帰るのかと聞かれて口ごもるあたりに、ハンナのことが少し負担になりはじめたことが現れていませんか。 ヤマ(管理人) この作品に出てくるさまざまな“秘密”のバリエーションとして対照されていたように感じる面が僕には強いですが、そういう面もあったかもしれませんね。 (TAOさん) 「せっかくみんなが誕生日パーティをしてくれるのを断って来たのに、君は機嫌が悪い」と、めずらしくハンナに八つ当たりもしてますし。 ヤマ(管理人) これは、負担を感じているエピソードというよりは、僕は、ハンナに気持ちが溺れこんでいるがゆえのものに見えました。拗ねてる感じのほうを強く受け止めてましたね(たは)。 (TAOさん) 私はまた、ああいう拗ね方は、バーグにしては甘えが出てきたというか、周囲がまるで見えなかった蜜月期の終わりだと思いました(笑)。 ヤマ(管理人) バーグの甘えは、終わりになって出てきたというのではなく、母親への甘えの代償部分を含んだ関係として始まるなかで、男への育ちを引き出してもらい、自分で金を工面した小旅行や母子と見間違えられる歳の差への気後れを追い遣る屋外でのキスといった行動を見せられるようになったバーグが、今度は“母性への甘え”ではなく“女性への甘え”を見せるに到ったと観るべきところかと思いました。男のなかでは、その二つの甘えは、混然としつつも、異質な甘えとしての自覚があるものなんですよ。 (TAOさん) はい、それはわかります。 ただ恋愛は、ある意味でいかに相手に甘えるかの闘いでもあって、女のほうがそれをあきらめた形が日本的な理想の夫婦像なのですが、あきらめるということは、その時点でもう恋愛は終わっているといえません? ヤマ(管理人) ええ。「あきらめる」という言葉に対しては、どこか“引き受け”のニュアンスを強く感じる人と“断ち終わる”ニュアンスを強く感じる人とがいるような気がするのですが、僕も“終わり”感のほうが強いですね。 それはそれとして、男には、異質な甘えとしての自覚があるから、“パートナー女性への母親の投影”や“母親への女の性の投影”は、女性がお感じになるような形での明快さで現れてくるものではないんですが、女性にそのあたりが伝わりにくいのは、これまた当然のことなんでしょうな(あは)。 バーグって、律儀な奴なんですよねー。ハンナが去った後、湖だか川だかに一人全裸になって水に入るときも、えらくきちんと脱いだ衣類をたたんで積み重ねてましたよねー。 (TAOさん) そうそう、ドイツ人なんですよ。ボート漕ぎの“マイケル”なら、脱ぎ捨てるはず(笑)。 ヤマ(管理人) そうや、そうや(笑)。 (TAOさん) 少し重荷にもなりかけていた矢先にハンナが消えたことで、バーグは自分を責めていたんじゃないでしょうか。 ヤマ(管理人) それはあったと思います。昇進による配転話を知らないでしょうし。ほかの女子学生にも心動かしたことをハンナに見破られたからだときっと思ったことでしょうからね。 (TAOさん) だから、大学生になっても女性には関心がもてず、もし、あの裁判がなくても、いずれ女性とはつきあったでしょうけど、誰かとつきあうたびにハンナと比べてしまったでしょうね。 ヤマ(管理人) そういう意味では、ガートルードも気の毒な女性ですよね。 (TAOさん) いえ、ケイケイさんも違う角度から書かれてますが、ガートルードは狙っていた男性をまんまと落としたわけで、バーグの心を完全に捉えていないことがわかっていながら、結婚したんですから、自業自得でしょう。 ヤマ(管理人) なるほど。それは確かにそうかも。 (TAOさん) 両者合意の上での結婚の破綻はどちらにも責任があって、どちらかが被害者であるということはないと思います。 ヤマ(管理人) おっしゃるとおりです。女性だからって被害者じゃありませんよね。 -------文盲について思うことから浮かぶハンナ像------- (ケイケイさん) それとここもびっくり。「本当に書けないことと書けるのに書けないと偽っていることの違いが一体何によって判別可能なのかといえば、結局のところ何もない。物証の示しようのない事実であって、所詮は信憑性に左右されてしまう他者の証言以外に拠りどころのないようなことなのだ。ハンナには、そのことを思い知らされた辛い過去がきっとあるはずで、…」 私は自分の秘密を暴露することは、彼女にとって死ぬほどの恥だとしか思い浮かばなかったので。 ヤマ(管理人) もちろん恥じていればこそ、可愛い“坊や”と手堅い職を捨ててまでも姿を消すんですから、それはその通りだと思いますよ。 (ケイケイさん) ハンナは元々賢く知的探求心も強かったはずの人で、彼女も「自分はそういう人間だ」と、プライドも人一倍だったと思うんです。 ヤマ(管理人) 同感です。 (ケイケイさん) なので、自分が文盲だなどどは、墓場まで絶対持っていく気だったと思います。 ヤマ(管理人) 異議なしです。 (ケイケイさん) なので、自分から文盲だと告白した経験など、ないと思いますね。 ヤマ(管理人) ここがちょっと異なりますね(たは)。 僕はね、人のキャラクターや行動様式っていうものは、最初から固まっているものではなくて、経験のなかで形成されていくものだと思ってるので、… (ケイケイさん) あぁ、それはご指摘通りですね。 ヤマ(管理人) ハンナほどに強烈なキャラクターを形成するうえでは、やはりそれに見合った応分の体験があったと思うのです。 (ケイケイさん) うんうん、確かに。 ヤマ(管理人) ケイケイさんからの提起を受けて思い出した作品があります。『エンジェル・アット・マイ・テーブル』なんですが、御覧になってますか? (ケイケイさん) いいえ、未見です。ジェーン・カンピオンですよね? ヤマ(管理人) はい。『イン・ザ・カット』のカンピオンです。『ピアノ・レッスン』のカンピオンです。『エンジェル・アット・マイ・テーブル』のジャネットと『愛を読むひと』のハンナのキャラクターは、むしろ対照的とも言えるところがありますが、強烈なキャラクターであることは同じでした。 僕が想起したのは、自分が欲してではないにしても実際に盗みをしていたジャネットとは異なる形で、ハンナにも子供の時分に、自分の主張の正当性を証明できずに非常に悔しい思いをしたことがあって、さればこそ、逆に文盲を絶対に知られまいとする強固な意志と周到さを身に付けてきたのだろうと観たわけです。 (ケイケイさん) それはありそうですね。確かに経験が人間性を作り上げますから。 ヤマさん説にも納得です(笑)。 ヤマ(管理人) ありがとうございます。拙日誌に綴ったバーグの悔恨にしろ、ハンナの看守歴にしろ、肌を合わせて読んだ朗読体験にしろ、ホロコースト裁判の傍聴にしろ、更には、上に書いた屋外でのキスのことにしろ、僕は、この作品を眺め渡すうえでのキーワードを“痕跡”と受け止めているので、余計にそのような観方をしてしまうのでしょうね。 (ケイケイさん) あの状態で裁判官に「あなたならどうしましたか?」と問うたり、久しぶりに会ったマイケルの問いに「字を学んだわよ」と長年の牢獄生活で老いても、そう答える女性ですから、自我は相当強烈な女性ですよ。 ヤマ(管理人) まったく同感です。 (ケイケイさん) そういう面からは、立証できないから絶望しただなんて、そんな軟なタマじゃないと思います(笑)。 ヤマ(管理人) 絶望したのは「必死の問いかけに黙して応えない裁判官の仕切る法廷審理や最年少者と思しき自分に全ての責を被せて自身の減刑を画策する旧同僚たち」に対してであって、自分の文盲を立証できないことに対してだとは僕も思ってませんよ。43歳になってましたからね、文盲が立証できないものであることなど、今更絶望するまでもなく、彼女は体験的に知っていたに違いないということです。 じゃあ、もし物証を示して立証できる性質のものであったなら、ハンナが文盲を自ら主張して不当量刑を避けようとしたか、あるいは量刑の如何によらず、文盲だけは秘匿しようとしたかってことで言えば、彼女のプライドがどっちに働くかは僕には不明です。彼女自身のなかでも、前提の成立しないナンセンスな選択の余地など、想像もしなかったろうと思います。 (ケイケイさん) 何に絶望していたかという辺りは、やはりちょっと違うかな。 私は、裁判官にも同僚にも、絶望していたとは感じませんでした。 ヤマ(管理人) 何に対してであれ、絶望を覚えるような軟なタマではないってことなんですね(笑)。 (ケイケイさん) 彼女はただ、彼女なりの正義で真実を述べただけで、この人たちの答弁に、何も期待してなかったんじゃないですかね? ヤマ(管理人) 特に期待はしてないんでしょうが、それにしても、死なば諸共どころか自分にだけ全てを押し付けてくるとまでは思ってなかったんじゃないでしょうか。しかも、事実とは異なる押し付けですよね。 (ケイケイさん) それはあったでしょうね。何故なら、ハンナは自分のしたことが、どうして隠さなければいけないのか、イマイチわかっていなかったんじゃないかと。 ヤマ(管理人) ユダヤ人収容所での看守歴は、彼女にとっての“秘密”ではなかったということですか? “死の選別”を行わざるを得なかったことに対して、そこまで鈍感ではなかったと思いますよ、イラナの証言からしても。 (ケイケイさん) もちろん良い行いだったとは、思っていなかったと思います。でも良心の呵責はあっても、罪を犯したと思っている人が、あそこまで理路整然と、「自分の正論」が言えるものかとも、不思議なんです。イマイチわかっていなかったので、他の看守とは証言の内容が違っていたんじゃないですかね? ヤマ(管理人) それは、やはり彼女が下着にもきちんとアイロンを当てるような性格で「出される判決に向けた法廷戦略や思惑などに思いの及ばない生真面目な直情さ」を備えた人物だったからではないでしょうか。看守として収容所の規律に従ったように、被告として法廷審議の規律に生真面目に従ったのだと思います。 (ケイケイさん) 生真面目さだけかなぁ。謎だわ(笑)。あそこで、奇異な人だとは感じませんでした? ヤマ(管理人) 僕は、アリエルさんへのレスにも書いたように、二十歳をいくらか過ぎたくらいの頃のハンナは、まだ文盲を隠す術に後ほどには長けておらず、同僚たちには知られていたんじゃないかと思ってますから、ハンナには報告書が書けないとの証言までは出ないにしても、彼女が書いたと口を揃えられたことに流石のハンナも平然としてはいられなかったろうと思います。 (ケイケイさん) これはどうですかね。 ヤマ(管理人) もちろん行間のなかの世界ですから、確証はありません。 (ケイケイさん) 文盲で恥ずかしい思いなら、もっと若い、思春期以前にしていると思います。 ヤマ(管理人) それは、僕もそう思います。 (ケイケイさん) 私は、この頃はもう既に、自分のハンデを隠す術にたけていたと想像しています。 ヤマ(管理人) そんなに生易しいことなんでしょうか。 (ケイケイさん) 用意周到にしていれば、可能かと。変な話なんですが、集中力の問題なんだと思います。 ヤマ(管理人) ナチス親衛隊に入る前の工場を彼女が辞めたのは、そのことが影響していたろうと僕は思っているので、少なくとも1944年時点では、長けていると言えるレベルにはなかった気がしています。 でも、66年の裁判時にはもう43歳になってましたから、ケイケイさんがおっしゃるように、軟なタマではありませんし、証明できない憤慨を表に出して余計に惨めさを味わうような愚は晒しません。というのが僕の受け止めでした。 (ケイケイさん) そういうことではなく彼女は、人に何かを期待するのを、ずっと前からあきらめていたんじゃないかと。 ヤマ(管理人) そっちの方向に行ってたんでしょうかね、やっぱり。 どうも僕には、拙日誌にも記した識字学級で読み書きを習った人たちの話が作用してか、文盲ということが大変に過酷なことではあっても、それでもって「人に何かを期待するのは、ずっと前からあきらめていた」というような人間観に到っていたとも思えないんですよね。 (ケイケイさん) いや、これこそ、彼女が文盲を隠したがった理由なんじゃないですかね? ヤマ(管理人) ほぅ。 (ケイケイさん) 文盲といっても、人それぞれ背景が違いますから、隠す人もいれば、コンプレックスを持っていても、人には隠さない人もいるし。 ヤマ(管理人) そうです、そうです。文盲の露見が死よりも重い人もいれば、そうでもない人もいるはずですよね。 (ケイケイさん) ハンナの場合、文盲から、芋づる式に自分の過去が露わになることのほうが怖かったんだと想像しました。 ヤマ(管理人) ここにおっしゃる「自分の過去」って看守歴のこと? それなら、まさに僕の思いと同じです。 (ケイケイさん) いいえ。文盲=最低の義務教育も受けていない、ということです。 ヤマ(管理人) そうですね。文脈を読み返せば、自ずとそうなりますね。失礼しました。 (ケイケイさん) 親がいたのかいなかったのか、極貧だったのか、親がいてもひどい親だったからなのか、何らかの「不幸せ」な理由がありますよね? ヤマ(管理人) 教育を受けられなかった不幸のことですね。彼女の責に因らないであろう理由があった気がします、僕も。 (ケイケイさん) 不幸な上に、普通でもなかったということです。