『誰も知らない』をめぐって | |
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No.4777から(2004/08/20 16:23) (ミノさん) ヤマさん、こんにちわ。 さてさて、今話題の映画となるとマイケル・ムーアの「アレ」もそうですが、もうひとつの『誰も知らない』を見てきましたよ。昨日。 ヤマ(管理人) ようこそ、ミノさん。 こちらでは、まだ上映予定が聞こえてきませんが、まさか上映されずに終わるってことはないだろうと思ってます。 (ミノさん) 映画を見て、自分が揺り動かされる恐怖ってあるんですが、まさしくそんな状態になってしまいました。 ヤマ(管理人) 自分自身が問われてしまうキツイ映画ってありますよね、確かに。 (ミノさん) まだ情緒不安定状態は続いていて、今日もお弁当を買いに入ったコンビニでなぜか涙が出そうになったり(笑)。大人の癖にこんなに情緒不安定ではまずいだろう、っていう、そんな力のある映画でした。 ヤマ(管理人) とても感受性が豊かなんですね〜(感心)。にしても、映画の力のほうも大変なもんですね。 (ミノさん) ヤマさんには絶対に見て欲しいと思いました。 ヤマ(管理人) もちろん、機会が得られれば、絶対に逃したくないって思ってます。 (ミノさん) まさしく取り返しのつかない世界になってしまっている今の日本の姿を見せられた気がしました。 ヤマ(管理人) このへんが「絶対に逃したくない」と思った所以ですよ。 (ミノさん) でもなんともいえず、映画は美しいんですけどね。 (TAOさん) 『誰も知らない』を見て、ミノさんじゃないけど、私も情緒不安定になりかけるほど心の深い部分をゆさぶられたのですが、これもまた薄れていくのだろうなあ。虚しいような、そうでないと困るような(苦笑)。ヤマさんの『パッション』の日誌を読みながら、もはや懐かしい気がして、あれほどの映画でも数ヶ月も経つと見たときのショックが薄れていることに新たなショックを覚えました。もしまるで薄れなかったら日常生活に差し支えるので、健全な反応なのかもしれませんけども(笑)。 ヤマ(管理人) そうですか、心の深い部分を揺さぶられましたか。ますます以て観逃せない作品ですね。 まぁ、これだけ当たってれば、きっとこちらでも上映されるでしょうけど。 (TAOさん) 私は是枝監督は『幻の光』を公開時に見たきりで、 ヤマ(管理人) これは自分たちで上映した作品でもあります。僕は他に『ワンダフル・ライフ』と『ディスタンス』を観ていて、TAOさんの御覧になってない二つについては、日誌も綴ってます(笑)。 (TAOさん) 『幻の光』は上品だけど、線が細いなと生意気にも思ってましたが、 ヤマ(管理人) 僕なんか、もっと酷いことに「切実さを欠いた小賢しさ」なんてこと言ったりしてます(苦笑)。 (TAOさん) はは、それをきいてほっとしました(笑)。 ヤマ(管理人) 今回、その偏見を払拭してくれるかもしれないとなれば、それもまた楽しみなとこです(笑)。 『ディスタンス』の日誌に綴った終わりの二段落は、場合によっては、今回の『誰も知らない』にもそのまま使える可能性がありますからね(笑)。 (TAOさん) でも、『誰も知らない』では、繊細なまま深みを増して、たいへんなことになっているのでした。人間ってこんなに成長するものなんですねえ。 ヤマ(管理人) ほっほぅ〜、そんなに凄いことになってるのか! しかと、この目で見届けたいものですな〜(笑)。 (TAOさん) ええ、もうぜひ。ヤマさんの日誌を拝見すると『ワンダフルライフ』と『ディスタンス』は、私の危惧したとおりになってたようですが(笑)、少なくとも、今回の作品に「小賢しさ」という言葉は無縁です。80年代にすでに構想をもち第一稿を書きながらずっと温めていたテーマだそうですから、寝かせた分だけ発酵が進んだのかもしれません。 ヤマ(管理人) としたら、時間の経過のなかで、老若男女の如何を問わず、誰か彼にとってパーソナルに重要な人物との出会いと関わりがあったのかもしれませんね。 (TAOさん) で、そのあいだに自分は成長したんだろうか、とつい我が身を振り返って、映画の内容そっちのけに動揺したりして(苦笑)。 ヤマ(管理人) 僕なんか、二十代からろくに成長していない自分をしばしば感じて、既に動揺さえ来さなくなってますよ(とほほ)。 (TAOさん) ふふふ、ヤマさんの場合は、人生のかなり早い時期に、ヤマさんという人格ができあがってしまったようですもんねえ。 ヤマ(管理人) そうなんでしょうかねぇ(苦笑)。もし仮にそうだとしても、それもまた功罪ともにあって、何事もいいとこ取りってわけには、なかなかいかないとしたもんですよね(笑)。 -------そして、日誌掲載(2004/11/10)------- (じゅんさん) ヤマさん、こんにちは。『誰も知らない』の紹介拝読しました。 これは見に行きたい映画の一つですが、ヤマさんの詳細にして適切な文章で、なんだかもう、見終わったかのような気がします。 ヤマ(管理人) ようこそ、じゅんくん。早速お読みくださり、ありがとうございます。 もう、見終わったかのような気にさせて、ごめんなさいね(笑)。僕の日誌は、いわゆるネタバレ配慮みたいなことは一切していないので、映画を観る前にお読みいただくには適してないと思います(詫)。ですから、「紹介」などではありませんからね(笑)。 (じゅんさん) 私のお目当ては柳楽くんだったりするんですが(笑)、 ヤマ(管理人) それは期待ハズレにならないと思いますよ。 (じゅんさん) 映画としても深いものがあるようですね。 ヤマ(管理人) ええ、触発してくれるものがたくさんありました。日誌では冒頭の引越しの件にこだわっているうちに字数もかさみ、他はあまり縷縷綴りませんでした(笑)。 (じゅんさん) そういえばおすぎが、「この映画はあまり良くない」というようなことを書いてましたが、 ヤマ(管理人) へ〜、そうですか(驚)。 (じゅんさん) 人それぞれ評価が分かれる映画なのかもしれませんね。 ヤマ(管理人) 僕は、この作品を「あまり良くない」という人の心境が解らないですね。勿論全ての作品が元々人それぞれで評価が分かれる宿命にあるものですから、この作品を万人で支持すべきだとも思いませんが、そういうなかにもあって敢えていわゆる「人それぞれ評価が分かれる作品」というふうに言われる作品があるわけですよね。 それで言えば、僕は、この作品がそういったカテゴリーに属する映画だというようには思えませんでしたよ。 (シューテツさん) ヤマさん、おはようございます。『誰も知らない』拝読させていただきました。 ヤマ(管理人) ようこそ、シューテツさん。早速お読みくださり、ありがとうございました。 (シューテツさん) 「おお、その線できたか」って感じです(笑)。 ヤマ(管理人) あの映画は、非常に触発力に富んでいて、さまざまな線で言及したくなりますよね。 某所の掲示板にも書いたことですけど、日誌を綴った後、あちこちのを読んだりしてたのですが、いやぁ面白い、面白い。ほんとうに着眼点や思いのありようが多彩で豊かで、僕がよく訪ねる方々のどなたのを読んでも読み応えたっぷりでした。それって、この映画の持っていた作品的な豊かさということなんでしょうね。 映画を観終えたとき以上に、反芻しているなかで大した作品だと思うようになった映画でしたが、日誌を綴り終えて、他の方々のを読むことで、さらに豊かな作品だったことを教えられたように思います。 (シューテツさん) 少し前に私の掲示板で話題にした、内橋本『もうひとつの日本は可能だ』を読んだ後なので今回のヤマさんの日誌は、その繋がりとして凄く面白く読ませていただきました。f^_^;; ヤマ(管理人) 是枝監督が内橋氏の著作を読んでいるかどうかは勿論、僕は知りませんが、相通じる問題が描出されていたような気がしますね。それだけ現代日本社会において切実になってきている問題なのだろうと思います。 (ミノさん) ヤマさん、おはようございます。『誰も知らない』拝読しました。 ヤマ(管理人) ようこそ、ミノさん。早速の書き込み、ありがとうございます。 (ミノさん) これ、ヤマさんがごらんになるのを心密かに待ってたんですよ。 ヤマ(管理人) おぉ〜、なんと光栄な!