『ウェルカム・トゥ・サラエボ』(Welcome To Sarajevo)
監督 マイケル・ウィンターボトム


 街なかで普通に生活している一般人が無差別に狙撃され、命を断たれるなどという非日常的なことが、格別に珍しくも何ともない日常になってしまっている、とんでもない空間と時間の持つリアリティというものが漂っており、また、そこに嵌まってしまう外来者というものがいて、なかなか抜けられず、元の生活には戻れない場の空気というものがよく表れていた。

 街なかを歩いていると危ないことが判っていても、一歩も家を出ないで生活することはできないわけだし、今日生き延びたところで明日どうなっているとも知れないのであれば、毎日毎日ピリピリと恐怖に震え続けてもいられないのだろう。そういった意味での脱感作というものが、街の空気として漂っていて、それゆえに不安と恐怖に満ちた緊張感などよりも数段深刻で、ほとんど別世界としか言い様のない日常の凄みを感じる。

 主人公の英国人ジャーナリストであるマイケルは、そのような土地にあって、為すべきことの第一が報道ではあるまいと感じていたようだ。だが、職業ジャーナリストである自分に他の何ができるわけでもないと決死の報道活動に従事しつつ、世界中の無知と無関心に無力感を抱きながら、この地のこの現実や空気は、伝えて伝えられるものではないことを唯一共有できる現地の特派員仲間と舐め合うようにして時を過ごしている。この落差のなかに嵌まり込んだ感じが、例えば『ディア・ハンター』などでも思い出されるように、壮絶なる非日常を日常として過ごした人間の取り返しのつかなさとして漂っている。マイケルは、ロンドンに帰ると確かに寛いで安心していられるのだが、その一方で、ずっとそれに安住してはいられないであろう不安に見舞われているようにも見えた。

 孤児エミラをサラエボの街から救出したのも自身の台詞にあるように「何故だか判らない」というのが本当のところだろう。彼にとっては、エミラでなければならなかった必然性はなく、孤児の救出が元々明確な意志としてあったものでもなかったはずだ。「約束したじゃない」という言葉を投げ掛けられた行きがかりが、為すべきことの第一が報道ではあるまいと漠として感じていた彼の心の澱に火を点け、発火しただけという感じであった。そういう点で、ヒロイックでもドラマチックでもないからこそのリアリティが宿っている。

 一方、孤児だったはずのエミラを遠くサラエボから実母の元に戻せと言ってきた彼女の伯父の「何もかも失い、取り戻せるものなど何もないからこそ、取り返せるものは何としても取り返したいと思うのだよ」という台詞は、なかなか重みがあって印象深かったのだが、嵌まり過ぎていて作為的な気がしないでもなかった。

 マイケル・ウィンターボトム監督は、ドキュメンタリー映画とは異なる劇映画として撮ることへの明確な意識化をしつつ、いわゆる劇映画を越えた臨場感を表現することに腐心していたのであろう。ビデオ映像の多用や手持ちキャメラの動き、随所に挿入されるニュース映像など…。しかし、作り手がある種の世界を造形し、そこに何らかの真実の表出を試みようとする劇作家的意志が確実に観て取れる。サラエボのトポスの象徴のごとき少年の白い民族衣装をまとった姿が、夢現とも言えない形でプロローグとエピローグのようにして登場するが、これはドキュメンタリーでは使えない手法であると同時に、監督のこだわりが強く感じられるシーンであった。GO NOW日蔭のふたりと併せて、これまでに観た三つの作品がスタイルを異ならせるものでありながらも、作り手のなかにある表現世界の構築ということへの志向の強さという点では共通しているように見受けられた。

by ヤマ

'98.11. 5. 県民文化ホール・グリーン



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