それが何なのかまでは想像つきませんが。 ヤマ(管理人) これについては、僕は、拙日誌にも綴ったように看守歴の“痕跡”を観ているのですが、ケイケイさんは、もっと以前からの彼女の気質のようなイメージをお持ちですよね? (ケイケイさん) そうですね。やはりプライドが非常に高い人だと思います。堕落という言葉も無い人だと思います。 ヤマ(管理人) “痕跡”がこの作品の主題だと解している僕は、それには拠りませんが、そういう場合もあろうかとは思います。僕は、ハンナが市電の車掌を辞め、バーグの前から姿を消したのも、契機は文盲でも+ナチス親衛隊での看守歴ゆえだったと思っています。だから、ホロコーストに加担したことに、そこまで鈍感だとは思えなかったんです。 また、「人に何かを期待するのは、ずっと前からあきらめていた」ということについても、八年前のバーグとの出会い後、激変したかもしれませんが、少なくとも八年前は、そこまで頑なな人物ではなかったですからね。 (ケイケイさん) 私は結構頑なな人に見えました(笑)。彼女がプライベートで接点があったのは、マイケルだけだったので。 ヤマ(管理人) でも、見知らぬ少年の苦境に手を差し伸べる女性だったわけでしょう? (ケイケイさん) それは少年だったから、と思いました。 ヤマ(管理人) なるほど。少年ゆえに頑なさの例外対象だってことですね。 (ケイケイさん) そうそう(笑)。 見知らぬ少年の苦境に手を差し伸べたことについては、イラナ証言の「人間味豊かな人だった」に通じるものがありました。看守時代も、少女たちに本を読ませていたでしょう? ヤマ(管理人) そういう証言がされましたね、イラナから。 (ケイケイさん) ですから、もちろん彼女が豊かな感情を持ちあわせていたというのに、異論はありませんが、その感情の出し方全てが、正しい方向ではなかったというのがハンナの哀しさだ、というのが私の観方です。 ヤマ(管理人) それは、報告書記述の自認や裁判官への反問といった裁判時の主張の仕方も含めてですか? 彼女は、それによって無期懲役囚として収監されたのですから、そこのところをどう観るかは、とても重要なポイントだと思うんですが。 (ケイケイさん) 主張はとても正しいけど、生きる上ではとても不器用ですよね? この件は非常な自我の強さも感じます。 ヤマ(管理人) 主張は正しいけれど、感情の出し方として正しくなかったと受け止めておいでるわけですね。 (ケイケイさん) そうですね。 ヤマ(管理人) それはそれとして、ほかにもハンナは、お礼に来て炭だらけになった身体を洗っていた少年の背後から全裸になって身体を寄せていった女性だったわけでしょう? (ケイケイさん) これ、情感豊かな感覚ですかね?(笑)。 ヤマ(管理人) 場合によってはそうなることもあるでしょうが、普通は、全裸になって迫ることを情感豊かとは言いませんね(苦笑)。でも、僕が示したのは、ハンナの情感の豊かさの例示ではなくて、彼女の頑なさとか人への期待とかってことについての反証例だったんですが(笑)。 (ケイケイさん) 自分の息子のような年齢の男性を誘うのは、作品ではロマンチックに描かれていますが、現実的には一般女性の行動としては、一種破滅的ではないでしょうか? ヤマ(管理人) そう言えば、『東京タワー』の詩史にはお怒りでしたものね〜。ミセス・ロビンソンは、いかがですか?(笑) (ケイケイさん) 詩史は論外ですから(笑)。ミセス・ロビンソンはいいんじゃないですか? お互いいい思いもしているし、遊びだと割り切ってますから(笑)。 ヤマ(管理人) 結果的にちゃんと『卒業』させたしね(笑)。それはともかく、見知らぬ少年を助けることや自ら全裸になって身体を寄せていくことからしても「人に何かを期待するのは、ずっと前からあきらめていた」というような人間観に到るほどの頑なな人物ではないと思いますよ、僕は。そりゃあ、境遇が境遇ですから、けっこう頑なな人ではあっても「人に何かを期待するのは、ずっと前からあきらめていた」というのは、相当なことですもん。 (ケイケイさん) 先のレスにも書きましたが、文盲であるということだけで、相当な苦労だと、私は解釈しています。それと独り身であること。 ヤマ(管理人) それはそうですね。だから、人など頼らない、人に期待などしないとなっていくというわけですね。 (ケイケイさん) とはいえ、文盲であっても、家庭を築く人のほうが多い訳ですよ。ハンナにそれが出来ないのは、いっしょに暮らす人に嘘をつき通すことを良しとしない彼女の潔癖さと、どうしても文盲だと言えないプライドの高さの、両方を表すとともに、孤独・孤立という言葉も連想しました。 ヤマ(管理人) 僕は逆に、彼女は根底では人を希求している人物だと受け止めていました。 (ケイケイさん) うんうん、それはあったと思います。それを素直に出せないのが、彼女の哀しさですね。 ヤマ(管理人) だから、バーグに手を出すし、裁判官にも反問するし、バーグの態度で自殺もするのだと。 (ケイケイさん) マイケルは彼女の人生で、唯一無二の存在だったんじゃないかなぁ。 ヤマ(管理人) それはそうです。だって、死を選んでしまうくらいですもの。人を希求しながらも、大きな秘密を恥として抱えていて、それを叶えられないわけで、そこに哀れを感じていました。 もちろんプライドも高かったのですが、彼女のプライドの高さは、僕には“どうしても文盲だと言えないプライドの高さ”としてではなく、それだけ大きな秘密を恥として抱えながらも、堕落と自棄を遠ざけて「電車の車掌などという地味で真っ当な仕事に就いて自活していること自体が、驚異的な自立心の強さと自尊心の高さのみならず、意志の強さと有能さを示してもいるわけだ。」と拙日誌に綴ったような形で現れてきていると受け止めています。 僕とケイケイさんの作品解釈は、概ね同じなのですが、このハンナのプライドと性格をどう読むかの部分がかなり違っているのでしょうね。 (ケイケイさん) 優秀な人だったというのは、異論ありません。ついでに、倫理観も相当高いと思います。変な話が、私は彼女は水商売をしたり、体を売ったりしたことはなかったと思います。 ヤマ(管理人) ええ、僕もそう思ってます。拙日誌に「バーグと出会った35歳時点で、電車の車掌などという地味で真っ当な仕事に就いて自活していること自体」と綴ったときに僕が思っていたのは、まさにケイケイさんが「変な話が」と書いておいでることそのものでした。 (ケイケイさん) そういう意味の気高さを持っている人だと。だからマイケルは特別な人なんです。 私は、人に何かを期待することを彼女がずっと前からあきらめていたと思って観ていたので、マイケルの返事を待っている状態の彼女は、とても狂おしいだろうなと、感じていました。 ヤマ(管理人) 人に何かを期待するのをとうに諦めていても彼に対してだけは別だったということなんですかねぇ。まぁ、そういう場合も勿論あると思うのですが。 (ケイケイさん) マイケルというのもあるでしょうが、「自分で書いた手紙」という部分のほうが、大きいと思いました。 ヤマ(管理人) それはそうですよね。文盲の人が字を手に入れた感激の重みについては、僕も多少は知っているつもりです。もともと僕は、ハンナが「人に何かを期待するのをとうに諦めている」ような人物だとは観ていなかったので、拙日誌に「六十歳近くなって遂に文字を手に入れ、本を自分で読めるようになり、自分の思いや考えを文字にして残すことのできる感激をバーグのおかげと自分の必死の努力で獲得した思いの丈を酌んでもらえることなく、「“坊や”は私を赦してなどいなかったのだ」と受け止めたであろうハンナが、生の希望を一気に剥ぎ取られたように感じたのは、無理からぬことのように思う。」と綴ったのでした。 (ケイケイさん) マイケルの返事を待ちながらのハンナの心のなかは、「私の字は、あれで読めたのだろうか?」「文章は理解してもらえたのか?」とかね。もちろん過去に愛した男性というのもあるでしょうが、私は、そちらのほうの比重が多かったと思いました。 ヤマ(管理人) ここのところも、どちらがより重いかは僕には判りません。僕の解釈では、バーグは、単に過去に愛した男性というばかりでなく、看守歴を知られ無期懲役に処されても、自分を断罪することなく朗読テープを送ってくれるという“赦し”を与えてくれた男性で、それゆえに独学で識字に向かう力を与えてくれた人物だとハンナが思っていたというふうに行間を読んでいるので、かなり重い存在感を持っていたと思ってます。 -------ハンナにとっての“恥”とは------- ヤマ(管理人) ハンナにおいては、“文盲”も“死の選別”も、否応なく負わざるを得ない“恥”であって、そこに格別の差があったようには思えませんでした。 (ケイケイさん) ここも違うかな。 私は死ぬことよりも、文盲であることを知られるほうが、彼女には屈辱だと取りました。 ヤマ(管理人) “死の選別”は彼女が死ぬことを指しているのではなく、ホロコーストに加担して彼女が行ったことを指していたんですが。 (ケイケイさん) すみません、取り間違えましたね。でも、彼女は「死の選別」に対しても、感情よりもまず任務を速やかに遂行することが重要だったでしょうから、このことには、それほど恥を感じていなかったと思います。 ヤマ(管理人) 任務と思っていることや罪悪感を覚えてはいないということと、恥というか秘すべきことと感じているかは別だと僕は思ってますが、別に恥とは感じていなかったと思う解釈自体を否定するものではありません。すべては行間のなかの世界ですからね。 でも僕は、彼女においてそこに格別の差があったとは思えませんでしたから、ユダヤ人収容所の看守をしていたことが露にされた場であっても、文盲のほうにだけはとことん拘ったとも言えない気がする一方で、一方が露にされただけに、せめて他方はと命を掛けるかもしれないと思えないわけではありません。 (ケイケイさん) 私は、裁判の時の彼女は、看守であったことをそれほど恥ずかしいことだとは思っていなかったと感じています。後述でマイケルにも「牢獄に繋がれて初めて、死者のことを考えた、でも死んだ人は帰ってこない」って、言ってませんでした? ヤマ(管理人) 確かに、収監されるまで考えたこともなかったと言ってました。でも、そのことや罪悪感を覚えているわけではないということと、ナチス親衛隊に属していたことを人に知られたくない恥だと意識していることが、矛盾するとは僕には思えないんですけどね。 (ケイケイさん) 矛盾はしていませんよね。でも私は、ナチスの親衛隊であったことは、生きる上での便宜で隠したかったのじゃないかと、感じました。恥というのではなく。 ヤマ(管理人) なるほどね。隠したいことという自覚があったはずとの点で一致していれば、充分です。所詮は“便宜”からのことなので、文盲を隠したかった思いの強さとは比較にならないと受け取っておいでだとのことなんですよね。了解です。 (ケイケイさん) ありがとうございます。彼女にとっては、看守も生きるがための、仕事の一つだったと思うんですよ。文盲を隠し通せる仕事は、それほどないでしょうし。 ヤマ(管理人) だから仕方なかったと思っていることに迷いはなく、確信しているでしょうが、それだからといって、恬として恥じてないとは思えず、文盲と同じく、人には絶対に知られたくない秘密だったろうと僕は思います。 (ケイケイさん) この辺は、どの描写からお感じになられましたか? ヤマ(管理人) うえにも少し書きましたが、車掌から事務職への昇進が嫌なら、それを拒めばいいだけのことだと思うのに、いきなり姿を消したからです。 (ケイケイさん) 私は拒む理由に、また嘘をつかなければいけないからと思いました。 ヤマ(管理人) ばれてはいけない嘘ですからね、隠す対象が何であれ。 (ケイケイさん) 嘘や隠し事は、文盲のことでたくさんだと思っていたんだと。 ヤマ(管理人) なるほどね。彼女には、潔癖さが窺えましたからね。 (ケイケイさん) すごく感じました。転職は親衛隊の前にも、繰り返していたと思います。 ヤマ(管理人) 文盲が露見して居たたまれなくなっての転職か、文盲を隠すための転職か、いずれであれ、僕も転職・転居を重ねていたと思ってます。ただ、あのときバーグから離れなければとの思いがあったにしても、生活手段を、それも比較的安定していると思われるまともな仕事を、35歳の年齢で次の職への紹介状もない(であろう)状態で、棒に振ってしまうのは、ケイケイさんのおっしゃってた芋づる式に看守歴まで知れることの恐怖が働いたからだろうと思っているわけです。 (ケイケイさん) 私が、彼女は看守歴を恥じてないと感じたのは、裁判の判決の時に軍服のようなスーツ姿であったことと、裁判時の証言からですね。あれは看守という仕事から考えると、一分の隙も無い答えです。裁判官に「あなたなら、どうしましたか?」も、そう。確かに戦争責任を個人に押し付けることの是非を問うた描写ですが、その隙のない答弁が、彼女の微妙な「いびつさ」を際立たせた気がしました。 ヤマ(管理人) 彼女が罪悪感を感じてなかったろうということに、異論はありません。