(笑) 楽しみにしてくださってたんですか(礼)。 (ミノさん) この映画が凄いことは見てわかったんですけど、正直自分には負い切れないという感覚が強くって、忘れたことにしようと思ってて・・ ヤマ(管理人) それが拙日誌によって収まりどころが得られたのなら、書き手冥利に尽きますね(嬉)。 (ミノさん) ヤマさんのレビューは、本当に全く無駄なくこの映画の核心が言い当てられてて凄いわあと思ったのですが、 ヤマ(管理人) これは恐縮至極ですな〜(笑)。 核心が何であるのかは一概に言えないくらいに豊かな作品で、それこそ観方によって種々ありそうですよ。シューテツさんのレスにも書いたように、僕がよく訪ねる方々のどなたのを読んでも、ほんとうに驚くほどに着眼点や思いのありようが多彩で、しかも読み応えたっぷりになるのですから。 ただ、そのことと評価としての良し悪しが分かれてしまうというのは、また別のことですよね。じゅんくんのレスに書いたのは、そういうことです。僕がよく訪ねる方々のどなたのを読んでも、この作品を良くないと感じておいでの方は、一人もいなかったように思います。 (ミノさん) やはり「現代日本社会の行動原理たる“強者の自己都合による弱者へのツケ廻し”」というのが、私がこの映画を観ていて、しんどかった原因ですね。 ヤマ(管理人) 我が身に及んで来ちゃいますものね。僕も情けない気分になりました。 (ミノさん) 普段映画を観る時は、無意識に「カタルシスを得たい」とか、「ストレス解消したい」という気持ちが働いているので、「観たいものは観たいけど、観たくないものは観ない」という行動原理が働いているんですよ。だから、弱者にツケがいく、という現実など見たくないわけですよ。だって、そういう中で生きていかざるを得ないんですからね。でも私のそういう「観たくないものは視野に入れない」という行動こそがツケ廻しの一種なんだと思ったわけですよ。 ヤマ(管理人) ほぉ、そんなことにまでもお引き寄せになったんですか。映画を御覧になって触発されたときのしんどさの程が偲ばれますねぇ。そうとう応えましたね(笑)。 (ミノさん) でも、もうそこから誰も逃げられないんだわ、という感覚が強まっているわけです。私も。 ヤマ(管理人) そうですね。我々が現代日本社会で生きることから逃れるのは、ちょっと困難ですよね。 (ミノさん) ヤマさんが「それは恐らく僕自身のなかに、けい子ほどのことはしないにしても、“自己都合によるツケ廻しの行動原理”と“負担耐性の劣化”に対する自覚や不安が潜んでいるからなのだろう」と書いているのと似ていて、自分もあの母親と多かれ少なかれ同じなのだ、という受けた感覚からなかなか逃げられないんですよね。 ヤマ(管理人) そこんとこを突いてくるのがこの作品の力だと僕も感じたわけですが、もろに今、幼子を抱えた母親であると、その痛撃度は僕の比じゃないですよね。 (ミノさん) うまく逃げおおせればそうしたいけど、もうできないというか・・。そういう刻印をされてしまった映画ではあります。 ヤマ(管理人) そうか、現代日本社会からではなくて、痛撃からですか、逃れられないのは。それはちょっと難儀なことでしたね。 (ミノさん) しかし、観てよかった、と思わされる映画なのです。 ヤマ(管理人) それは何より。負い切れないという感覚が強くて、忘れたことにしようとさえ思った映画をそういうふうに言えるのは、立派なことだと思います。 (ミノさん) あ、そうそうシューテツさん同様、内橋克人氏の本と被りましたね。 ヤマ(管理人) あら、ミノさんもですか(笑)。ま、お二人にとってはタイミング的にも近いですもんね。 (ミノさん) 回りまわったツケは最弱者にいき、最弱者は「死」という表現形になって現れる。まさに、毎日ニュースで見ているそのまんまではないですか。 ヤマ(管理人) ですよね〜(とほほ)。 -------映画鑑賞における“距離感”について------- (スーダラさん) ヤマさんどうも。随分ご無沙汰です。スーダラです。 ヤマ(管理人) ようこそ、スーダラさん、お久しぶりですね。 (スーダラさん) 『誰も知らない』読ませて頂きました。 ヤマ(管理人) どうもありがとうございます。 (スーダラさん) 僕にはヤマさんの感想はとても意外でした。 ヤマ(管理人) そうでしたか。まぁ、あの映画の感想で、引っ越し場面にあれほどこだわる人は少ないでしょうからね(笑)。 (スーダラさん) この映画は題材も手法もドキュメンタリー的であり、またそれが社会的、今日的である為に、しばしばマスコミなどにもそうした取り上げられ方をしてきましたが、こと個人の映画感想になると、もっとパーソナルな受け止め方をしてらっしゃる方のほうが多かったので。僕が自分で書いたものも、この範疇に入ります。 ヤマ(管理人) う〜ん、それで言えば、僕が日誌で綴っているのは、自分がパーソナルなところで衝撃を受けたり、戦慄した部分ですから、僕としては、パーソナルな受け止め方に他ならないんですけどね(苦笑)。むしろ、あの子供たちのほうには、パーソナルな受け止め方の持ちようがないってのが正直なところでした。 勿論スーダラさんのお書きになったものは、既に拝読しており、スーダラさんらしいなぁとしみじみ思ってましたよ。 僕の受けた「受け止め方の持ちようのなさ」みたいなところに重なる幾分混乱した情緒のありようをいつもどおり率直に綴っておいでで、僕はとても心惹かれました。 (スーダラさん) これはやはり普段からの映画との距離感の問題なのでしょうか、また人の親であるかどうかという問題なのでしょうか。 ヤマ(管理人) こういうところで言えば、やはり我が子そのものを三人も抱えていると、スクリーンのなかの子供たちに詫びるような気持ちまでは生じてきませんでしたね。 (スーダラさん) 僕はヤマさんほど客観的にこの映画を俯瞰する事は出来ませんでした。 ヤマ(管理人) これは恐らく観ている最中ってことよりも、むしろ観終えて後のことをおっしゃってるんでしょうね。僕も明の絶望シーンのとこで「胸の内がざわめいた」り、「ささやかな光に素直に感じ入った」りしているのですから、観ている最中に客観的に俯瞰しているのではありませんので、観終えてから後に映画に向かう心境の違いというか、距離感の問題なのでしょうね。 僕は少なくとも観たその日には書かない主義なんです。反芻タイムを楽しみ、印象の強弱の混濁を落ち着かせ、適度に対象化できる状態にしてから日誌のほうは綴り始めるんですよ。そういう習慣をもう二十年くらい重ねているわけで、概ねみなさんが御指摘くださる沈着冷静とか客観性とか強固な論理性というのは(笑)、どれも観終えてからの反芻タイムの所産というところです。 それゆえ日誌によっては、ヤマさんも意外に…とか言われるようなものがあるわけです(笑)。 (スーダラさん) 同じ時代と同じ世界を生きているものとして「誰のことも知ることができない」自分の愚かさと同時に「誰からも知られない」人生の豊かさ、大切さのようなものも感じられて、そういうことが(おかしな言い方ですが)とても不謹慎に感じられて、彼らに申し訳なくなってしまったりもしました。 ヤマ(管理人) これで言えば、特に映画に描かれた子供たちに対して固有のものでもないのですが、僕のなかには、「誰のことも知ることができない自分の愚かさ」への忸怩たる思いよりは、その愚かさゆえに、少しでも深く知ろう知りたいとの思いで臨む欲求のほうが強いですね。勿論それは、詮索好きというような形での個人情報の行動や事実を幅広く詳しく知りたいというのではなくて、むしろ、そういうふうなことには余り興味が持てないのですが、その人となりや品性、感性には触れたい掴みたいという思いが強いようです。 「誰からも知られない人生の豊かさ、大切さ」というのは、きっと「知られないが故に、ではなく、知られなくても備わる」というニュアンスでのお言葉だと解しているのですが、この映画での、明の決意と宣言により子供たちが揃って表に飛び出して過ごした時間に溢れていた命の輝きと豊かさのことを 指しておいでだろうと思います。あれも素晴らしい場面と描写でしたね。 僕が日誌にて触れた冒頭の「何とも親密さに溢れる親子の様子」の場面とともに、この作品の他ではなかなか真似できない出色の箇所だと僕も思ってます。冒頭の場面と同じように、こういう描写がこそが拙日誌に綴った「実話に材を得た物語だからということでは済まない現実感」を、この作品に宿らせているのだと思います。