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『イノセント・ボイス 12歳の戦場』(Voces Inocentes) | |||||
監督 ルイス・マンドーキ | |||||
'80年に12歳になった少年チャバ(カルロス・パディジャ)は、その年に大学を卒業した僕とは、ちょうど十歳違いになる。映画の最後にクレジットされた「40ヵ国で30万人の子供の兵士がいる」というのは、その'80年時点ではなく、この映画が作られた'04年でのことなのだろう。かつて大日本帝国にも特別年少兵というのがあって、その名もズバリ『海軍特別年少兵』という映画が'70年代に撮られているし、昨年末に公開された『男たちの大和』にも出てきていた。また、二十年前に観て震撼した『炎628』のラストシーンでは、泥水のなかに落ちているヒットラーの肖像に向けて銃弾を発射するとナチスの記録フィルムのラッシュが逆回転で流れ出し、そこにヒットラーの姿が現われるたびに銃声が轟いていたのだが、肩から外したライフルでヒットラーの肖像を撃っていたのも、ロシアの少年兵だった。同じ頃に観た『サルバドル/遙かなる日々』は、まさしく『イノセント・ボイス』に描かれていたエルサルバドルの内戦に材を得ていた作品だったが、そこに子供の兵士のことが描かれていたかどうかの記憶は、定かではない。けれども、古今東西で子供たちが武器を持たされ、戦争に駆り出されてきているのは、紛れもない事実で、エルサルバドルや日本やロシアに限った話ではない。だから、今なお40ヵ国30万人ということになるわけだ。 戦争の名のもとでの殺戮が、何のために誰のために行われるのかを思うと、これこそは絶対悪だと思わずにいられない。『コールド・マウンテン』でセーラが言った「世の中を悪くしているのは、みんな金物よ、ナイフとか銃とか。」という台詞を思い起こした。 この作品は、無名俳優のオスカー・トレスが自身の少年時代を下敷きにして書き上げた脚本を映画化したものらしいのだが、自分が死んでいても何らおかしくないどころか、生き残ったことが本当にたまたまの話であることがよく分かるとともに、日常生活の場が同時に戦場でもある“異様な事態がもはや異様ではなくなっている状態の凄み”というものを痛烈に印象づけられた『ウェルカム・トゥ・サラエボ』にも通じる状況が描き込まれたうえでなお、人は人であるがゆえに優しさや愛情、健気さなどを失ってはいない姿が綴られている。 ルイス・マンドーキ監督の筆致には、『メッセージ・イン・ア・ボトル』などにも感じた物足りなさがあって、例えばバフマン・ゴバディ監督(『わが故郷の歌』ほか)などには及ぶべくもないのだけれども、かような状況にまでは至っていないのに、むしろ遙かに人心が荒んできているように感じられる日本社会の現況を思うと、こういうドラマが“実話”のなかから生まれていることを知る機会を得られることには、大いに意味があるような気がする。 そして、チャバにおいては、初キッスの想い出を残して殺されていった少女以上に、母親ケラ(レオノア・ヴァレラ)の存在が大きかったことを窺わせる物語だったことが印象深い。勇敢で背筋の伸びていた神父やゲリラに身を投じていたベト叔父さんを含め、よき大人に恵まれ、交わることこそが子供を育むわけだ。親の他には職で関わる“先生”以外には、ほとんど大人との接触の機会に恵まれなくなっている日本の子供たちにとっては、どういう親のもとに生まれ、どんな先生と出会うのかという、言わば、いずれも当人には選択の余地のない運次第のものに委ねられている度合いが高すぎるような気がする。チャバがバスの運転手と仲良くなったような形での大人との関わりなど、今の日本ではあり得ないことだ。チャバのガソリンの誤飲でケラの怒りを買った運転手だったが、チャバにとっては、彼もまた自身の成長の糧となる大人の一人だったことが窺えるような関わりだったように思う。 | |||||
by ヤマ '06. 8.26. 自由民権記念館民権ホール | |||||
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