そのことが恥じてないことに直結するか否かについては、うえにも書いてきたように、行間のなかの世界ですから、どっちもあり得るんでしょうね。 それはそれとして、バーグが裁判を傍聴し、彼女が「ホロコーストに加担していた事実を受け入れるのは困難至極だったのだろう。」と拙日誌に綴った状態で、「おそらくは裁判での証言を申し出るつもりで向かったはずのハンナとの面会を、実際は、寸でのところで止めて」しまったのは、やはりバーグは、彼女を赦せてはいなかったんだろうと思います。 (ケイケイさん) これは同感です。 ヤマ(管理人) でも、断罪する気持ちもなかったでしょう。バーグは、ガートルードに逃げ込みました。僕は、そんなふうに観ました。 (ケイケイさん) 縄も張ってたしね(笑)。 そして他の看守たちなんですが、ついでに言うと、彼女たちも恥だなんて、思っていなかったんじゃないかと思います。当時の価値観では、正論だったんだし。 ヤマ(管理人) でも、裁判時は1966年ですから、戦後、二十年を超えてますよね。 (ケイケイさん) 恥だと思っていたら、ハンナ一人に責任を負わせないでしょう? ヤマ(管理人) そんなに皆さん潔くはないですよ。恥だからこそ、他者になすりつけたくなる人もいると思います。 (ケイケイさん) このレスで気付いたんですが、段々わかってきましたよ。多分ヤマさんと私とでは、この作品での「恥」の概念が少々違うんだと思います。 ヤマ(管理人) そうみたいですね。 (ケイケイさん) 私は自分の罪深さを潔く受け入れること=恥を知ることだと、認識していたんです。 ヤマ(管理人) なるほど、そうでしたか。 (ケイケイさん) やはり長くお話してみるもんですね。 今週息子が定期試験中で大人しくしているので、時間があって良かったです(笑)。 ヤマ(管理人) 「知る」が加わると、深い意味づけを伴った恥を指すようになってきますよね。 (ケイケイさん) ナチスの他の看守の場合は、確かに恥だとは思っていたでしょうけど、私の認識とは違うでしょう? ヤマ(管理人) 全然、潔く受け入れてはいませんでしたから。 (ケイケイさん) 比喩すれば、親兄弟が警察に捕まると、お家の恥みたいに言われますよね? その感覚に近いのじゃないかなぁ。だから罪をなすりつける。 ヤマ(管理人) そうですね。 僕の捉え方では、恥と罪ってセットものではないんですよね。例示の警察に捕まるような犯罪の場合は、もちろん「恥」たる「罪」をなすりつけることになりますし、ホロコースト裁判は法廷だったから、犯罪が問われていたわけですけどね。 僕は、罪を「社会や制度を含む他者から悪しきこととしてラベリングされるもの」、罪悪感を「他者からではなく、自らが悪しきこととして自責を伴って意識するもの」、恥を「他者に晒されたくない隠したい事実」というふうに捉えています。三つとも重なる場合もあれば、二つしか重ならない場合、重なりのない場合、いずれもあるように思っています。 僕のなかでは、ハンナにおいて、文盲は、罪ではなく、罪悪感もない恥であり、ユダヤ人収容所の看守歴は、罪であり恥であるけれど、罪悪感は負ってないものとして意識されているんですよね。 (ケイケイさん) なるほど、罪悪感ですか。これなら私も同感です。 ヤマ(管理人) ありがとうございます。 (ケイケイさん) 日本語って美しいですけど、難しいですね。 ヤマ(管理人) 言葉というのは、自由な分だけ不自由なものです(笑)。 (ケイケイさん) 私ね、ヤマさんとお話していて、当時ナチスの親衛隊にいた人は、戦後本当に自分たちは罪を犯したと、深く認識していたんだろうか? と、今更ながらそのことに興味が惹かれています。私たちは、学校ででも書物ででも、ナチスの非人間的な行いは許してはならないと、叩きこまれていますが、当事者はどうなんでしょうか? ヤマ(管理人) さまざまあるんでしょうね。とても一括りにはできない気がします。 うえに書いた罪・罪悪感・恥の僕の捉え方に沿って考えてみても、三つが重なっている人もいるだろうし、実際に携わりながらも三つとも負ってない人もいるだろうし。 (ケイケイさん) ちょっと違うけど、原爆を投下したアメリカは、戦争を終結させたから正しかったんだという認識が、アメリカでは強いでしょう? ヤマ(管理人) そのように喧伝されることが多いですね。 実際のところは、よく判りませんが、そっちが多数派なんだろうという気がしてます。少なくとも政府レベルでは、オバマ大統領による歴史的演説が行われるまで、非としての責任を認めていませんでしたよね。日本の、侵略戦争とも大東亜解放戦争とも言われる戦争にしても、今の日本が公式に位置づけているのは“不幸な出来事”である気がしています。 (ケイケイさん) 戦争に勝ったので正しかった、負けたので罪深い、そんな単純な構図ではないのに。原爆のことも、日本は世界で唯一投下された国だから「それは違う」と言えるわけでしょう? ヤマ(管理人) もちろんそう言えますが、現職閣僚でさえも止むを得なかったと発言して、辞任に追い込まれたことがあったような気がします。 (ケイケイさん) ナチスの親衛隊だった人が皆、当時の自分を恥じていたり悔いていたりするというのは、当事者でない者の思いこみだ、とはいうことはありませんか? ヤマ(管理人) 皆ということならば、勿論そうですね。 少なくともここで話題になっているハンナについては、僕も「彼女が、自分のしたことに対して罪の意識を持っていないのは、他に術のない仕方のないことだったとの確信があったからだろう」と思っていますが、それがハンナのほか皆に共通する考え方かどうかは判りません。また、罪悪感を持っていないことが、恥と捉えることと矛盾しないと僕は思っているので、「“文盲”も“死の選別”(ホロコースト加担のことね)も、ハンナにおいては、否も応もなく負わざるを得ない“恥”であって、そこに格別の差があったとは思えません」とも書いたのでした。 で、罪悪感を抱いていないハンナにおいて、なぜ赦しが必要なのかというと、他者からの赦しというのは、自発的な“罪悪感”に対するものではなくて、他者からのラベリングである“罪”に対して与えられるものだからです。ハンナに限らず、その求めが切実になるのは、罪悪感を抱いていればこそ、という場合もあるし、罪悪感を持てないからこそ、という場合もあろうかと思います。 先にケイケイさんが「ある意味、矯正という観点からは、彼女の行動はベストだと思いました。」とお書きになったときに、それが文盲に対するものか、犯罪行為に対するものか、あるいは、おっしゃるところの彼女の頑なな性格に対するものか、判然としないままレスを返しましたが、ここで、僕は少し誤解をしてしまったようです。ケイケイさんは、更生と書いてないから、犯罪との関係を仰ってるのではなく、文盲に端を発する“頑なな性格という「いびつさ」の矯正”という意味だったんじゃないですか? (ケイケイさん) そうです。 ヤマ(管理人) それなら、罪ではないので、“矯正を企図した教育刑”と僕が受けてはいけませんでしたね(詫)。 (ケイケイさん) 自分で読むのと、読み聞かせてもらうの違うでしょう? 一度立ち止まって考える力は、やはり自分で読まないと。 ヤマ(管理人) 字を識ることのもたらす力は大きいですよね。 (ケイケイさん) それに新聞の読み聞かせのシーンはなかったし、時事やその他政治的なことや、教養以外の部分の様々な記事・意見を読んで、ハンナなりに、考える時間が牢獄では充分あったろうと思いました。 ヤマ(管理人) 文字を得てからのハンナは、きっと沢山の本を読んだことでしょうね。おそらくホロコーストに関するものやナチス親衛隊に関するものも。僕は、後の遺言の内容からも推察されるように、裁判時には罪悪感を抱いてなかったハンナが、刑に服している間の識字自習によって、罪を負わされたこととは別に“罪悪感”のほうも抱くようになったと解しているので、罪の意識を持っていない者に罪の意識を自覚させる手段という意味で“矯正を企図した教育刑”という受け方をしてしまいました。 というわけで、僕が焦点のずれたレスをつけてしまった箇所のように思われるのですが、文盲に早くからお気付きだったことが、「矯正という観点からは、彼女の行動はベストだと思いました」と書いておいでの感じ方に、どう繋がってくるんでしょうか? (ケイケイさん) 私は彼女のある種のいびつさ、頑なさは、文盲だけではなく、それを恥じているということから、来ていると感じました。文盲であることを、便宜上隠す人は多いでしょうけど、それを恥だと思わない人も多いと思うんですね。きっと本来のハンナは、生き残り女性の語った「知的で人間味あふれる人」だと思うんですよ。特に賢さは、文盲であるにも関わらず、看守や車掌など、監督や管理する側の仕事につく優秀さがあるんですから、相当だったと思います。それは彼女も自負していたと思います。 なので、字が読めない自分というのが、彼女は受け入れられなかったと思うんです。本来なら、文盲であるのに職につき自活しているというのは、褒められてしかるべきことかと思います。字が読めれば、矯正というより、本来の彼女の豊かさが引き出せ、自分の人生も肯定でき、看守であったことも、視点を変えて考えられるかと思ったんです。 ヤマ(管理人) そのとおりだと思います。まさしく僕もそう思いました。ですから、これってハンナの文盲に早く気付くこととは余り関係してこないように思うのですが。また、僕は、拙日誌にも綴ったように「“坊や”は私を赦してなどいなかったのだ」と受け止めて生の力を失ったのだと解してますから、ハンナが「人に何かを期待するのは、ずっと前からあきらめていた」というような人だったとは、どうしても思えないんですよ。まぁ、これもまた“罪悪感”のほうと同様に、識字自習によって矯正されたから変わったのであって、文盲のときはそうだったんだと言えなくもない行間のなかの世界のことではありますが(笑)。 (ケイケイさん) 確かにマイケルへの思いが、テープによって再燃したと思います。そのことは、私も日記に書いてますし。マイケルからの返事は期待していたと思いますよ。このことは、唯一彼女が期待したのがマイケルからの返事であるので、辛い彼女の心情が可哀想だったと、こちらでもお話していますから。 ヤマ(管理人) そうですよね。だから、人への期待を諦めているような人物ではなかったわけですが、ケイケイさんの受け止めでは、それはあくまでハンナが識字力を得て、彼女のいびつさの矯正を果たしたからであって、つまり、文盲でなくなることは、それだけ大きな意味を持つと解したということなのかなぁ。 でも、あぁそんなふうにも映るのかという見解を示していただけるのは刺激的ですよね。観方の幅が広がります。 (ケイケイさん) ところで、私がどうしてハンナや他の看守たちが恥だとは感じてないと思うかというのは、『蟻の兵隊』というドキュメントを観たからなんです。当時中国に出征していた兵士たちが、その時の条例外のため、軍人恩給がもらえなくて、必死で運動しているんですよ。それで中国まで行くわけね。中国人をいっぱい殺したり、傷めつけたりしていたかの地を訪れた時の一声が「懐かしい」であったわけです。殺した人の墓には線香を手向けるけど、「戦争がさせたことです」だけなんですね。中には当時中国人を銃殺刑にした記録がある人もいたんですが、殺したことまで忘れているんです。そのことに呆然としてはいましたが、やはり「戦争がさせたんだよ」だけなんです。自分自身への問いかけは一切画面からは出ていませんでした。むしろ被害者だと言わんばかりなんですね。 ヤマ(管理人) 『蟻と兵隊』は、とても気になっている作品です。こちらでは未公開ですが。それはともかく、このお話を伺って、ケイケイさんには『炎628』の拙日誌と『日本鬼子 日中15年戦争・元皇軍兵士の告白』の拙日誌をご覧いただきたくなりました。未見作品でも厭わないようでしたら、お願いします。 (ケイケイさん) 両方未見ですが、前に『蟻の兵隊』のお話をしたとき、拝読させていただきました(*^_^*)。 ヤマ(管理人) そうでしたっけ。これは失礼しました(苦笑)。 (ケイケイさん) ハンナに関してはまた別だと思いますが、他の看守の人、私には『蟻の兵隊』のお爺ちゃん達と似て見えました。確かに恥だとは思っているでしょうけど、自分の罪ではないんですよ。 ヤマ(管理人) そうですね。僕の用語法で置き換えると、恥だとは思っているけど、加害の罪悪感を持ってないということになりますね。そのとおりだと思います。 (ケイケイさん) “死の選別”の当事者の誰もが恥とは思っていないというこの作品の描き方の辺りも、視点をずらして「戦争」について言及しているからだと思いました。 ヤマ(管理人) 戦争も勿論ですが、人の性根というものについて言及していますし、裁判審理というものの危うさにも言及している気がします。 ふと思ったんですが、『グラン・トリノ』のウォルトも罪悪感は持ってなかったですよね。神父の期待に反して懺悔もしなかったし(笑)。 (ケイケイさん) ここはちょっと違いますね。 私は、罪悪感は持っていたと思います。それをそういう自分を認められない、受け入れられないから、苦しかったんじゃないかと思います。