そして、それと同時に「(おかしな言い方ですが)とても不謹慎に感じ」させる何かをも忍び込ませているのだと思います。 (スーダラさん) 「誰からも知られない人生の豊かさ、大切さ」の部分だけを抽出して観てるわけでは決してないのですが、現代社会の矛盾などとは全く無縁であるかのような子供たちの豊かさ、逞しさを見てしまうと、二重の意味で自分の無力さを感じてしまいます。 ひとつは知ることが出来ない愚かさに対して。もうひとつは安っぽい同情など必要としない子供たちの逞しさに対して。 結局、自分の守備範囲は自分を中心にした半径2メートルくらいしかないのかもしれないなぁと。 ヤマ(管理人) 今更でもないですが、やっぱりそういう思いはありますね、僕も。 『GO』では、拳の届く半径1メートルくらいでしたが。まずはそこからしっかと取り組むところからしか始まりそうにはありませんね。 (スーダラさん) 此処を守りきることだって、容易ではないのですが。 (ケイケイさん) ヤマさん、こんにちは。ヤマさんの『誰も知らない』は、みなさん書いておられるように、本当に無駄がなくて、いつもながら感服しています。 ヤマ(管理人) ようこそ、ケイケイさん。早速お読み下さり、ありがとうございます。 (ケイケイさん) それにすごく冷静ですよね。 ヤマ(管理人) これについては、スーダラさんのレスにも書きましたが、反芻タイムの効用と長年、拙日誌について臨んできた習慣による、言葉というものに対する僕の姿勢と感覚みたいなものなんでしょうね(笑)。それが冷静という印象を与えるのだろうな〜(悲喜こもごも)。 (ケイケイさん) 私なんか、家に帰ってから泣きながら書いたんですよ(笑)。書いている最中に涙が止まらなくて。 ヤマ(管理人) ケイケイさんは、すぐ書く派でしたものね(笑)。 (ケイケイさん) 私の周りに居た、何人もの明たちの顔がちらつき、あの子たち今元気かなぁと。 あっ、また泣きそう(笑)。 ヤマ(管理人) 観終えてすぐ、でなくてもそうなんですね(笑)。でも、実は僕だってそういうことは時々あるんですよ。前に岡本喜八監督の『肉弾』について、メール対談してたとき「それにしても、やはり大した作品です。もう何か月も経ているのに、昨日今日と映画の終盤については、綴っているだけでこみあげてくるものがありました。」と送って、対談相手のお茶屋さんから「お、正直に告白ですね(^ー^)。実は私も、ラストシーンを書くに及んでは涙が滲んできました。二人とも涙をこらえて書いたわけだ(笑)。」と返してもらった記録が、お茶屋さんの『チネチッタ高知』の「鬼の対談」というコンテンツにアップされてます。「■『肉弾』(後編)」の最後のとこに出てきますよ。 (ケイケイさん) 『肉弾』拝読しました。 ヤマ(管理人) 恐れ入ります。けっこう長かったでしょ(笑)。 (ケイケイさん) 残念なのは、私が観たか観ていないかも覚えていないことです(笑)。出演者やお話の内容で、観たような気もしますが、多分深夜テレビで高校生の時だと思います。 ヤマ(管理人) 僕より随分先に御覧になってたんですね(笑)。 (ケイケイさん) 是非観たくなりました。 ヤマ(管理人) 嬉しいお言葉ですね。是非是非、再見なさってください。 (ケイケイさん) ところで、私の思い出しては泣くシーンは、『砂の器』の加藤嘉が息子の写真を見て、かぶりをふって「そんな男は知らん!」と号泣しながら言うシーンで、かなりベタです(笑)。 ヤマ(管理人) これこそ僕が高校生の時の映画じゃないですか! 同窓生のなかでも飛び抜けてデリカシーを欠いてる友人の男が掲げる日本映画のベスト1作品で、「俺が号泣した映画なんだ!」っていうくらいですからね(笑)。 (ケイケイさん) 他には、後半から泣きっぱなしの『ほたるの墓』。昔8月には必ずテレビ放映してましたでしょう? 観なければよいのに必ず観てしまい、毎回目が腐るほど泣いていました。最近は放映しないので、ホッとしています。(笑) ヤマ(管理人) あ、これも強力作品だな〜(笑)。僕もモロに覚えアリです。