『愛を読むひと』(The Reader)
監督 スティーヴン・ダルドリー


 脚本と演出の巧みさに乗せられて、僕は1976年53歳のハンナ(ケイト・ウィンスレット)がバーグ(レイフ・ファインズ)から贈られた『子犬を連れた貴婦人』の朗読テープを繰り返し聴くなかで、刑務所の図書室で借りてきた本の冒頭の定冠詞“the”をそっと発音し、ページ内に探して丸囲みをし始めるまで、彼女が文盲だとは気づかずにいた。だから、ここに到って初めて、ちょうど十年前のホロコースト裁判のとき、法学部生だった23歳のバーグ(デヴィッド・クロス)がゼミでの裁判傍聴で八年ぶりにハンナに再会し、二十二年前の1944年から二年間ユダヤ人収容所の女看守を務めていた彼女が“死の選別”を積極的に行い、移送中のユダヤ人300人を閉じ込めた教会が爆撃で炎上した際に見殺しにした中心人物であったとの事実認定がされようとしていたときに、ロール教授(ブルーノ・ガンツ)に対して、法廷での判断を左右しかねない決定的な事実を自分が知っていると告げたことの意味に気がつき、激しく動揺させられた。

 それまで僕は、バーグが証言できることというのは、猩紅熱に掛かって高熱と嘔吐に苦しんでいた15歳の見知らぬ彼を救ってくれたことに示される彼女の親切心のことかと思いつつ、それがどうして決定的な事実になるのか腑に落ちないままに、彼女が秘匿しておきたいと思っている恥を晒すことになるがゆえの彼の躊躇というのは、二十歳も年下のミドルティーンと性戯に耽っていたことを彼女が恥としているとバーグが感じていたからなのだろうと思っていた。何の前触れもなく忽然と姿を消され、一方的に打ち捨てられたように思ったであろう15歳当時の彼にしてみれば、さもあらんという気がするから、そんなふうに納得していたのだった。だが、ハンナが突然姿を消したのは、バーグとの関係を長引かせることを恥じて彼を同年代の少女たちとの普通の恋に向かわせようとしたからというばかりではなく、むしろ、路面電車の車掌勤務の勤勉さが評価されて事務職への昇進を告げられたときに見せていた強張りのほうに、重く繋がっていたわけだ。読み書きが出来ずに事務職は務めようがないということだったのだ。

 この作品の一番の値打ちは、かつて受けた性の手解きと、朗読によって文学を共有する歓びに溺れ、親子ほどに離れた歳の差を越えて真剣に愛した女性が、人類史上最悪の犯罪の一つとも言われるナチスによるホロコーストに加担していた事実を前にして、バーグが頭を抱え込んで打ちひしがれながらも、そのことによって彼の心が彼女の人格に対する断罪へとは向かわなかったところにあるように、僕は思う。全く教育も受けずに育ったハンナが、最高教育を受けて法壇に鎮座している裁判官に向って「あなたなら、どうしたのか」と詰問する言葉が重く響く。彼女をナチス親衛隊に属した女看守としてだけでなく、ハンナ個人としての識別を意識して見つめていたのは、バーグと惨事からの生存者として証言台に立っていたユダヤ人娘イラナ(アレクサンドラ・マリア・ララ)の二人だけだったように、僕の目には映った。

 そして、出される判決に向けた法廷戦略や思惑などに思いの及ばない生真面目な直情さで審議に臨んでいたのはハンナ一人だったように思う。その真摯さゆえに黙せず答えてしまうことで、犯罪行為の中心人物と目される展開になっていってしまうような法廷審理というものが、何もこのときのホロコースト裁判に限ったものではなかろうことが容易に察せられるだけに、裁判によって人が人を断罪することの畏れ多さがやりきれなくなってくる。所詮、裁判というものはそういうものでしかない。だからこそ、最善が尽くされなければならないのだけれども、人間というものは、そういった裁判の理念に見合うほどに上等な生き物ではないとしたものだ。推定無罪の大原則が何ゆえ設けられているのかといったことを一顧だにしない人々のほうが圧倒的に多数者を占めてしまうのが、現今のメディアの姿を通じて浮かび上がってくる人間なるものの実態なのだろう。

 法廷の流れを察した他の被告たちによって当時の報告書を書いたのがハンナであると言い立てた証言をハンナ自身が認めた場面のことが蘇ってくる。必死の問いかけに黙して応えない裁判官の仕切る法廷審理や最年少者と思しき自分に全ての責を被せて自身の減刑を画策する旧同僚たちへの絶望ゆえに、報告書を書いたのが自分であることを認めたように思っていた僕だったが、それだけではなかったということだ。字の書けないハンナだから、筆跡確認のために文字を書くことを求められても、それには応えられずに「認めます」と言うしかなかったわけだ。