懺悔に行く必要を感じないのではなく、懺悔に行く事=罪を認めることが出来なかったんじゃないかと。 ヤマ(管理人) 僕は、先ほど整理したように、罪悪感を「他者からではなく、自らが悪しきこととして自責を伴って意識するもの」として捉えているので、「そういう自分を認められない、受け入れられない」のであれば、定義矛盾を来たすので、敢えて「自分のしたことに鈍感ではなかったし、屈託を抱えていました」と書き分けたのですが、ウォルトの人物像として捉えているところは、ケイケイさんと大体同じように感じています。 僕がハンナについて言いたかったのも、ケイケイさんの言葉を借りれば、「罪を認めることが出来なかった」ということでした。 二人とも「その状況下では仕方のなかった最悪の事」という認識だった気がしています。僕は、そういう意味でハンナとウォルトに大きな乖離はないと受け止めているのですが、ケイケイさんは、ハンナには文盲という大きなハンディがあったから、自ずとウォルトとは異なってくるとお考えだということになるのでしょうか? ウォルトは、自分のしたことに鈍感ではなかったし、屈託を抱えていましたよね。でも同時に、勲章を大事にしていて、タオに継いでから逝きました。ウォルトもハンナも厳しい状況のなかで懸命に生き延びてきたんですよ。ま、ウォルトもいびつで頑なだったと言えば、文盲でなくてもそうだったんですが(笑)。 -------ハンナにおける文盲の重み------- (ケイケイさん) 文盲であることは、本も読めないし、教育も受けていないということですよね? ヤマ(管理人) はい。 (ケイケイさん) そうすると、やはり情操面や想像力を養う機会が、普通よりかなり少ないと思うんです。それが彼女の自分のした事に対しての、罪の意識の薄さに表れていると感じました。 ヤマ(管理人) それはそうかもしれませんね。 でも、普通よりかなり機会が少ないにもかかわらず、彼女が普通以上に「豊かな知性と感性を秘め」ていたからこそ、「裸の胸に凭せ掛けさせた頭を囲うようにしつつ本を手にした腕のなかで、自分の朗読してやる物語に涙していた女性」と拙日誌に綴ったような姿を見せていたわけで、僕は、彼女が情操面や想像力に欠けていたとは思えないんですよね。 (ケイケイさん) 欠けていたというより、人よりいびつな形で表れることがある、というか。 ヤマ(管理人) それはそうでしたね。 (ケイケイさん) 皆さん書かれていますが、普通ブラジャーにアイロンなんて、あてないんですよ。でも、ハンナの尺度の「きちんとアイロンをかける」という行為には、ブラジャーも入っている。私はあのシーン、きちんとした人だというより、少し変わった人だという印象が残りました。 ヤマ(管理人) 僕がその姿に感じたのは、これまでにも言及してきたハンナのキャラクターとしての“規律性”のとこですね。確かに少し変わっているのでしょう。しかし、僕は、そこに幼い時分の恵まれない境遇や文盲よりも、看守歴の“痕跡”を観ています。でも、もちろん他の観方もあって然るべきですね。 彼女が普通以上に「豊かな知性と感性を秘め」ている人だったにもかかわらず、自分のしたことに対して罪の意識(罪悪感)を持っていないのは、他に術のない仕方のないことだったとの確信があったからだろうと僕は思います。 (ケイケイさん) これは同感です。 ヤマ(管理人) そして、ハンナには、自分が文盲であることを人には絶対に知られたくないという思いがあったと、もちろん思うのですが、それ以前に、文盲の証明という前提自体が成立しないことを身に沁みて知っていただろうと思ったのでした。 (ケイケイさん) 文盲の証明というのは、識字出来る者の感覚なんじゃないですかね? 読めない、書けない人には、それすら浮かばないような気がするなぁ。 ヤマ(管理人) 浮かぶ浮かばないという想像の問題ではなく、絶対的な体験として身に沁みて味わった過去があるはずだと思ったんですが、僕にも文盲の実体験があるわけではないので、お互い断言できませんよね(笑)。我々のは、どちらも想像の域を出ないものですもん(たは)。 (ケイケイさん) いやお互いではないんです、それが(笑)。 文盲というのは、絶対的なハンデですから、やっぱり隠す方が先立つと思います。 ヤマ(管理人) 彼女が自ら文盲であることを申し立てて証明したいと思っていたと僕が受け止めているわけではないことは、先のレスで「じゃあ、もし物証を示して立証できる性質のものであったなら、ハンナが文盲を自ら主張して不当量刑を避けようとしたか、あるいは量刑の如何によらず、文盲だけは秘匿しようとしたかってことで言えば、彼女のプライドがどっちに働くかは僕には不明です。」と書いた通りなのですが、ケイケイさんにとっては、明確に隠すほうが先立つように思われるということなんですねー。 (ケイケイさん) 実はネタばれになるので、感想には書けなかったんですが、私の母は字が書けませんでした。 ヤマ(管理人) そうでしたか。自身の体験ではなくても、それは余りにも身近な体験ですね。それじゃあ、想像の域を出ないということにはなりませんね。 (ケイケイさん) 読めたんですが、10歳の時に日本に来てから学校には行けなかったので、書いても猛烈な悪筆で、本当に読めないんです。だから私が小学校高学年の時から、全て代筆していました。 ヤマ(管理人) 読めるというのは、かなり大きいですね。 (ケイケイさん) このことはね、誰も知らないんです。夫であった父も知らない、妹も知らない、親兄弟でさえ知りません。本国では学校に行ってたし、なまじっか読めるもんだから、書けると思ってるんですよ、祖父母も。 ヤマ(管理人) それはそうでしょうね。でも、あり得ることですよね。僕だって、読めるけど、書けない字というのは、ごまんとありますから。でも、それが難しいというか、事の本質は、書けない字があるとかないということではなく、多くの人との並びから大きく後退していることのほうで、誰もが書ける字が書けないと、とてもツライでしょうね。 (ケイケイさん) 前に、文盲を隠すことについて「用意周到にしていれば、可能かと。変な話なんですが、集中力の問題なんだと思います。」と言いましたが、盲目の人が聴覚に長けるでしょう? 兄嫁のお母さんや、義妹の姑がやはり文盲なんですが、一度尋ねたことは、二度と忘れないことで、ハンデを乗り越えたきたと、口を揃えて仰るんですよ。二人とも10歳そこそこから働いていたそうですが、周囲にはほとんど、知られなかったそうです。 ヤマ(管理人) そう言えば、ケイケイさんもバーグと同じように、お母さんの件を「誰も知らない」とお書きでしたね。自分は知っているけど、他には誰も知らないと人が思える程度に長けるのは、さほど難しくはないのかもしれませんね。でも、それは「周囲にはほとんど」っていうことであって、完璧を期するのは、やはり困難なことなんだろうと思いますよ。また、目立った支障がなければ、仮に気づいても、気付かない素振りに努める人も少なくないでしょうし。 でも、ハンナは、完璧を期しちゃうんでしょうね。ケイケイさんがおっしゃるところの「いびつさ」でもって。拙日誌に「何とも哀れなハンナだった。」と綴ったことを改めて想起しました。 (ケイケイさん) そうそう。この辺の完璧さを求めるのが、私も彼女の哀れさだと思います。 字が書けないということは、学校に行ってないということですよ。 ヤマ(管理人) はい。 (ケイケイさん) 当時としたら、母のようなケースもあったでしょうが、母は自分は日本生まれの二世だと、子供にまで嘘ついてましたから、芋づる式に全部ばれるでしょ? 嘘って嘘を呼ぶんですよ。だから絶対最初の嘘は、ばれちゃいけないんです。 ヤマ(管理人) はい。 ばれにくい嘘というのは、最初から六、七分までは本当で、最後の一、二分が嘘という巧妙さが整ってないといけませんものね。とりわけ最初が嘘で始まっていると猛烈に厳しいです。それを破綻させずに維持するのは、たいへんな苦労だろうと思います。 (ケイケイさん) 私には、自分の母親がひどい人なので、学校には行かせてもらえなかったと、また違う事を言ってました。でもあながち嘘ではなく、それも一理あるんです。母より10歳前後年上の在日の世代は、日本語が読めない人が多いんです。それを隠すことも無く、がむしゃらに働いて、安定した生活を築いた人もたくさんいますが、母にそれが出来なかったのは、性格的なこともあったでしょうが、母の年齢になると、日本語の読み書きできない人の比率が、ぐんと下がるんですよ。それが母の「恥の源」です。 ヤマ(管理人) ええ、多くの場合、“人並み”でないってことが人を苦しめますよね。 (ケイケイさん) おまけに自分の両親は生まれが良いものだから、同世代の人がほとんど読み書きできないのに、達筆に筆で字を書けるんです。なのに、自分は書けない。母親(祖母)は女学校を出ているのに、娘(母)には小学校も行かせない。本当に悔しかったと思います。そういう親に生まれたことも、呪ってました。 ヤマ(管理人) それは、本当にツライでしょうね。いろいろ事情があったんでしょうが、事情なんて、当人にとっては気休めにもなりませんものね。なんで自分は…って思いに囚われることだろうと思います。その分、自分の娘(ケイケイさん)にはって、期するところもおありだったんじゃないでしょうか。 (ケイケイさん) 私は、ハンナもそういった背景があって、身に染みるような過去がなくても、「恥の概念」が、子供の頃からあったと思いました。だってみんな学校に行ってるんですよ? 自分だけ行けない、それって無条件に相当哀しいですよ。身に染みた体験だとしたら、それだと思います。 ヤマ(管理人) 僕も、それこそ身に沁みる体験だと思いますよ。そして、身に沁みるツライ体験はそれだけでなく、他にも数々あったろうと思います。 (ケイケイさん) もちろん他にもあったでしょうね。でも幼少の時の体験というのは、強烈なんですよ。ヤマさんもお書きのように。うちの夫はヤマさんより少し年上ですが、兄弟四人全員貧しくて幼稚園には通っていません。当時としても珍しかったと思います。 ヤマ(管理人) うちも弟ともども幼稚園へは行ってません。保育園でしたね。確かに当時、幼稚園は裕福な家の子供の通うところでした。今ほどではないにしても、幼児教育としての学習面重視で、昼ぐらいまでの時間しか預からないから、午後はきちんと誰か面倒の見られる家でないとやれませんでした。費用も保育園より高額だったと思います。 幼稚園は文部省の所管で、保育園は厚生省でしたから、前者が学力伸長に向けた教育機関で、後者が生活維持のための養育支援機関ということでしたね。 (ケイケイさん) よく同じく幼稚園に通えなかった友達と、幼稚園の前まで行って、楽しそうだなぁ自分も行きたいなぁと思ったと、夫から聞いています。 ヤマ(管理人) 僕は、近所に幼稚園に通っている友達はいなかったように思います。 (ケイケイさん) びっくりしました。私の近所は、保育園がほとんどなかったです。夫の実家は近いので、似たようなものだと思います。 ヤマ(管理人) あらま。それには僕のほうがびっくり(笑)。当時は、うちは市営住宅を借りて住んでいましたが、市営住宅を借りられる世帯に幼稚園に子供をやれる家はなかったはずです。だから、幼稚園組なんぞ知らなかったし、羨む余地がなかったのでしょう(苦笑)。 (ケイケイさん) 保育園は金銭的なことより、共働きの家の子が通うところ、と当時も認識があったと思います。私が小1の時同じクラスに、両親が医師の子がいましたが、保育園に通っていましたから。今では保育園は福祉を通じると、完全無料の場合もありますが、それは母子家庭でしょうし、夫の家は稼ぎが少なくても、父親がいましたから。多分保育園に通わせるお金も、なかったと思います。 夫は幼稚園へ行きたかったわけですが、でも苦労している親には絶対その気持ちは言えない。 ヤマ(管理人) 親に言っても対処してもらえることではないばかりか、親を苦しめるだけですものね。 (ケイケイさん) 5歳やそこらの子でも、そういう感情はあるわけです。 ヤマ(管理人) それはそうですよ。このあたりは、いつの時代でも変わらないと思います。 (ケイケイさん) 義妹は、私より二つ上ですが、幼稚園に行けなかったことは、人には言えないと言います。貧しい、普通ではないということは、それほどに辛いことなんですよ。 ヤマ(管理人) 幼稚園に行くことが、そんなに普通のことだったんですか、大阪では? (ケイケイさん) 保育園にも幼稚園にも通っていなかったと言う人は、ほとんどいないと思います。 ヤマ(管理人) 高知は、確かに県民所得がずっと全国最下位クラスなんで、普通っていうのが随分とハードルが低くて、却って気楽なのかもしれませんね(苦笑)。 (ケイケイさん) 正確にいうと、保育園に行くお金もなかった、ですね。だから、それ以上に貧しかったんですってば(笑)。 まわりに行けなかった人がほとんどいないと、やっぱり恥ずかしいですよ。超赤貧の証明みたいに感じるんだと思います。両親揃っていたのに、という部分にも掛かるんだと思いますね。父親は何をしていたのかと。 義妹は、私には夫以上に、当時の家庭の経済状態を何でも素直に話してくれるんですが、父親の仕事を聞かれるのが、一番いやだったと言います。