『コールド・マウンテン』(Cold Mountain)
監督 アンソニー・ミンゲラ


 本作は、今年の高知市文化祭への参加作品だが、同じくエントリーしているイン・ザ・カットが、猟奇殺人のサスペンスドラマを借りながらも、作り手の描きたかったものがそれではないように感じられたのと同様に、『コールド・マウンテン』も運命の恋を貫いた純愛ロマンを借りながら、作り手の描きたかったものは別なところにあることが窺われる作品だった。

 22ヶ月間でしかなかったが、一生分の幸せをくれた。と妻について語り残した牧師モンロー(ドナルド・サザーランド)の娘エイダ(ニコール・キッドマン)は、苦難の末インマン(ジュード・ロウ)との再会を果たすが、出会ったときからの合計でさえ、22日間どころか22時間くらいしか共に過ごさぬままだった。たった一夜の交わりだけで死んでいった彼との間に愛娘を得て、その後も力強く生きたエイダ・モンローの物語だったわけだが、苦難の末の再会に至るまでの二人の熱情は、一度のキスで運命的に固く結ばれた恋というよりも、過酷な状況を生き抜き生き延びるのに必要な気力の源たる心の支えとして、二人にはそんな幽かな頼りしか残らないくらい、あらゆる希望が戦争によって剥奪されていたというように僕には感じられた。それとともに、そんな幽かなものでも“希望の光”がないと、人は人として生きていけないだけでなく、逆に、そんな頼りない光でもそれを得て、縋り続けられれば、人は、インマンが再会したエイダに僕はこの戦争を生き延びてくることで自分のなかの善良さをみんな失くしてしまったけれど、君への想いがそれ以上(の悪)に堕ちることから救ってくれた。と語ったように生きられなくもないわけだ。

 それを見失った者や希望なきまま“若さの驕り”に増長した者、戦争という非常事態に乗じた者は、病気の乳児を抱えた戦争未亡人セーラ(ナタリー・ポートマン)を襲った北軍兵士たちや親切を装ってインマンたちを義勇軍に売り渡した農夫(ジョヴァンニ・リビシ)、太平洋戦争時の日本の憲兵隊や在郷軍人会を髣髴させる部分のあるティーグ(レイ・ウィンストン)一派のように、卑劣極まりない存在に堕してしまうのが人間であり、包括的な状況として最も顕著に強力な形で、一挙に多数の人々をそこに追いやるのが“戦争”ということなのだ。序盤の戦場シーンの勝敗の如何によらない凄惨さも強烈だが、それ以上に重要なのは、奴隷解放による民主主義の確立という大義を掲げていても、その手段が戦争であるならば、あのような蛮行に北軍兵士を追いやるのが戦争であり、過酷な戦闘に晒される兵士のみならず、戦闘に従事していない農夫の心も蝕み荒ませるのが戦争であることを訴えている点だ。なかんずく最も卑劣さを極めた存在として描かれるのが、自ら戦地に赴くことも生産労働に従事することもなく、安全な場所で指導者として横暴な権力を振るう連中だ。こういった連中を確実に生み出すのが戦争であり、むしろ、戦争というものが、政府指導者たるそういう連中によって引き起こされるもので、彼らの亜流を大量に生み出すありさまを強烈に描き出していたとも言える。


 インマンにしてもエイダにしても、そのような戦争のもたらした過酷な状況に瀕してなお貪したくはない誇りと矜持を維持するうえでの希望の光として、相互への想いを必要としたのであって、単に奇跡の恋に宿命づけられた運命の相手だったのではない。人として生き延びるために、会えない年月のなかで結晶化させ、不断に強化し“運命の相手”へと育て上げていったように感じた。だから僕は、インマンがセーラに添い寝を求められて、一つベッドに横たわり手を重ねて来られても、「僕には好きな女性がいるんだ」と応じなかったことが言葉どおりエイダのためだとは思われない。むしろインマンのような心優しき男なれば、セーラが求めてきたのが救いと癒しであればこそ、応えてやりたかったろうと思う。だが、エイダへの想いは既に切なる純愛を通り越し、彼が自身の苦境を生き延びる力の唯一の源泉として結晶化させたものだから、セーラを救い癒そうとすることで自らの拠り所が危機に瀕してしまう不安と恐怖が働き、とても応えてあげられなかったのだろうと思う。それは、先に農夫の家で好色妻の挑発を受けて応じる気になれなかったときに思い知ったものだという気がする。そのことに怯まなければ、ささやかな癒しと安らぎを与えてあげるに足らないセーラではないのは明らかだった。ナタリー・ポートマンが戦争に夫を奪われた若き妻の孤独と不安を品性湛えて演じ、絶妙だった。

