『レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで』(Revolutionary Road)
監督 サム・メンデス


 先ごろ接吻を観たばかりだからか、坂口と出会って“人生を意味あるものにすること”への思いに目覚めた京子が、あのあと落ち着いて、もし仮に長谷川弁護士と結婚してしまうことになると、ちょうどフランク(レオナルド・ディカプリオ)とエイプリル(ケイト・ウィンスレット)のウィーラー夫妻のようになるのではないかと思った。エイプリル自身でも時に思い余って持て余し気味になるほどに思いの強い“女性の手に負えなさ”というものは、程よく善良で気の利かない鈍感さと、『接吻』での坂口の兄が言うような意味での“冷酷さ”を欠いた“性根の座らなさ”を超克していない平凡なフランクのような男がまともにぶつかって敵うはずのないものであることが、痛烈に描かれていたように思う。

 そして、自分(たち)が“特別”であることの強迫感を“人生の意味”にまで置き換えているエイプリルについては、十年近く前に観たサム・メンデスの初監督作品アメリカン・ビューティの拙日誌の冒頭に映画のなかで印象深く使われる赤いバラの品種名で、作品タイトルにもなっている“アメリカの美”とは何だろうか。長年観てきたアメリカ映画を通じて僕が感じ取っているのは、タフでスマートでセクシーであることによって、特別な存在として目立ち、成功するということだ。多くのアメリカ人が、そのような自己実現を図らなければならないという強迫感のなかで生きているのではないかという気がする。と綴ったことに通じるものがあったような気がした。

 フランクのような男は、愛する女性の求めとくすぐりには、からきし弱く、「あなたなら出来る」「あなたは“男”よ」などと唆されると、おそらくは妻の希望で手に入れたのであろう郊外の小洒落た、「理想の若夫婦が住むべき家よ」とヘレン(キャシー・ベイツ)が夫にセールス・トーク抜きで言うような一戸建てさえも売り払って、通勤ラッシュで混み合う列車に乗って通う面白みもないサラリーマン生活を辞め、当てもないままにパリに移住しようと言い出した妻の無謀としか思えないような提案にも乗ってしまう。だが、交流分析にいう「正のストローク」が妻から得られないでいると、安直で軽はずみな社内浮気に走ってしまうように、実際は、妻が望み求めるほどの器にはないわけで、そのくせ'50年代半ばの男性ジェンダーに強く囚われているうえに、まだまだ若いものだから、エイプリル自身でさえも持て余し気味の“手に負えなさ”に、中途半端に正面からぶつかっていって、ますます妻を苛立たせ、その“手に負えなさ”をエスカレートさせていっていたように、僕の目には映った。

 この、向き合えば合うほどにズレていく愛の擦れ違いには、両者ともに些かの悪意もなく、むしろ人生に対しても愛に対しても、ある種生真面目と言える態度で臨んでいるからこそ起こっている悲劇であるところが、実に哀れで滑稽なのだが、事態が滑稽に留まらない状況にまで邁進してしまうところが痛烈だった。だが、僕にとっては、それ以上の痛烈さというものが英国風のシニカルさとともに印象づけられたのが、ラストシーンだった。

 あれだけウィーラー夫妻を自分が見込んだとおりの理想的なカップルだと誉めそやしていたヘレンが、事の顛末後は、自分は端から怪しいと思っていたのだと宣い、今度新たに入居した夫妻こそが相応しい夫婦なのだと暖炉の傍でロッキング・チェアを揺らす夫に語っている声が次第に遠のいていく様子が映し出されていた。ヘレンの言っていることは、彼女における真実としては些かの誤りも揺るぎもないものであって、事実の如何に左右されるものではない“思いの強さ”として存在しているわけだ。そこのところにまともにぶつかっていくと、とんでもない事態に至るので、年季による知恵で賢くなっている夫の耳には、都合よく、次第に声が届かなくなっていると言わんばかりのエンディングだった気がする。女房殿の言うことにまともに耳を貸さないのが夫婦が穏やかに長続きする秘訣というわけだ。人生に対しても愛に対しても、ある種生真面目と言える態度で臨むからこそ、燃え尽き、悲劇が訪れるということなのかもしれない。

 併せて感じたのが、“真・善・美”をピュアに追求したがるのは、若さとともにある“女性性”なのかもしれないということだった。そこのところに終生囚われていると人生がつらくなるし、並みの男が相手だとフランクと同じようなことになりかねないから、かつて日本では「女 ⇒ 妻 ⇒ 母」への変態が推奨されていたのではないかとさえ思わせるものが備わっていたような気がする。エイプリルは、虐待もネグレクトもしておらず、それなりに二人の子供を愛しているようだったが、子供への想いはありながらも、そういう子供の存在ゆえの“母になりきること”への抵抗感や、同様に、悪妻では決してなく、むしろよき妻としての務めを全うしようとしながらも“妻になりきること”への抵抗感から抜けられない“女性性への執着と保持”が強く窺えるキャラクターだったように思う。それゆえに、夫を強く惹き寄せ、隣家の夫さえ迷わせるに足るだけの魅力を備えてもいるわけだが、妻や母を全うしようとすることがアイデンティティや喜びに繋がるのではなく、無意識のうちにむしろストレスになっていたような気がする。だから、市民劇団の主演女優を担って舞台に立つような活動をしてもいたのだろうし、彼女のさまざまな場面での情緒不安定の在り様を観ていると、その源泉は、彼女が妻と母を務めようとすることから来ているように見えて仕方がなかった。比較的多くの女性が、若さとともにある“女性性”への執着と保持もさることながら、それ以上に、妻や母を担うことで得る自信と逞しさによって生の力を得るから、女性のほうが長寿なのではないかという気さえしているのだが、さればこそ、近年特に消費経済の論理から過剰に煽られているように思える「若さとともにある“女性性”への執着と保持」に強迫されるばかりか、実際にそれを果たしたうえでセンシティヴな感受性を有しているような女性に対しては、エイプリルの女性像が不快感を触発するようなところのある作品になっているのかもしれないと思った。



推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0902_1.html
推薦テクスト:「ケイケイの映画日記」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20090125
推薦テクスト:「眺めのいい部屋」より
http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/83827b50c8e2ac6ca840a30fa22ab995
推薦テクスト:「超兄貴ざんすさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1070988194&owner_id=3722815
by ヤマ

'09. 1.31. TOHOシネマズ2



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