家にいる時は、また家にいるのかと、それもいやだったと。普通のお父さんみたいに、朝に出て行って夕方帰ってきてほしかったそうです。 でも方やクリスマスケーキが食べられない家があるのに(夫の実家)、その当時私の父親は社長なもんですから、あちこちからクリスマスケーキがいっぱい届くんです。それなのに私の母は、珍しいからと必ずアイスクリームのクリスマスケーキも予約するんですよ。もう主婦の金銭感覚からしたら、すごい無駄。 ヤマ(管理人) あ〜、アイスクリームのクリスマスケーキって、そう言えば、物凄い贅沢品だった覚えがあります(笑)。冬のアイスクリームって、とても珍しかったですよね。 (ケイケイさん) 母も貧しかった反動で、お金をいっぱい使うんですね。お金はあっても家庭は上手くいかず、心が貧乏なわけ。だからお金を使って心を満たそうとする。夫の実家はどんなに貧しくても、姑は子供には父親の悪口を言わず、懸命に針仕事をして家計を支えてましたから、心の面では私たち兄弟より、夫の兄弟の方が心豊かだったと思います。 ヤマ(管理人) うちは、両者の中庸ってとこでしょうか(笑)。小さい頃に食べたカレーに肉が入っていた記憶ありませんし(とほ)、カタカナの果物なんかは、病気にでもならない限り、口に入りませんでしたから。でも、まわりもみんなそんなもんだったような気がして、特別に家が貧しかったという思いも持ってなかったように思います。 (ケイケイさん) これ、すごく大事なことだと思います。 同じような苦労でも、何故自分だけが?というのと、この苦労は当たり前なんだと、みんながしているんだと、というのでは、耐久性が違うと思いません? ヤマ(管理人) 思います。苦労とも思ってませんでしたもの。その点、ハンナの文盲は、過酷ですよね。 (ケイケイさん) ハンナが文盲を隠し、自分の過去に口をつぐむのも、ハンナなりの理由があったと思いますね。 ヤマ(管理人) おっしゃるとおりだと思います。 (ケイケイさん) 自分の母親だけじゃなく、兄嫁のお母さんたちも含め、そういう体験を身近に聞くと、どうしても私には看守だったということより、文盲だということを主点に、ハンナを観てしまうんです。 ヤマ(管理人) 映画に限らず、作品鑑賞というのは、自分の歴史を抜きには成立しませんものね。当否正誤の領域とは異なるものだと常々思っています。 (ケイケイさん) 幼い頃から隠して、自分を守る術を持っていたと思えるんですねぇ。傷つくのが怖いから頑なになる、期待しない、というのはどうでしょう? それこそ感受性が豊かであればあるほど、想像力が働ければ働くほど、傷つく前に敵前逃亡することは、ありませんか? ヤマ(管理人) あるでしょうね。文盲だけか看守歴も含めてかはさて置くにしても、現にハンナは忽然と姿を消したのですから。 (ケイケイさん) 当時のドイツの文盲率がどうだったかはわかりませんが、それほど多くはないと思います。 ヤマ(管理人) そのへんは、よく知りませんが、ドイツですからね、日本ほどではなくても、文盲率は低かったでしょうね。 (ケイケイさん) なので、私的には、ヤマさんの筆跡鑑定や書けないことは証明しづらい、という記述は、少し違和感がありました。 ヤマ(管理人) これは“不存在証明”の話で、文盲に限ったことではないのですが、純粋にロジカルな意味合いでの記述ですから、共感性などというものの介在する余地がないので、生な感情や心境に付随する部分に対して用いるとひどく冷たく突き放した印象を与えるでしょうね。類似のつらさを負っておいでた方を身近にお持ちだと、違和感を覚えて当然でしょう。申し訳ありませんでした。 (ケイケイさん) 大人になってから、身に染みたのじゃないんですよ。 ヤマ(管理人) これは、僕もこの掲示板にそう書いてきたつもりですよ。最初に『エンジェル・アット・マイ・テーブル』を引き合いに出したのも、幼時のツライ体験の残した“痕跡”を言いたかったからでしたもの。『愛を読む人』の場合は、行間のなかの世界のことではありますが。 (ケイケイさん) ヤマさんには申し訳ないんですが、私にはどうしても、文盲であることを20過ぎまで他人知られながら彼女が生きてきた、とは思えないんですね。独り身でその恐ろしさに耐えながら生きられるほど、ハンナは強くなかったと思うんです。どうもすみません(笑)。 ヤマ(管理人) とんでもありません。書くことについて人一倍ご堪能なケイケイさんの身近にそんな出来事があったなんて、とても驚きましたが、ケイケイさんが書くことに長けておいでることには、もしかしたら、そのことが知らないうちに作用しているのかもしれませんね。そうだったら、ケイケイさんの文才は、お母さんの残してくれたものとなりますよ。 (ケイケイさん) 個人的な感想でごめんなさい。 ヤマ(管理人) とんでもありません。何がいつ画面に映っていて、台詞で何を言ったかを確認照合するのと違って、行間のなかの世界をどのように読むかは、一致させなければ論議にならないというようなことではありませんから、すまないというようなことではありませんよ。むしろ、行間に対して異なる読み方をした所以が何によるもので、そのように観た場合、何が浮かび上がってくるかを交換することが談義の妙味ですから、これだけ濃密に談義を交わしていただければ、申し分なしで、とてもありがたいですよ(礼)。 (ケイケイさん) そう言っていただけると、嬉しいです。 (TAOさん) ケイケイさんとの談義なんですが、「私は死ぬことよりも、文盲であることを知られるほうが、彼女には屈辱だと取りました。」というのは、私もケイケイさんと同じです。 ヤマ(管理人) 自身の死と文盲の露見とどちらが耐え難いかについては、僕は、いずれとも解していない立場なんですが、最期の時を自死で迎えたハンナですから、死は屈辱ではなかったんでしょうね。 (TAOさん) 文盲や失読症の人はふだんからそのことばかりを意識しているため、そうでない人の価値観とは逆転が起こるのはよくあることですし、 ヤマ(管理人) へぇ、そうなんですか。いわゆる囚われで他の価値が視野に入らなくなるわけですね。 (TAOさん) そうですそうです。コンプレックスは多かれ少なかれそういう弊害を生むものですけどね。「ユーニス・パーチマンがカヴァデイル一家を惨殺したのは、読み書きができなかったためである」で始まるルース・レンデルの傑作『ロウフィールド館の惨劇』を読むと、その歪み方の凄まじさが体感できますよ。 ヤマ(管理人) なるほど。しかし、囚われによる歪みの問題となると、その度合いというものには、当然ながら、個人差が大きく出てくることになりますから、一般論に還元すれば、あるなしで「あり」は言えても、「あり」の程度までは一般化できず、あり得るということにしかならなくなりますよね。ハンナにおける歪みが、自身の死との天秤のなかでどの位置にあるかは、従って、やはりどちらとも言えなくなるような気が僕はします。 僕がケイケイさんとのやりとりのなかで「彼女のプライドがどっちに働くかは僕には不明です」と書いたのは、そういうことなのですが、それは僕において不明なだけで、自身の死よりも重く受け止める場合を否定するものでは決してありません。あり得るだろうとは思います。 ただ僕のなかには、拙日誌に「人は、自分が当然のことのようにしてこなせることの持っている価値について、それを失うまでは一顧だにできないとしたもの」と綴ったことと同じような意味合いで、文盲でない者が文盲を推し量るうえで、その恥は命よりも重いと断じてしまうと、結局は同じことになるのではないかとの躊躇があって、そうは潔く思い込めなかったのでした(たは)。 (TAOさん) ああ、その躊躇はよくわかります。 ヤマ(管理人) ありがとうございます。 (TAOさん) 私が思い込めたのは、身近に母を見ているからかもしれません。私の母は文盲ではありませんが、ちょうどハンナのように、知的好奇心にあふれ、几帳面かつ自尊心の強い人で、ローマ字が読めないことと悪字であることに極端に囚われているものですから、まして母国語が読めないことがどんなに歪みを与えてしまうことか、かなりリアルに想像できてしまうのです。 ヤマ(管理人) なるほどね。ケイケイさんとも通じるわけですね。 (TAOさん) むろん類推ですけどね。 ヤマ(管理人) はい。 (TAOさん) 裁判の最終日に、まるで看守の制服を思わせるスーツを着用していたのは、偶然ではなく、彼女が看守としての職務を果たしたことを恥じてはいなかった証拠だと思います。 ヤマ(管理人) ケイケイさんへのレスにも書いたように、僕は罪悪感の有無と恥とを切り分けて受け取っていて、あの時点では、前者はなくて、後者はあったはずと思っているのですが、あれ、看守の制服を思わせるスーツでしたか? (TAOさん) 黒のかっちりとしたテーラード・スーツでした。車掌のときの制服かもしれませんね。 ヤマ(管理人) そうたくさんの衣装を持ち合わせる余裕はないはずですから、多分そうだったんじゃないでしょうか。 (TAOさん) 下着にもアイロンをあてる几帳面なハンナは、ああいうきちんとした格好がもともと好きなんでしょうけれど、制服のもつ権威とか権限にも憧れていたと思うんですよ。 ヤマ(管理人) ふーむ。憧れですか。拙日誌に「バーグと出会った35歳時点で、電車の車掌などという地味で真っ当な仕事に就いて自活していること自体が、驚異的な自立心の強さと自尊心の高さのみならず、意志の強さと有能さを示してもいるわけだ。」と綴ったように、僕は彼女の就いた職業に選択的意思を強く受け止めていましたが、“権威とか権限への憧れ”は、全く想起してなかったので、新鮮なご指摘ですね。しかし、どうなんでしょう、電車の車掌の制服に権威があるんですか? (TAOさん) ドイツの事情はわかりませんが、戦後の日本ではバスガイドさんが花形職業でしたよね。のちにそれはスチュワーデスにとって代わられるわけですが。 ヤマ(管理人) ええ、そうだったようですね。でも、持て囃されることが権威なのかなぁ。 (TAOさん) 文字が必要ない仕事ならほかにもあったでしょうし、看守や車掌を選んだのは制服を着て人の上に立てる仕事だったからじゃないかな。 ヤマ(管理人) 制服に対するイメージの違いかもしれませんが、僕は、制服には“お仕着せ”というか管理され、個性を奪われるというイメージが強いので、制服を着ることが人の上に立てる仕事というふうに繋がらないんです。 (TAOさん) なるほどなるほど。 ヤマ(管理人) いつまでたっても、制服というと真っ先に学校の制服が頭に浮かぶからなんでしょうね(苦笑)。 (TAOさん) またまた日本の例で恐縮ですが、戦時中の婦女子は、制服への強い憧れを持っていたと思いますよ。高等学校にしろ、将校にしろ、警官にしろ、制服を着ることは義務ではなく、特権だったはず。 ヤマ(管理人) 確かに、そういう制服は数多くあったでしょうね。 (TAOさん) ナチスの魅力もたぶんに制服によるところが多いですし、そこにお仕着せや禍々しさのイメージを投影するのは、たぶんに戦後の刷り込みだと思うんですよねえ。 ヤマ(管理人) なるほどね。その違いの最も大きなところを占めているのは、たぶん衣料事情の違いというところなんでしょうね。制服のようなきちんとした衣装を身にまとうこと自体が特権になるくらい、衣料事情が悪いからそうなるってことなんでしょうね。 (TAOさん) バーグも車掌姿は好きだったと思いますよ(笑)。 ヤマ(管理人) 二十歳過ぎの自分に刷り込まれたものが命令調や規律感を偲ばせているように見受けられましたから、好きだったかもしれませんね。僕は、好きというよりも“痕跡”として受け止めていましたが、そうやって身についているものを、人は自ずと好んでいるものだと思います。 あ、でも、今TAOさんがおっしゃったのは、バーグの好みでしたね(苦笑)。けど、そう言えば、市電の車掌にしても、そっち系の制服ではあるわけですよね(笑)。僕は、彼女の衣服に看守を見て取ることはありませんでしたが、作り手の意図にはあったかもしれませんね、バーグの赦せないほうのハンナの姿として。バーグとしては、車掌姿の彼女以上に、服脱いだほうのハンナが、大好きだったんでしょうけど(笑)。 (アリエルさん) 文盲については、夫に話すと(これ見たそうでしたが、煙草で映画はみられないのです(^_^))「SSに入るのに、いくら看守くらいでもサインも、書類もなしなんて現実にはありえないし他の仕事もそう。」と。掃除婦などなら・・それでも「全く読めない」は、私もちょっとヘンかとは、後に感じました。 (TAOさん) アリエルさん、原作ではハンナは、サインだけはできることになっていましたよね。看守にせよ、車掌にせよ、サインはやっぱり必要でしょう。 ヤマ(管理人) 映画でもサインの場面はありましたね。バーグから送られてきた朗読テープの入った荷物を刑務所で受け取るときに、ペンを走らせました。文字と言えるようなものではない、速記文字みたいなサインでした。 僕は、二人が再会したときのバーグとちょうど同じ頃合の二十歳を少し越したくらいのときのハンナがSSに入った頃に、後々と同じほどに文盲を隠し切る術を身に付けていたとは思っていません。