 こんなふうに彼らの恋が奇跡的な様相を呈すれば呈するほどに、それだけのものに結晶化させないではいられないくらい、状況が過酷で危機的だったことを物語る。物語的には、二人の恋とはそのようなものであり、ほとんど巡礼者のようにしてインマンに人間の諸相を目撃させるための装置でもある。農夫の妻姉妹の享楽主義や破戒牧師ヴィージー(フィリップ・シーモア・ホフマン)の冒しかけた殺人、舟渡しの娘にしても南北戦争が勃発しなければ、弱みにつけ込む要求や売春はしなかったはずだ。インマンを救った老婆マディ(アイリーン・アトキンス)が敢えて戦争状況と全く無縁の“隠者”として登場したこの映画では、ヴィージーの苦しんだ便秘がやっと出そうになったときイスラエルの民よ!いざエジプトを出んとの軽口となるわけだが、わざわざイスラエルと名指しして溜まった糞便になぞらえる台詞を構える作り手には、今や稀代の好戦国家として世界に類を見ない国と化したイスラエルに対する皮肉があるのは明らかで、反戦的な立場にあることが明白だ。戦争というものが、いかに人間の脆さを露見させ、悪を作り出すかをつぶさに目撃するのがインマンの受難の旅であり、この作品は、苦難の果てにエイダへの想いを貫く旅の姿を借りつつ、彼が目撃する人間の諸相をより描きたかったのだろうと感じる。人を殺す武器を憎んでいたセーラが寒風に晒された赤ん坊を軍服でくるんでやっていた北軍兵士をも射殺してしまった場に居合わせて、目を伏し、うなだれるインマン。それを演じたジュード・ロウの表情には、ほとんどキリスト然とした風情まであって(そう言えばインマンも仕事は主に大工だとエイダに答えていた)、深く重く、絶品だった。そういう意味で、作り手の関心は反戦以上に、戦争に翻弄される人間群像のドラマの描出のほうにあったように思う。


 そのような観点からこの作品を観ると、スタブロッド(ブレンダン・グリーソン)と、名のとおり宝石のように輝いていたルビー(レニー・ゼルウィガー)の父娘の人物造形はとりわけ重要で、この物語に単なる反戦劇に留まらない人間ドラマとしての深みを与えていたような気がする。ルビーが戦争という過酷な現実を前に、いささかも怯むことなく逞しく生き延びていけるのは、多くの者のように戦争の勃発によって俄に過酷な状況に晒されたのではないからだ。ろくでなしの父親のせいで幼い頃から過酷な状況を生き延びてきたことによって、戦争による苦境を殊更のものにも感じさせないタフさがルビーには備わっている。マディのように隠遁せずしても、戦禍の苦境に荒まない“人間が本来備えておくべき動物的な生命力の豊かさ”を体現していて、生活力のない観念性しか備えていないエイダと好対照を見せる。そして、スタブロッドにおいては戦争の及ぼしたものが更に鮮烈だった。彼もまた戦争が自分を変えたと語るのだが、人間性を損なうほうへではなく、獲得するほうへという例外的ケースとして登場する。つまり過酷な状況それ自体が必ず人間の脆さを露見させ、悪を作り出すわけでもないということだ。脱走兵の彼は、武器ではなく、楽器を手放すことができないことで戦禍に狂った現実からの脱出を果たすとともに、そのなかで生き延びていく過程で人間的な自己変革を果たしたのだろう。土壇場の苦境に臨んでも胡桃くらいの脳味噌しかねぇんだから大目に見てやってくれと語る彼の相棒パングル(イーサン・サプリー)に向ける眼差しの優しさには、幼いルビーに対するひどい仕打ちを重ねる飲んだくれだった頃とは別人のものがあったはずだ。

 楽器を頼りにし、武器を捨てることが鍵だったという点では、セーラが口にした世の中を悪くしているのは、みんな金物よ、ナイフとか銃とか。という台詞と呼応しているところが反戦メッセージにもなっているが、ルビーの語る男たちは自分で雨を降らせておいて、雨が来た、雨が来たと大騒ぎしている。という台詞に窺えるように、単なる反戦を超えて、男性的な“力の論理による社会”のあり方そのものを問い直しているように感じられた。エイダとルビーとサリー(キャシー・ベイカー)で築いた農園が戦争後の平和的楽園を印象づけるのも、家族として加わったスタブロッドとジョージア(ジャック・ホワイト)といった男どもが主導権を握っていないからだとも見える。原作小説は、女性作家の手によるものかと思ったら、チャールズ・フレイジャーとの男性名だったので、少々意外だった。




推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2004kocinemaindex.html#anchor001096
by ヤマ

'04. 4.22. 東宝2



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