これは特に年輩組の「泣かされた映画ベストテン」みたいなのには欠かせない作品のようで、職場の同僚でもある50男のおっさんが真っ先に挙げてましたもんね(笑)。 (ケイケイさん) 私はベタな泣ける映画が大好きで、『アイ・アム・サム』や『イン・アメリカ』なんか、子供が可愛いときているしもうパーフェクト。出来不出来でなく、すごく愛している作品です。 ヤマ(管理人) どちらも女の子がメチャメチャ可愛かったですね。後者のエマ・ボルジャーについては、僕も日誌で「この年頃の少女にだけ備わり得る光彩で、最強とも言うべき輝きだ」と綴ったように、べたべた状態でした(笑)。 (ケイケイさん) だから泣く気で行って全然泣けないと腹立ちますよ(笑)。その代表が『ダンサー・イン・ザ・ダーク』。号泣の嵐の中、自分だけ氷ついてましたもん。 ヤマ(管理人) 泣くも泣かぬも、それ以前にカメラに酔っぱらって、吐き気を催すほどに気持ちが悪くなってましたよ、僕(とほほ)。 (ケイケイさん) いっしょに観た兄嫁に、「どこが泣けたん?」と聞くと、「セルマの純粋さ」との答え。義姉さん!セルマは純粋やのうてなぁ!(以下お好きな言葉をどうぞ) ヤマ(管理人) 「現実の見えない夢想家」でしたね。悪意ないとこが悲劇的で罪深くもあるんですが。 なんか『誰も知らない』の母親とも一部通じるとこがありますね。 -------母子の描き方について------- (ケイケイさん) お母さんの描き方については、ヤマさんの日誌に全く同感です。 ヤマ(管理人) ありがとうございます。あれがあったから、あの子供たちが「ご都合主義の作り物キャラ」に見えてこないんですよね。 (ケイケイさん) ヤマさんも3人お子さんがおいでなので御理解いただけると思うのですが、親って勝手なもので、上の子が10歳の時は、もう10歳なんだからと言い、下の子が10歳の時は、まだ10歳と言いますよね? 言っちゃいけない話も、上の子にはしてしまう。 ヤマ(管理人) はっきり言って自慢ですが(笑)、僕は、これはやりませんでしたよ。 まぁ、それは僕自身が長男だったからなんですがね(笑)。 (ケイケイさん) いや、これはお見それ致しました。中々出来ることではありません。見習わないといけませんね。 ヤマ(管理人) けっこう執念深くて、小さい時分のこと根に持ってるんです(笑)。この話で思い出しましたが、僕の亡父は次男で、次男の悲哀が身に沁みてたらしく、息子兄弟つまり僕と弟ですが、弟に僕を「兄さん」とか「兄ちゃん」と呼ばせず、小さいときから名前で呼ばせてましたもん(笑)。だから、僕は弟から、そう呼ばれたことないんですよ、今まで一度も(あは)。 (ケイケイさん) これは我が家と逆ですね。うちは長男と次男が年子なんですが、子供の頃兄弟ゲンカをした時、弟が兄に「お前」って言ったんですよ。 ヤマ(管理人) こう言われたことも一度もありませんね。小さい頃は僕らもよく喧嘩したモンですが(笑)。 (ケイケイさん) 弟のお前呼ばわりを聞いた私は、「誰に向かってお前てゆーてんねん!」って弟のほうをしばいたことがあります(笑)。夫なら鼻血くらい出ていたかも知れません(笑)。 ヤマ(管理人) 長男はエライんや!(笑) けど、その分、負わされるものも大きいんですよね(とほ)。ケイケイさんには、とりわけ長男の明と次男の茂の対照が鮮烈だったでしょうね。 (ケイケイさん) あのお母さんの明に対する「甘え」は、自分を振り返って大なり小なり思い当たる人が、私を含めて多いと思います。きっと兄弟それぞれ、見方の違う母親がいたと思います。 ヤマ(管理人) そうですよね。人間の関係ってみんなそうですよね。同じ人がそれぞれの人によって見え方、違うもんです。それは、親子兄弟においても必ずそうですよね。 (ケイケイさん) 母親の服を握って話さない京子の姿など、上手にその違いを出していたように思いました。 ヤマ(管理人) その場面は、僕はむしろ明の断念と決意を際立たせる形で、京子には母親が帰ってくるかもしれない望みを棄てきれずにいることを示していたように感じました。京子は、明の味わった電話での絶望を知りませんでしたからね。 (ケイケイさん) あっ、これは私も感じました。