『力道山』(RIKIDOZAN)
監督 ソン・ヘソン


 僕自身はプロレスをあまり好まなかったのだが、ちょうど十五年前の九月に死んだ亡父が大のプロレスファンだったので、小さい頃から身近に感じてきた覚えがあって、力道山にしてもTVで観ていたような気がしていたのだが、1963年12月15日に死んだのなら、僕が六歳になる前だから、未就学児だったことになる。家に白黒TVが来たのは僕が小学校に入ってからのことだったように思うから、リアルタイムでTV観戦していたように感じるのは後から作られた記憶だったのかもしれない。だが、リアルタイムで観ていようがいまいが(ふと、おふくろに尋ねてみたら昔の家計簿を引き出して調べてくれた。それによると、1962年の12月15日だそうだ。ちょうど力道山の命日の一年前だ。おふくろの話でもやはりプロレス見たさに買ったもののようだ。ボーナス53,000円余を手にした日に48,000円で買った記録が残っているという。当時の月給が22,000円〜23,000円だったようだから、給料二ヶ月分を越えていたわけだ。大のプロレスファンだっただけのことはある。そして僕は、やはりリアルタイムで力道山を観ていたのだった。)、僕の記憶のなかにある力道山は、格別の笑顔の持ち主だった。
 ところが、この作品では、「自分は心から笑ったことがない、笑えるようになりたくてがむしゃらに生きてきたのだ。」と、既に功なり名を遂げた後にも零していた。彼が朝鮮半島出身だということを僕が知ったのがいつだったのか、その記憶も今は定かではないのだが、この作品は、力道山(ソル・ギョング)がその出自ゆえに負った生の厳しさと孤独を痛切に描くとともに、それに負けまいと抗う彼のエゴの強烈さをも余さず描いた佳作だったように思う。昭和19年〜38年を描いても、日本映画で流行の“昭和レトロ”のテイストとは程遠いところにこそ値打ちと味があり、観終えた後に、なんか哀しい余韻の残る映画だった。おそらくそれは、人をたらし我を通し、あれだけ懸命に頑張って逆境を跳ね返し、強かな成功を手にして時代のヒーローとなりつつも、二十歳のときに綾(中谷美紀)と夢見た幸福感には結局到達しないばかりか、むしろ遠ざかっていったように見える人生だったからだろう。
 僕はそこに彼の“在日という明かせぬ素性の影”以上に、折り合いなどというものを果たせない我の強さが彼を成功に導く一方で、御しきれない壁にもぶつからせてしまうことで与えたダメージの影のほうを強く感じないではいられなかった。相撲部屋に入門した頃に自分へのいびりを繰り返していた兄弟子を屈服させたような形では通用させられなかった、“プロレス興行を支える裏社会が力道山を牛耳ろうと加えていた圧力の重さ”というものが最も影響しているような気がしたわけだ。あだたぬ者を型枠のなかに収めようとすると脱出させるか壊してしまうかだ。
 そして、キム・シルラクがその激しい我の強さをどうしても棄てられなかった背景に、それを頼りに生き延びてくるしかなかった、骨身に沁みていたであろう生の厳しさの在日ゆえの深さが窺えたことが、いっそう哀しい余韻を僕のなかに残してくれたのだろう。単に性格的なものとしての我の強さではなかったような気がしてならない。
 それにしても破格の人物だった。それを物語るエピソードには事欠かなかったようだが、僕にとってとりわけ印象深かったのは、相撲部屋での先輩とのエピソードだった。キム・シルラク一世一代の大勝負のでっち上げ事件のお先棒を担がせたのが手酷く彼をいたぶっていた先輩だったというのも凄い話だが、己が堪忍袋の緒を切って相手を威圧し、従え、お先棒を担がせるに至っていてもなお、ちゃんと“先輩”とごく普通に呼んでいるシルラクの姿に、普通の物差しでは測れない器量を感じたのだった。力道山の後見人だった管野武雄(藤竜也)も破格だったのだろうが、リキさんのほうが上回っていたように思う。だからこそ、管野は力道山を惜しんでいたように見えた。


推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20060330
by ヤマ

'06. 9. 1. あたご劇場



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