ですから、例の裁判のとき、一緒に被告席に並んでいた旧同僚たちに、彼女の文盲は知られていたと見ています。 そのうえでの「法廷の流れを察した他の被告たちによって当時の報告書を書いたのがハンナであると言い立てた証言」だと思うわけです。「旧同僚たちへの絶望ゆえに」と綴ったことには、そして、「他者の証言以外に拠りどころのないようなこと」と書いたことには、そのような思いが背景にあります。 (アリエルさん) 監督の言葉には、文盲の方の事も調べたと書いてありました。でも、こういう仕事では? 農業などだけならあるかもしれませんが・・ ヤマ(管理人) 僕も文盲の方を直に存じ上げているわけではありませんが、まさかこの人が?ってケース、意外と多いみたいでしたよ。 (アリエルさん) 日本でもTVで見た事あります。仕事は履歴書を必要としない職だったと思います。という余談も。 ヤマ(管理人) 確かにそういう職のほうが多いだろうと思いますが、拙日誌にて「驚異的」と評しつつも、ハンナの窺わせていた「自立心の強さと自尊心の高さのみならず、意志の強さと有能さ」であれば、「35歳時点で、電車の車掌などという地味で真っ当な仕事に就いて自活している」ことも有り得ると思える人物像をケイト・ウィンスレットが見事に体現していたように思います。 -------バーグが証言をしなかった理由------- (ケイケイさん) マイケルは、彼女の自尊心を深く理解したのと、ナチスの看守であったことが許せなくて、結局証言しないほうを選んだと感じました。 ヤマ(管理人) 同感です。やや後者のほうが強かった分、のちの悔恨に繋がり、朗読テープを送ることに繋がったのだろうと思います。 (ケイケイさん) 私も同感です。人の人生を左右する秘密を知っているのというのは、本当に重く苦しいことですよね。それがマイケルの人生をも左右したと思いました。 ヤマ(管理人) そうですね。先に秘密を知っていることもそうですが、知らずに済ましたいような秘密を知らされることも、ですよね。でも、本当に重く苦しいことであっても、知らなければいけない、知り継がなければいけないことがあるのだとこの作品は訴えているのだろうと思いました。 (ケイケイさん) これも反戦のお話ですよね。 ヤマ(管理人) もちろん戦争やホロコーストの歴史的事実もそうですが、バーグがハンナを自死に追い遣ったことも含めてでしょうね。僕は、マタンゴさんのmixi日記のコメント欄を拝見して、バーグが最初の面会をやめてしまった理由について、彼の保身が動機との視点をいただいて、とても興味深く感じました。 (ケイケイさん) 確かに私も意表を突かれました。 ヤマ(管理人) あは、そうでしたか。 (ケイケイさん) そういう見方も確かに出来ますね。私はやや賛同しにくいですが(笑)。 ヤマ(管理人) 僕もです。この作品のキーワードだと僕が受け止めている“痕跡”の部分が少々ぼやけてきちゃいますから(あは)。 (ケイケイさん) 私は咄嗟に保身が浮かぶような狡猾な部分がある若者なら、あのような引きずった人生は歩まなかったと思いました。 ヤマ(管理人) なるほど。作劇的見地からの僕の見解よりも、物語に即しててイイですね。もっとも、後の朗読テープの送付に到る経過を思うと、保身を受け取るほうが、より贖罪には繋がってくる気がしますから、直ちに“痕跡”がぼやけてしまうとも言えないのかもしれません。僕がぼやけてくると思ったときには、拙日誌に「自分の朗読してやる物語に涙していた女性がホロコーストに加担していた事実を受け入れるのは困難至極だった」と綴った部分のことを想起してました。 いずれにしても、ケイケイさんが解しておいでの見解のほうが素直ですね。 でも、他の人の行間の読み方なればこそ、自分が想起してなかったものが得られるわけで、Fさんがアップしておいでの感想など、そこのところに最も力点を置いて書かれていたりして非常に面白いと思いました。 (ケイケイさん) 感想を読み回る時の醍醐味ですよね。 ヤマ(管理人) はい。 -------バーグと結婚したガートルードの人生------- ヤマ(管理人) ところで、映画のなかではあまり登場しなかった人物ですが、バーグと結婚したガートルードの人生についてケイケイさんは、どのように行間を読まれましたか? もう余りに長文が過ぎちゃうので、拙日誌には綴らなかったのですが、子をなした妻の話ですから、ケイケイさんには一言お伺いしとかなきゃ(笑)。 (ケイケイさん) マイケルとの結婚生活は、そんなに悩まずに別れたような気がします。 ヤマ(管理人) 愛想尽かしですか?(笑) (ケイケイさん) 当時としたら、女性ながら教育も受けてキャリアもあって、人からも敬意を集める裁判官という仕事もしてと、順風満帆の人生ですよね、結婚以外。 ヤマ(管理人) 検事だったような気もしますが、いずれにしろ、そうですね。 (ケイケイさん) 当時は今よりずっと、男性と肩を並べて仕事をするのは、女性も男勝りでなければならなかったと思います。 ヤマ(管理人) 確かに。 (ケイケイさん) なので、同期の女性たちは、独身が多かったと思うんですよ。 ヤマ(管理人) ドイツでもそうなんでしょうかねぇ、日本同様に。そのへんは、よく知らないんですが。 (ケイケイさん) マイケルの妻の恵まれている様子も、作り手はハンナと対比していたと思います。 ヤマ(管理人) なるほど。それはあったかもしれませんね。 (ケイケイさん) かたや最高の学府を出て、かたや最低限の義務教育も受けず。教育の差が、運命を分つ一旦ではあったと思います。同時に、人間としての人格には、学歴何ら関係ない事も示していたと思います。 ヤマ(管理人) ここのところは、僕はもう、拙日誌に「全く教育も受けずに育ったハンナが、最高教育を受けて法壇に鎮座している裁判官に向って「あなたなら、どうしたのか」と詰問する言葉が重く響く。」と綴っているように、被告席のハンナと法壇の裁判官の対比のなかで最も雄弁に語っていたと思っていますが、ケイケイさんがおっしゃるように、バーグを介してのハンナとガートルードの配置においても、意図されていたんでしょうね。 (ケイケイさん) それが妻のドライであっけらかんとした風情に出ていて、私もTAOさんも、同情が湧かなかったんじゃないですかねー。 ヤマ(管理人) 手厳しいTAOさんは、そこで同情なんかするのは、例によって男の思い上がりだと厳しくたしなめてくださいましたが(笑)、ガートルードに同情するのは、確かに失礼なことだと反省しております(とほ)。 (ケイケイさん) だから、あぁこの夫はいっしょにいてしんどいから、もう別れてもいいかと、あっさりしていたように思います。 ヤマ(管理人) なるほど。このあたりがキャリアも職もなかった『レボリューショナリー・ロード』のエイプリルとの大きな違いというわけですね(笑)。 (ケイケイさん) だってマイケルが夫だとしたら、私も鬱陶しくていやです(笑)。 ヤマ(管理人) ごもっとも。 それはそうと、こちらにおいでいただき、お問い掛け下さったことの遣り取りに熱が入ってケイケイさんの日記に書いてあることに言及する間もないままになっていて、ごめんなさい。書こう書こうと思いつつ、毎度のレスが超長文になってしまうので、先延ばしにしてきましたが、そんなことしていると、いつになるやら知れないので、もう書いちゃいますね(笑)。 (ケイケイさん) でも久しぶりですねー、こんなに長くお話しするのも。 ヤマ(管理人) ちょうどのタイミングで観ることができてよかったです。書き込みだから、時間は食うけど、それこそ“文字”で残りますし(笑)。 ケイケイさんの日記で、僕の目を最も惹いたのは、「彼女はこの時「対等な恋」がしたかったのだと思います。」との一文でした。 (ケイケイさん) 彼女は瑞々しい思春期の恋愛体験はなかったと想像しています。 ヤマ(管理人) なるほどね。「サイクリングデートの時のような、ああいう初々しい、爽やかなデートは、彼女はしたことなかったと思うんですよ。」とおっしゃってましたものね。 (ケイケイさん) マイケルが現れて、青春を取り戻したくなったんじゃないですかね? ヤマ(管理人) 彼が若いというところに意味があったと?(笑) (ケイケイさん) 彼女は文盲であることに卑屈になっていましたから、その引け目を感じない相手が良かったんだと思います。人生の経験値は彼女のほうが長けているわけで、プラマイ零だと踏んだのかと(笑)。あとやはり、マイケルの若さと純粋さで、自分にはなかった青春を感じてみたかったと思いました。 ヤマ(管理人) 僕は、優位を保てる恋のなかで心身を開放したい思いの切実さを感じ、そこから逆に、自室以外ではいかに窮屈でリラックスできない生活をしていたかが後になって偲ばれたので、バーグにとって以上に、ハンナにとって、バーグとの恋は特別な意味を持つ“深い痕跡”を残すものだったのだなと思いました。そう思うと、忽ち、あの母親と間違えられた旅行先の屋外での臆することのないキスがハンナに残した痕跡の深さが沁みてきたのでした。 (ケイケイさん) 開放感は賛同しますが、ハンナが何故優位に立ちたいと思われました? ヤマ(管理人) それはやっぱり文盲のことにしても、看守歴のことにしても、彼女が人には知られたくない大きな恥を抱えていて、普通に対等な位置で人に対すると“引け目”を感じてしまうから、普通には対等でない優位に立つことでようやくバランスが保てるような感じを抱いていたのではないかと思うからです。 (ケイケイさん) 多分ヤマさんと私では、言葉の使い方が違うだけで、同じ意味なんでしょうね。 ヤマ(管理人) ええ、そうだとそう思います。バーグを“坊や”と呼んだり、命令調で臨んだり、必要以上に子ども扱いしているところに、優位に立ちたいとの彼女の思いを感じました。 ケイケイさんの日記では、その「対等な恋(見下されない恋)」を求めた35歳のときと、朗読テープを受け取るようになってから後におけるハンナのバーグへの想いが記されていますが、最初の面会をすっぽかされた43歳のときから朗読テープを受け取る53歳までの十年間は、彼女にとってバーグは、どのような存在だったと行間を読んでおいでますか? (ケイケイさん) 遅かりし青春の恋の思い出、だと感じています。 ヤマ(管理人) そうでしたか。 僕はね、八年前の仕返しを受けたように感じたのではないかと思いました。八年前に忽然と姿を消して、昇進話の事情が読めないバーグは、きっと棄てられた気がしたろうと、ハンナは気が咎めてたんではないかと思います。 (ケイケイさん) この辺はだいぶ違うような(笑)。 確かに良心は咎めたでしょうし、寂しさは募ったでしょうが、過去にあったように、いつかは別れていく相手だと、彼女は最初からわかっていたと思います。なので、その時が来ただけだと思ってたんじゃないでしょうか? ヤマ(管理人) あ、これは僕の「棄てられた」という言葉の使い方がよくなかったですね。僕が言いたかったのは、別離それ自体ではなく、別れ方のほうなんです。すっぽかしと同じような乱暴さということです。そういう意味で「棄てられた」という言葉を使ったのでした(詫)。 「仕返し」についても同様に、逆の立場で八年前のバーグと同じ目に遭ったという意味合いであって、「やり返し」のような害意をハンナが読み取っていたとは思っていません。「しっぺ返し」としておいたほうがよかったですね(詫)。全く以って言葉というのものは、デリケートで難しいですね(苦笑)。 ハンナは八年前のことに気が咎めていたから、今度は自分がすっぽかされたことで、その記憶が蘇ったろうなと。 (ケイケイさん) これはあったかもですね。 ヤマ(管理人) ということなら、「だいぶ違う」ということではなさそうです(笑)。 それは、彼女にとって文盲やホロコーストへの加担と同様に、どんなに不本意であろうと自身にはどうしようもない仕方のないことで、詫びてどうなるものでもないと内心で強がりながらもつらかったろうと思います。しかも、看守歴のことも知られてしまったわけで、愛想もつかされたろうとね。 (ケイケイさん) 私がハンナなら、全く詫びる気にならないです。 ヤマ(管理人) え? 僕が「詫びてどうなるものでもない」としているのは、15歳のバーグへのすっぽかしとも言えるような別れ方のことのことなので、ケイケイさんも「確かに良心は咎めたでしょうし」とお書きになっているのに? まぁ、詫びてどうなるものでもないし、実際に詫びたりなどはしないでしょうけどね。 (ケイケイさん) 看守であったことがショックなのはわかりますが、それで彼女の全ても否定してしまうのは、かなりの上から目線ですよ。とても青臭い感覚だと思います。 ヤマ(管理人) ええ、ですから、僕も拙日誌に「受け入れるのは困難至極だったのだろう」と書くとともに、「この作品の一番の値打ちは、かつて…真剣に愛した女性が、…ホロコーストに加担していた事実を前にして、バーグが頭を抱え込んで打ちひしがれながらも、そのことによって彼の心が彼女の人格に対する断罪へとは向かわなかったところにある」と書いているのですが、23歳時のバーグは、受け入れることは出来ないものの決して断罪はしていないと思います。 作劇的にも、浅薄に断罪に向かう同じゼミの男子学生を対置して、バーグとの違いを際立たせていましたね。 (ケイケイさん) 大倉さんの感想にあったように、彼女を断罪出来るのは、私も当時の被害者だけだと思うんです。一抹の寂しさはあるでしょうが、勝手に愛相つかすんなら、それも人生だ、くらいじゃないかと(笑)。 ヤマ(管理人) 赦せていないということと、断罪するということは、ニュアンス的に大きな差異がある気がするのです。僕は、あのときバーグは断罪してはいなかったと思うと同時に、ハンナのほうは断罪されていると思い込んだというふうに受け止めているわけです。 確かに、ハンナは、軟な女性ではありませんが、さりとて「勝手に愛相つかすんなら、それも人生だ、くらい」で済ませるほどタフでもなかろうと思います。それだったら、後々になってバーグから受けた衝撃で自殺してしまうようなことにはならない気がします。 もっとも、ケイケイさんの受け止めでは、文盲からの脱却によってハンナにはコペルニクス的転回が訪れたはずだから、66年時のハンナと88年時のハンナに、それだけの乖離があって当然なのかもしれませんね。そして、僕は、「66年の面会のすっぽかされ」から「朗読テープが送られてきた76年」までのハンナは、今度は自分のほうが棄てられたと思っていた十年だった気がするのです。 (ケイケイさん) ほとんど忘れていた10年だと思います(笑)。 ヤマ(管理人) ま、女性のほうが過去に対して潔いとしたもんですからね(苦笑)。でも、棄てられたと思っていたからこそ、十年が経ってそのバーグから朗読テープが届いたときの感激が偲ばれるんですよ。 (ケイケイさん) これで以前の感情が戻ったと言うのには、賛同します。 ヤマ(管理人) 僕は、失意の十年(66〜76)なればこその昂揚の四年(76〜80)だったと観ています。そして、そのうえでの不安の八年(80〜88)だったからこそ訪れた'88年の絶望だと観ています。落差の大きな波が手前にあったように思うんですよね。66年に露見したホロコーストへの加担やその八年前に心ならずも自分から投げ棄てるように別れたことも含めて、 (ケイケイさん) 心ならずも、じゃなく、その時が来たから、というのが私の感想です。 ヤマ(管理人) ここは、うえにも書いたとおり、焦点がずれちゃいましたね。「心ならずも別れた」のではなく、「心ならずも投げ棄てるように」と書いたのですが、いやぁ、言葉は難しい、難しい(笑)。 それはともかく、僕は、朗読テープを受け取ったハンナは、十年を経て、その両方を「“坊や”が私の罪を赦してくれたんだ」って思い込んだのだろうと思っていますが、66年の別れがバーグからの面会のすっぽかされであっただけに、ハンナがそう感じても無理からぬ気がします。 (ケイケイさん) 私は、ハンナに詫びるような気持ちなど毛頭なかったと思うので、マイケルが赦す赦さないの感情は、ハンナにはあまり無かったと想像しています。もっと単純な昔愛した男への恋心が再び燃えたというところでしょう。 ヤマ(管理人) 識字の自習に向かわせるのには、燃える恋心のみで充分ってことなんですね(笑)。まぁ、そんなものかもね。でも、僕はやはり、その喜びは十年の時間の重みが倍化させたもので、それゆえに彼女に識字自習へと向かう力を与えもしたのだろうと思います。 (ケイケイさん) いや、この辺は同感ですよ。 ヤマ(管理人) ん? “十年の時間の重み”ってのは、忘れていた十年にはないのでは?(不可解) 長い失意の時間があればこそハンナを昂揚させ、識字に向かわせたわけで、そのバーグからの贈り物の契機が、彼の結婚生活の破綻であることや動機が贖罪であることは、58年の別れの契機がハンナの昇進だったことをバーグが知らなかったのと同じように、ハンナには判らないことですから、「“坊や”が赦してくれたんだ」って思い込んでも無理からぬ気がするんですけどねぇ。 (ケイケイさん) でもこの辺は、ハンナが自分のせいでマイケルの人生を変えてしまったと、罪悪感を感じる必要がありますかね? ヤマ(管理人) 勿論そんな必要ありません。気の咎めとかいうことは、必要性とは別に“生じてしまう感情”です。 (ケイケイさん) 客観的な感想として、大人になってもそのことに適合できなかった、マイケルの気質のせいじゃないですか? ヤマ(管理人) 僕が言いたかったのは単純に、二人の“意識の擦れ違い”のことであって、どっちが善いとか悪いとか、誰が責を負うべきかということではありませんよ。それだからこそ、彼が本当は赦してくれてはなかったと感じたときの落胆と絶望感が深く、自嘲を通り過ぎて自死を選ぶに到ったのだろうと思っています。 (ケイケイさん) 私は単純に、マイケルも自分への愛があるから、テープを送ってくれたんだと、ハンナは思っていたと。 ヤマ(管理人) 十年前にすっぽかしたバーグが、十年かかってハンナへの愛に気付いてくれたら、十年間その存在を忘れていた相手への恋心が忽ちにして燃え上がるというのが、女性の愛なんですかねぇ。 (ケイケイさん) “意識の擦れ違い”というのは私もそうで、自分への愛があると思っていたのがそうじゃなかったわけですよ。おそらく、牢獄で恋しい男からの声を聞きながら字を覚え、経験したことのない瑞々しい感性に喜ぶハンナだったと思います。読み書きに取り組み始めてからは、マイケル=出所後の世界だったんじゃないかなぁ。だから、面会当日の重ねた手をはねのけたり、開口一番「牢獄で何を学んだ?」という言葉で、マイケルに失望=世間にも絶望したんじゃないかと。正直、それを聞いた時は、私はカッと来ました(笑)。 ヤマ(管理人) ケイケイさんは、女性ですから、ハンナに同化してたんですね〜。僕は、「あ、バカ…」と思いました。拙日誌にも綴りましたが、しかも、彼にはそこまでの害意がなさそうに映っていたことが、なお深くハンナを傷つけたような気がしたんです。 それはともかく、基本的に、女性の視野にあるのは未来であって、過去ではないということですね(笑)。僕もケイケイさん同様に、あの面会でハンナは絶望を実感したと思っていますが、視線の方向が全く反対であるのが、とても面白く感じられました。 (ケイケイさん) 私はヤマさんよりだいぶ辛いですね(笑)。 ヤマ(管理人) からいというのは、ハンナに対する観方ということですか? 確かに、頑なやとか、いびつやとか、変わってるとか、ゆうてるからな〜(笑)。 (ケイケイさん) こういうところは、TAOさんの感想もぜひ聞いてみたいなぁ。 ヤマ(管理人) TAOオヤヂは、男にからいんですってば(笑)。 (TAOさん) お待たせ! すみません、遅くなりました! ヤマ(管理人) すかさずの御来室に感謝(笑)。 (TAOさん) ケイケイさんが「この辺はだいぶ違うような(笑)」とおっしゃっていた十五歳のときのバーグとの別れに対するハンナの気の咎めですが、私も違います。 ヤマ(管理人) そうですか。でも、ケイケイさんへのレスにも書いたように、僕の書き方が少々不適切で、ちょっと焦点がズレちゃってた気がします。 (TAOさん) ケイケイさんが「いつかは別れていく相手だと、彼女は最初からわかっていた」と書いているように、ハンナは遅かれ早かれ別れるつもりで、どのみち黙って姿を消すつもりだったと思います。あれほど切羽詰まってなかったとしても、子供を相手に愁嘆場を演じるつもりはなかったでしょう。といってもべつにバーグを馬鹿にしているわけではなく、それが身分も育ちも違う年増女の幕の引き方だと思ったのではないかなあ。 ヤマ(管理人) 別れ方の話ではなくて、別離そのものについては、僕も似たように感じています。 (ケイケイさん) 先のある恋愛ではないですからね。マイケルは「君なしでは生きていけない」と可愛いこと言ってましたが、それが永遠に続くと思うほど、ハンナは若くないですから。 ヤマ(管理人) でも、ケイケイさんは、後の朗読テープの送付を受けて、結局ハンナは終生バーグを求め続ける人生になったと御覧になっているわけですよね。 (TAOさん) 十五歳のときのバーグとの別れよりも、彼女が気がとがめたのは、看守時代にも女の子に本を読ませていたことを裁判でバーグに知られたことだったと思います。 ヤマ(管理人) ほぅ。これは思いがけない視点でした。 (ケイケイさん) 私は、それはあったと思います。マイケルに朗読を頼んだのは、あくまで二人の間の恋愛関係から派生したことですから。マイケルに、それ目当てだったのかと思われたら、悲しいですよね。 ヤマ(管理人) そういう細かい部分への気の咎めをハンナが抱いたと、ケイケイさんも御覧になるんですねー。 うーむ、測りがたし女心!(笑) (TAOさん) 彼女のなかではバーグは恋人である以前に朗読者だったけれど、本人にはそれは隠したかったのではないかなあ。 ヤマ(管理人) それって、僕がケイケイさんに「ハンナは文字が読めないから、マイケルに本を読んでもらいたくて関係を持ったってことですか?」と訊ねて、「いいえ。…朗読は最初はあくまで、副産物だったんじゃないでしょうか?」と答えていただいたことに、僕が「同感です。」と返していた件と繋がってきますね。TAOさんの“恋人である以前に朗読者”というのは、そういう意味ではないようにも伺えますが、そのあたりはいかがなんでしょう? (TAOさん) 初めから朗読を目当てにしたわけではないからこそ、バーグにそんなふうに思われたくないわけですけど、朗読が儀式となっていった過程のごく初めの頃、ハンナは「本を読むのが先よ」と平気でお預けをしますよね。 ヤマ(管理人) はいはい。 (TAOさん) あの時点でハンナにとっては、バーグという朗読者を再び得たことの喜びのほうが大きかったと思うのです。 ヤマ(管理人) なるほど。 (TAOさん) それと、ハンナにとって朗読はセックス以上に官能的な行為だったようにも思います。バーグの声がからだに響いてくるというか。だから朗読者=恋人と言ってもいいわけですけど。 ヤマ(管理人) それ、大いにあると思いますね。 女性は、男が思う以上に男の声に敏感というか反応する気がします。男の側も女性の声には、強く心惹かれるものがあるのだから、女性の側だって同じことなんでしょうが、案外とすんなりそうは思えないものなんですけどね(笑)。 (TAOさん) 自分の秘密がばれるからではなく、少年ながらもひとりの男性としてふるまおうとしていたバーグのプライドを傷つけることを怖れたと思うのです。 ヤマ(管理人) 特にバーグに対してということではないところの“看守歴の露見”よりも怖れたのが、「ハンナにとってのバーグの価値が“恋人としての重み”よりも“朗読者”のほうだった」という秘密が、法廷での証言によってばれてしまったかもしれないということで、それによって彼女の良心が咎めたとの見解ですか? ふーむ。それは、相当にデリカシーに富んだ気の咎めですね〜(感心)。 (TAOさん) 原作では看守時代にハンナが女の子に朗読させていたという証言の時、初めてハンナはバーグのほうを振り向くのです。判決が降りたときには二人は目を合わしもしないんです。 ヤマ(管理人) このへん映画では、特に印象づけられていたようにも思えないんですが、見落としてしまったかな?(たは) (TAOさん) 二人の心理は解説されてませんが、私がハンナだったら、やはりそれだけは知られたくなかったでしょうねえ。 ヤマ(管理人) なるほどねー。 (TAOさん) ヤマさんが「今度は自分がすっぽかされたことで、その記憶が蘇ったろうな」と書いておいでのところは、ケイケイさんが「これはあったかも」と書いているように、私も同感です。 ヤマ(管理人) ということであれば、ケイケイさんへのレスにも書いたように、この件に関して、そもそも僕が訊ねたかった部分については、三人とも概ね同じように受け止めていたという気がしてきますね。 (TAOさん) いや、66年時点のハンナに、バーグへ詫びる気があったかどうかという件に関しては、私も詫びる気はしませんね。でも、単に朗読者としてだけ利用していたわけじゃないことをわかってねとひそかに願いそう。 ヤマ(管理人) え〜と、これについては、TAOさんにもケイケイさんと同じことを確認する必要があるようです。TAOさんが指しているのは、すっぽかし突き放す形で別れた“別れ方”なのか、彼女が戦争時に携わっていた“ホロコーストへの加担”の件なのか、どっちですか? (TAOさん) ホロコーストへの加担の件ですが、別れ方に関してもわびるつもりはなかったと思いますよ。言い訳がましいことは言いたくないでしょうから。 ヤマ(管理人) ケイケイさんへのレスで「まぁ、詫びてどうなるものでもないし、実際に詫びたりなどはしないでしょうけどね。」と書いたように、僕も実際に詫びるつもりはなかったと思ってます。 (TAOさん) 66年から76年の間が「今度は自分のほうが棄てられたと思っていた十年」だったか「ほとんど忘れていた10年」だったかについては、うーん、私はヤマさんとケイケイさんの中間(笑)。棄てられたとかは思いませんねえ。別世界の人という感じかな。 (ケイケイさん) 別の世界は同感ですね。 (TAOさん) もともと生きる世界が違うはずの人だけど、もう完全に縁はなくなったなと。 