 観る人によっては、単純に、文字を書けない事実を主張すればいいと思うのかもしれないが、できることの証明は簡単でも、できないことの証明は不可能に近いとしたものだ。まして筆跡鑑定だ。わざと似ないように意図して書くことの究極は、字が書けないと偽ることだ。本当に書けないことと書けるのに書けないと偽っていることの違いが一体何によって判別可能なのかといえば、結局のところ何もない。物証の示しようのない事実であって、所詮は信憑性に左右されてしまう他者の証言以外に拠りどころのないようなことなのだ。ハンナには、そのことを思い知らされた辛い過去がきっとあるはずで、だからこそ彼女は、昇進を棒に振るどころか自ら失職してまで、文盲であることを隠して生きてきて43歳に至っているわけで、八年前に恋に溺れた夢中の眼差しで彼女を間近に注視すればこそ、バーグのみがかろうじて見抜けたに過ぎない。彼が「僕しか知らない」と言えるのは、それだけ彼女が周到に注意深く文盲の秘密を隠す術に長けていたということだろう。それだけの利口さと勘取りの良さを確かにハンナは窺わせていたように思う。

 だが、23歳時のバーグにはそこまでの思いは及ばないはずで、おそらくは裁判での証言を申し出るつもりで向かったはずのハンナとの面会を、実際は、寸でのところで止めてしまう。八年前に睦み合い、裸の胸に凭せ掛けさせた頭を囲うようにしつつ本を手にした腕のなかで、自分の朗読してやる物語に涙していた女性がホロコーストに加担していた事実を受け入れるのは困難至極だったのだろう。思い起こせば、ハンナの所作には優秀な看守勤務を偲ばせるような命令調や規律感が、その優しく感性豊かな内面と相反するように並存していたわけで、彼がハンナの裁判を傍聴していた歳と同じうら若き年頃にホロコーストに加担しなければならない過酷な収容所看守の職務に就いていたことの残した痕跡の重さにもまた、戦慄を覚えたのだろう。その苦痛から逃れるようにして向かったガートルードから「やっと来てくれたのね」と迎え入れられたセックスの勢いのままに結婚し、娘をもうけるものの、結婚生活十年で離婚に到ってしまう。

 だが、ハンナの過去の秘密の露見がバーグに残した痕跡の重さとして重要なのは、彼をガートルードとの結婚生活に追い遣りながら全うさせなかったことなどではない。まして離婚後、三十年近く経つ1995年52歳のバーグが、全裸で目覚めた女性の朝帰りを送り出す冒頭場面の示していた非婚状態でもない。ハンナがバーグの吹き込んだ朗読テープを頼りに独学で読み書きを自習し始めた歳と同じ年頃になって、もう大人になった我が子から涙ながらに訴えられた“自分の娘に対してさえも距離を感じさせる(冷たい)パーソナリティ”というものを、言うなれば“人間存在に対する虚無感”として彼が植えつけられてしまったことのほうだろうという気がする。ハンナの後半生を収監生活に決定づけたホロコースト裁判に立ち会わなければ、おそらくバーグは、ガートルードと結婚することも、大人になった娘からの涙ながらの告白と訴えを聞かされることにもならなかったのではないかと思う。ホロコーストが殺すのは、犠牲となった人たちの生命だけではないのだ。

 ハンナたちのホロコースト裁判にまつわるゼミの場でロール教授が発した若い連中が我々人生の先輩の経験から学ばないで何の意味があるというのだ。との台詞が思い出される。二十年前の惨事の裁判を行い、歴史を語り継ぐことの意味は、その断罪にあるのではなく、まさしく後世代が学びを得ることのほかには何もないように、僕も思う。ハンナに無期懲役を課することで癒されるような程度のものであろうはずがない。応報刑としての刑罰というものは、そんなものでしかないような気がする。

 ハンナひとりに際立った重罰を科す一方で他の女看守たちの懲役刑を四年に留めた判決結果を受けて、彼女との面会を断念してしまったことをおそらくは深く後悔したであろうバーグが、その逃避としたガートルードとの結婚生活の破綻に際して、ハンナに読み聞かせた本を、ホメロスの『オデュッセイア』からチェーホフの『子犬を連れた貴婦人』に到るまで順に朗読テープにして差し入れることを思い立ったのは、実家に戻って十八年前の記録ノートを再び手にしたからというばかりではなく、証言をしなかったことの贖罪でもあったような気がしてならない。そして、それから四年を経過して彼女は遂にバーグに手紙を出すことができるに到る。拙い文字で綴った短い手紙だが、僕はそれを観て、識字学級で読み書きを習った老婦人の書いた作文をかつて目にしたときのことを思い出した。

 直接の知り合いで老いてから文字を手に入れた人の存在というものを僕は持っていないが、何十年もの間ずっと読み書きが出来ずにいた人が文字を手に入れた喜びの深さと文盲の屈辱感の強さと卑下について当人たちが語った言葉や綴った言葉に触れたことはある。人は、自分が当然のことのようにしてこなせることの持っている価値について、それを失うまでは一顧だにできないとしたものだが、ほとんどを拙い平仮名ばかりで記した彼女たちの作文や逸話に込められていた感激に打たれて涙した覚えがある。誰もが普通に読み書きができるなかにあって、それができないことがいかに深く強く人を痛めつけるかということからすれば、真面目に働くハンナが、まるで前科者が犯歴を知られそうになるたびに、あるいは一見しては判らない出自によって差別を受ける人たちが隠しておけなくなるたびに職場を転々とせざるを得ないのと同じように、職を変えてきたであろうことは容易に推察できる。まして彼女にはホロコーストの前歴さえあるのだから、バーグと出会った35歳時点で、電車の車掌などという地味で真っ当な仕事に就いて自活していること自体が、驚異的な自立心の強さと自尊心の高さのみならず、意志の強さと有能さを示してもいるわけだ。