ただいくら学校に行っていないと言っても、京子の年齢を考えたら、ボチボチ女同士の戦いと言うか、反抗があってもいいように思えたのに、 ヤマ(管理人) このへん、母親のマニキュアをこっそり塗ろうとして零したりしたエピソードに絡めて、あれこれ想像を触発された方もおいでるようですね。 (ケイケイさん) 私には、あの子は本当にお母さんが好きだと見えたんですよ。私は娘がいないのでわからないんですが、同性の娘は母親にすごく厳しいとか。私の友人なんか、「親の敵かと思う時あるで。」っていうんですよ。女の子しかいない人より、男女両方いる人のほうがそう言いますね。 ヤマ(管理人) 四人の子供たちのなかでの京子ファンというのは、意外と多いようですね。ここに書き込みをくださってたスーダラさんなんかもそうじゃなかったかなぁ。 同性の娘が母親に厳しいと言えば、うちの娘もそうですね。あ、でも、僕にも厳しいぞ(笑)。自分にいちばん優しそうな奴です、僕に似て(笑)。 (ケイケイさん) ところで、私の涙映画の追加なんですが、去年ヌーヴォでベルイマンの『叫びとささやき』を観た時は、ベタな涙でなく、辛くて辛くて涙が出てきましたね。 ヤマ(管理人) 『沈黙』『処女の泉』『秋のソナタ』『ファニーとアレクサンドル』ほか、いくつか観てはいるんですが、これは観てないですね(残念)。 (ケイケイさん) BGMのない、毒々しい赤に象徴された画面に、怖いのに目が釘付けで、こんなに人間の業、と言っては軽いようなすさまじい姉妹の確執を見せられ、涙で辛い心から逃避する感じです。 ヤマ(管理人) 『秋のソナタ』では、ここんとこがまさに先ほど話の出た「母娘」の確執でしたよね。 (ケイケイさん) 私は這いつくばっても生き抜いていくと言う、熱くて濃い感じが好きなんですが(笑)、 ヤマ(管理人) 『芙蓉鎮』とか(笑)。 (ミノさん) 皆さんの「誰も知らない」に関する書き込みを読んでいて、そうか育児って、自分でも気づいていないような潜在的な記憶も含め、色々なことが再生産されたり、あるいは再生産されないように反対側のことが行われたりと、不思議なものだな・・と思いました。 ヤマ(管理人) そうなんですよ〜(笑)。それに同じ子供でも違っちゃいますね、最初、二番目、三番目。 やっぱり最初の子は、初めて故の構えみたいなの生じますし。別に長男だからってことでなくても、ね。二番目には反動来るし、三番目には揺り戻し来るし(笑)。数増えると、とっ散らかるってとこもあるし(苦笑)。 (ミノさん) 私も育児シーンにおいて、自分が子供の頃されてイヤだったこと(それは主に「ヘリクツを言うな」といわれることだったのですが(笑))はしないようにしようとする心の動きが意識的にも無意識的にもあるんですけど、 ヤマ(管理人) それとか、自分で感じている自身の短所というかネガなとこ継承させたくないよなって思いが働くとか、ね。 (ミノさん) どうにも理想通りにはいかないもので、言いたくなかったセリフをつい吐きたくなってしまう瞬間というのが時々訪れるものなんですよね。(笑) ヤマ(管理人) ままならないのが育児に限らず、人の生ですから(笑)。 (ミノさん) 負い切れないんだけど、でも自分と切り離すことはできない映画、でしたね。この映画は。 ヤマ(管理人) 育児という点に限らず、そうでしたね、この映画は。 (ミノさん) 大事なことというのは、いつも負い切れないものなんですよ。私にとって(笑)。 ヤマ(管理人) 大事なことというのは、やはりそれなりに重たいですからね(笑)。誰にしてもそうだとは思いますよ。 (ケイケイさん) 『誰も知らない』では、次女の死はすごく開放感があって、死ぬことで彼女は救われるという安堵感がありました。 ヤマ(管理人) そうなんですよね。そういう随処というのがスーダラさんが図らずもお書きになっていた「不謹慎にも」といった言葉を想起させることに繋がるとこで、そこに含蓄と現実感がある一方で、それだけに狼狽させられたりもするとこだと思います。 ユキの死も確かに救いと感じさせられる一方で、それを救いと受け取ってどぉよとの自問も観ている側は促されるんですよね。