ヤマ(管理人) ハンナに失意なり落胆は、あったのでしょうか? (TAOさん) 失意や落胆は、ハンナの人生には慣れ親しんだものであって、最初から期待をしていないし、再会するつもりもなかったわけですから。 ヤマ(管理人) こういうとこは、松子とは違っているんですね。 (TAOさん) でも、ときどき宝箱を開けるように、ふっと思い出しそう。ああ、あの子はいい子だったなあ、思えばあの子に本を読んでもらったときは、人生でいちばん楽しい時だったなと。 (ケイケイさん) それはあったと思いますね。先のレスで、「遅くにきた青春の恋の思い出」というのは、TAOさんがお書きの内容と同じ意味です。 ヤマ(管理人) TAOさんも、よき想い出として潔く“過去の出来事”になってしまっているはず、との御見解なんですね? やっぱ女性は、潔いな〜(笑)。 (TAOさん) そうでない人もいますけれど、ハンナは潔く過去の出来事にしていたからこそ、思わぬ差し入れに一気に恋心が戻ってくるのだと思いました。 ヤマ(管理人) なるほど。 (TAOさん) ヤマさん <<「“坊や”が私の罪を赦してくれたんだ」って思い込んでも無理からぬ気がします。>> ケイケイさん <<なので私は赦す赦さないの感情は、あまり無かったと想像しています。もっと単純な昔愛した男への恋心が再び燃えたというところでしょう。>> これについては、ふふふ。これまた私は中間ですね。坊やが私を赦してくれたという意識はあったと思います。でもそれは戦犯のことではなくて、バーグが自分がただ利用されただけだとは思ってなかったことを伝えるために、再び「朗読者」として自分の人生の中に現れたことへの喜びだったと思いました。文字を覚えることは、その愛と信頼に応えることだったのでは。 (ケイケイさん) ここはTAOさんに同意です(^v^)。 ヤマ(管理人) TAOさんにおいて、ハンナにとってのバーグの存在感の第一義は、あくまで“朗読者”との御見解ですから、彼の恋情に乗じる形で利得を得ていたことへの“赦し”を得たと受け止めると同時に、十八年前には返せなかった“識字への取組み”という応え方をしたってことですね。 (TAOさん) 正確に言うと、最終的には朗読者=恋人で、一時的に朗読のほうが恋よりも上回っていたということですけどね。 ヤマ(管理人) 了解です(納得)。 (TAOさん) ただ、88年の面会後のハンナの自死では、お二人ともハンナに“絶望”を感じておられますが、私はハンナは薄々わかっていたと思うのです。だってあんなに何度も何度も返事をちょうだいと書いたのに、バーグは一度も返事をくれず、面会にだって来ない。 (ケイケイさん) なるほど。私は一途にずっと待っていると思いこんでました。 (TAOさん) バーグが面会に行ったとき、刑務所の女性が耳打ちしますよね。彼女は前は身綺麗にしていたのに、ここ数年、身の回りに構わないようになったと。映像ではそれほど汚くはなってませんでしたが、バーグが驚かないようにああ言わなくてはならないほどに、あの几帳面なハンナが老けて小汚い老女になっていたわけです。恋しい相手との再会に希望を持ち続けていたら、そんなふうになるでしょうか。 たぶん「ここ数年」でハンナはバーグが「朗読者」ではあっても、「恋人」ではないことを悟ったのだと思うのです。 ヤマ(管理人) なるほどね。 元々ハンナにとっても「恋人」である以上に「朗読者」だったわけだから、ここに到って、両者における相互意識がようやく一致していたというわけですね。 (TAOさん) いえ、やっぱりずれているのです。だって以前とちがって、このときのハンナは、バーグが恋人ではないと悟りつつ、それでも明確に朗読者以上の恋人を夢見ていたわけですから。そこはケイケイさんともヤマさんとも同じですよ。 ヤマ(管理人) 得心がいきました。どこまでも、相互に対する認識の一致がおとずれないところが人間関係の難しさであり、人生の困難さだということなんですね。 僕もハンナにとってのバーグは“恋しい男”だったように思っているのですが、ただケイケイさんへのレスにも書いたように、自殺の動機を未来に対して見るか過去に対して見るかでは、ケイケイさんとは少し意見が違ってますが。 (TAOさん) バーグに朗読者以上の恋人を夢見るようになっていたハンナにとって、返事がこないこと、顔を見せないことで、かえって夢を見続けられてはいたわけです。 (ケイケイさん) そうです、そうです。『そんな彼なら捨てちゃえば?』の予告編を見て、どう見ても相手からふられているのに、自分に都合のいいように必死で解釈している女性が、コミカルに描かれていましたが、その夢が私が牢獄生活での生きる希望だったと思いました。 (TAOさん) これって、”嫌われ松子”が世の中に絶望して醜いオバサンになって、部屋にアイドルのポスターを貼って夢を見ていたのと同じでは。 そして、更新のお知らせを見てびっくり!したんですが、ヤマさんもハンナに松子を重ねておられたんですね。 ヤマ(管理人) ハンナの哀れさ、彼女に向けられがちな視線のありよう、彼女の最期、いくつか重なるものを感じましたが、それはここで談義を重ねているうちに生じてきたものです。ただ映画作品としての作り手の品格には大きな違いがあります。 『愛を読むひと』には、“神の愛のごとき…”として持ち上げてしまった扱い方がいささかも観られませんでした。7000マルクを残し託してさえも。そこが『嫌われ松子の一生』との決定的な違いだと思っています(笑)。 (ケイケイさん) なるほど、松子ねー(感心)。優秀さを生かし切れず、頑なな思い込みの人生を送っているところなんて、そう言えば松子に似てますね。 ヤマ(管理人) ケイケイさんは、松子自身のキャラクターにハンナを通じるものを見て取ったんですね。僕は、作中のみならず観客をも含めた“松子に向けられたもの”に感じたんですが。このへん面白いですね。 やはり、ハンナが夢を見続けていられたという御見解は、TAOさんも、第一義ではないにしても恋情もまたあったはずと御覧になっていたからでしたね。 (TAOさん) 恋情はあったし、夢も見ていたのですが、バーグがそれに応えるつもりはないことも薄々わかっていただろうと。でも、バーグの顔を見たとたん、あ、この人は私がここを出ることを望んでいなかったんだと、いっきに夢から醒めたんだと思います。 (ケイケイさん) 過酷な場面だったですよね。でも「学んだわよ、字を」と答えた時は、私はそれでこそハンナだと思いました(笑)。 ヤマ(管理人) この答え方にも、僕は『グラン・トリノ』のウォルトの懺悔の場面に重なるものを感じました。 (TAOさん) 彼女が本を踏み台に使ったのは、もう朗読者は要らないというメッセージだったのではないかな。 ヤマ(管理人) こういうふうに伺うと、実際面での役割としては、朗読者であったにしても、そのベースのところには、やはり恋情が横たわっていたと受け止めておいでのように思えるのですが。 (TAOさん) もちろんです。朗読者であったのは過去のことです。 (ケイケイさん) 出所の日、マイケルがちゃんと花束を持って迎えにいったのが印象的でした。ハンナが愛したのは、マイケルのそういう心からの気配りが出来る感受性だったんだと思います。 ヤマ(管理人) 同感です。15歳のときの彼と同じ姿を再現させることで、決して彼がハンナを断罪しているわけではないことを示しているように感じました。 (ケイケイさん) レナ・オリンに残した遺言品から、ハンナが赦して欲しいと願ったのは、オリンだったと思っています。 ヤマ(管理人) それこそ、被害者に赦しを求めるほどの厚顔さはなかったのでは? (ケイケイさん) 残した遺言品と、ハンナが自殺してしまったことで、やっとマイケルはいつまでもハンナが看守であったことに拘っている自分の卑小さと、ハンナに対して尊大な態度を取ったことを、後悔したんだと思います。 彼が見せた涙は、そういう涙だったと思うんですねぇ。 ヤマ(管理人) 同感です。 (TAOさん) たしかバーグはハンナに用意した部屋が図書館にも近いと言ってましたね。 ヤマ(管理人) はい。そんな気がします。 (TAOさん) 暗に、これからはもう朗読者は要らないよねと仄めかすかんじで。 ヤマ(管理人) 僕は、出所してくるハンナへの気遣いだと受け止めていたのですが、実は“拒み”だったということですか!(恐) (TAOさん) いえ、もちろん気遣いなんですよ。 ヤマ(管理人) ですよね(納得)。 (TAOさん) でも距離があるからこその、いわばオフィシャルな気遣いですよね。 ヤマ(管理人) 確かに。 (TAOさん) ハンナにしてみれば、気遣いなんか要らないから、ただ抱きしめて喜んでほしかったはずで、そういうオフィシャルな気遣いを示された時点で、がっかりしたと思います。 ヤマ(管理人) なるほど。確かに、ときに気遣いが女性を傷つけますよね(苦笑)。 (TAOさん) だから、ハンナは、もう本も要らないということを示すと同時に、「刑務所で学んだことは」への答えを示したのでしょう。文字を学び本を読んでも、社会に役立つような成果はなく、あの世へ旅立つ踏み台にはなったわ、と。 ヤマ(管理人) なんか壮絶ですね。自死は、生き長らえていくことへの絶望というよりも、バーグへの回答だったとの御見解なんですか?(驚) (TAOさん) ケイケイさんが書かれてましたけど、ハンナにとってはバーグだけが社会だったがゆえの絶望ですし、探せば他に踏み台は調達できたでしょうに、あえてあんなふうに本を積み上げて見せたのは、ダイイング・メッセージではないかと思ったのです。 ヤマ(管理人) なるほどね。女性の思いや感情の深さって、やっぱ怖いですねー。 (TAOさん) バーグあてに遺言を書かなかったのも彼女らしいと思いますが。 ヤマ(管理人) 7000マルクの処分法を遺しただけで、そこのところには触れなかったのは、きっと伝えられることだとは思わなかったからなんでしょうね。文字を得たからといって、全てをきちんと伝えられるものでは決してありませんからね。 ケイケイさんの日記を読んで伺おうと思ったことは、他にもいくつかあったのですが、それらは総て、ここでの談義のなかで伺うことができました(笑)。行間の読み方において少々異なるところがありますが、作品そのものの観方は、今回ほとんど一緒でしたね。嬉しく読ませていただきました(礼)。 (とおりすがりさん) やっと正常なひとのレビューを読みました。私の疑問。この映画がよくわかりません。教えてください。 ヤマ(管理人) ようこそ、とおりすがりさん。お役に立てるかどうか分かりませんが、お立ち寄りくださり、ありがとうございました。 (とおりすがりさん) 裁判ではみんな冤罪だって知ってるのに、終盤では本を読んだ人は彼女が重ーい罪を犯したと思い込んでしまっている。 ヤマ(管理人) 冤罪とまで言えるかどうかはありますが、誤った事実認定によって過重な量刑をされた部分の罪は、冤罪と言えなくもないかもしれませんね。 (とおりすがりさん) 生き残った娘も、責任者の顔は覚えていなくて、本を読ませる変な人は覚えているのだから、その変な人が責任者でないことを知っているはずなのに・・・。 ヤマ(管理人) 彼女は、看守たちについての証言はしたけど、報告書を誰が書いたかの審議の際には、法廷にいなかったのではありませんかね? (とおりすがりさん) 「彼女を許すようでお金は受け取れません」といいました。 ヤマ(管理人) はい。 (とおりすがりさん) そんなに怒りが強いのなら、なぜ裁判のときに他の被告人を許したのでしょう? ヤマ(管理人) イラナは、他の被告人を許したりはしていないと思いますよ。 (とおりすがりさん) 主人公も面会のときに「たっぷり反省したか?」というような意味の問いかけをしていますが、冤罪のひとには普通は「大変だったね、お疲れ様」ではないでしょうか? ヤマ(管理人) 拙日誌に「過去から学び語り継ぐことは、不用意にバーグが試みてハンナを死に追いやったように、非常にデリケートで困難を極める作業なのだ。だからといって、避けてはならない」と綴りましたが、この作品の一番の主題は、そこにあったように思っています。それには、やはりバーグが、あの面会の場面で過ちを犯すことが必要になってくるように思います。 物語上のことで言えば、ここの掲示板にも書き込んでくださった方がおいでたように、戦後教育を受け、戦中を知らずに育ったバーグには、彼女の胸中を推し量りきれなかったということなんでしょうね。『グラン・トリノ』のヤノビッチ神父がウォルトに言った「それだけ?」に通じるところがあるように思うのですが、『グラン・トリノ』は御覧になっておいでますか? (とおりすがりさん) 『愛を読むひと』は、なんだか変な物語です。 ヤマ(管理人) 僕は、拙日誌にも綴ったように、たいした作品だと思ったのですが、疑問に思うことがあったときは、なぜだろうって反芻してみることは、とても大切なことだと思います。お書き込みくださり、どうもありがとうございました。 |
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by ヤマ(編集採録) | |
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