 そんなハンナが1988年65歳のときに、思いがけなかった出所というものを前にして自殺をしてしまったのは、何故なのか。ここにもまた、バーグの影が大きく差し掛かっていたような気がする。身寄りなきハンナの身元引受人にまでなってくれた45歳のバーグと面会しても、往年の“坊や”呼ばわりする強気を保っていた彼女だったが、暗に収容所の看守体験と裁判を指しつつバーグから過去から学んだことは何だったかと問い掛けられたことの過酷さには、二十二年前の裁判で法壇から惨事についての審問を受けたときの辛さ以上のものがあったことが偲ばれた。不公平な形で過重に加えられた量刑に国家権力さえもが与えてくれた特赦なのに、最も赦して欲しかった相手の“坊や”から今になってなお、こんな答えようのない質問を浴びせられて、暫し沈黙していたのが痛烈だった。しかも、彼にはそこまでの害意がなさそうに映っていたことが、なお深くハンナを傷つけたような気がした。バーグが手間隙かかる朗読テープの差入れをしてくれたのは、“坊や”だけは自分の罪を赦してくれたからだろうと長年思っていたと推察されるものが彼女のなかで崩れ去り、それでも気丈なハンナは、からくも“読み書き”だと答えるのだが、バーグは自分にさえも本心を打ち明けずはぐらかされたように受け取っていると見えるニュアンスを漂わせた気がする。何とも哀れなハンナだった。

 六十歳近くなって遂に文字を手に入れ、本を自分で読めるようになり、自分の思いや考えを文字にして残すことのできる感激をバーグのおかげと自分の必死の努力で獲得した思いの丈を酌んでもらえることなく、「“坊や”は私を赦してなどいなかったのだ」と受け止めたであろうハンナが、生の希望を一気に剥ぎ取られたように感じたのは、無理からぬことのように思う。だが、ハンナの遺言に沿って、遺品とともに彼女が懲役労働で蓄えた7000マルクを二十二年前の裁判で証言台に立ったイラナ(レナ・オリン)に届けたときに、金銭は絶対に受け取ろうとしない彼女に尋ねた“収容所で学んだこと”についての質問に対して、「何もない」と答えられて初めて彼は、何がハンナを死に追いやったのか気づかされたのではなかろうか。それから十三年後の娘との再会時に彼が“虚無”を色濃く漂わせていたことには、その影響も大きく作用している気がしてならない。そして、かつて裁判審理中にハンナへの面会を果たせなかったことを深く悔いた以上に、出所前に果たした面会で問い掛けてしまったことについての悔恨を深めていたような気がする。だからこそ、再会した娘に自分とハンナの物語の歴史を語り継ごうとしているように感じた。

 ロール教授の発した若い連中が我々人生の先輩の経験から学ばないで何の意味があるというのだ。との台詞が再び蘇り、効いてくるエンディングになっていたように思う。だが、過去から学び語り継ぐことは、不用意にバーグが試みてハンナを死に追いやったように、非常にデリケートで困難を極める作業なのだ。だからといって、避けてはならないからこそ、バーグは、今度は娘に対して試みているように見えた。そんなことを訴えかけてきている作品だったように思う。そして、ハンナとバーグに訪れた苦衷の人生の端緒がハンナの文盲にあることを思うとき、彼女の遺産処理に対して出したイラナとバーグの答えである寄付先が識字運動団体であったことの意味が重くなってくることを企図している作品だったような気がする。

 物語の端々に伏線が効いていて、人物描写が陰影に富み、とても充実していた。ハンナに求められて読書熱を高じさせていく15歳のバーグが受けていた授業で語られていた文学の核は神秘性だ。どんな人物なのか全ては描かれない。だから、行間を読み、人物像を思い描かなければならない。というような言葉に見合って些かの遜色もない大した作品だったように思う。脚本がまず素晴しいのだが、それはさておき何と言っても、ケイト・ウィンスレットが見事だった。いささか草臥れ崩れた体形のもたらし残すものに哀切と逞しさが漲り、豊かな知性と感性を秘めながらも恵まれない境遇に育ったがゆえの粗忽さや二十歳過ぎの数年間をユダヤ人収容所の女看守として生真面目に務め上げたことの痕跡を所作の端々に窺わせつつ、年上の女性らしい包容力をも体現するという離れ業に近い演技を果たしていた1958年35歳のハンナ像が絶品だった。大したものだ。



参照テクスト:掲示板談義の編集採録

参照テクスト:原作小説『朗読者』を読んで


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by ヤマ

'09. 6.26. TOHOシネマズ2



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