このあたりが、いつもなら是枝的小賢しさみたいな形で気になったはずなのですが、今回僕がいささかも気にならなかったのは、本当に四人の子供たちのおかげでしたねー。 (TAOさん) こんにちは、ヤマさん。 『誰も知らない』ですが、ヤマさんたら、この期に及んでも是枝監督本人の力量とは認めたくないようですね(笑)。 ヤマ(管理人) ようこそ、TAOさん。どうも僕の太っ腹は肉体だけのようで(笑)。でも、この作品においては「いささかもそのように映ってこなかった」のは、きちんと認めてるでしょ(笑)。 (TAOさん) 私も『幻の光』以後の2本はパスしてるくらいなので、きもちはわかりますが…。 ヤマ(管理人) フォローに感謝(笑)。 (TAOさん) たしかに子役に追うところは大きいですしね(笑)。上の二人はもちろんですが、私は末っ子のユキちゃんにやられました。庇護欲を猛烈にそそる子でした。 ヤマ(管理人) もう『イン・アメリカ』のエマ・ボルジャー並でしたね。 (TAOさん) おまけに、あの歳ですでに女というか、なまめかしさすら感じます。末恐ろしい(笑)。 ヤマ(管理人) 二十歳過ぎれば…って話もあるかもしれませんが(笑)。 (TAOさん) そして、子供たちをただ淡々と記録するだけに徹した監督の見識は、やっぱりたいへんなものだと思いますねえ。 ヤマ(管理人) 見識ですか、確かに余計な色付けしませんでしたね。記録的スタイルを貫いてました。 そのくせ、ほら、手ぶれとかざらついた画面でドキュメンタルな感じを出すみたいなヤスいことせずに、記録的スタイルのくせにきっちり鮮明なショットばかりでしたよね。あれは、立派なモンです。 (TAOさん) まったくいやですねえ、、やすいドキュメンタルタッチは! ヤマ(管理人) ですよね。僕など、特に酔いやすいもので、キツイですね。 (TAOさん) ここでもちょっと前にお話が出てましたが、私も『息子のまなざし』の手ぶれカメラには死にましたー。 ヤマ(管理人) これは幸いにして、こちらでは上映されていない(笑)ので、殺されずに済んでおります。でも、上映されると観には行くんですよね(たは)、誘蛾灯に誘われるように(笑)。 けど、『誰も知らない』は『ディスタンス』とはちょい違うぞって構えで助かりました(笑)。 (TAOさん) あはは。そうですか。見なくて良かったかな、『ディスタンス』(笑)。 ヤマ(管理人) まぁ、死ぬほどってものではなかったですがね、揺れのほうは。 同録が実に聞き取りにくいってな安ドキュメンタル系弊害は、字幕の出ない日本映画の場合、かなりキッツイですけど(笑)。それでも、観ずに死なないより観て死ぬほうがいいかも、と思ったり、愚かな蛾というものは、身を焦がすしかないのかも(自嘲)。 (TAOさん) 私もそういうのキライじゃないです。いやむしろ無難にそつなくまとめた娯楽作より、いちかばちかの問題作を見たがる傾向が如実にあるな(苦笑)。 ヤマ(管理人) 『ディスタンス』行きだな、こりゃ(笑)。ぽ〜ら〜えくすぷれす!(笑) (TAOさん) でも、『誰も知らない』には、 自然の観察日記を見るようなリアルさとドラマがありました。 ヤマ(管理人) そうなんですよね。 (TAOさん) 部屋がだんだん無秩序になっていくところなど、見ている私もドキドキしてナーバスになっていくし、電気や水が使えなくなっても、それなりの秩序を取り戻すと、ものすごくほっとするんです。 ヤマ(管理人) 同感です。 (TAOさん) ところが、パリの友人(日本人)にこの映画を薦めたところ、淡々としすぎて途中でちょっと飽きてしまったと言われショックを受けました。 ヤマ(管理人) あらま。そうですか、うーむ。評価の分かれる映画にカテゴライズされるんですかねぇ、僕にはそうは思えないんだけど(とほ)。 (TAOさん) フランス生活が長いと、モノローグ入りでないとダメなのかも(笑)。 ヤマ(管理人) わはは。確かに確かに。 |
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by ヤマ(編集採録) | |
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