“第16回東京国際映画祭”

一日目[11/1]
①『阿修羅のごとく』(Like Asura)[日本] 監督 森田芳光
②『ヘヴン・アンド・アース』
 (Warriors Of Heaven And Earth)[中国]
監督 フー・ピン
三日目[11/3]
③『美しい夏キリシマ』
 (A Boy's Summer In 1945)[日本]
監督 黒木和雄
④『イン・アメリカ/三つの小さな願いごと
 (In America)[アメリカ]
監督 ジム・シェリダン
⑤『イン・ザ・カット』
 (IN The Cut)[アメリカ]
監督 ジェーン・カンピオン
四日目[11/4]
⑥『(邦題未定)』(I Love You)[中国] 監督 チャン・ユアン
⑦『さよなら、将軍』
 (Good Bye Generalissimo !)[スペイン]
監督 アルベルト・ボアデーリャ

*一日目('03.11. 1.)

 この映画祭のオープニング・スクリーニング作品が日本映画になったのは、十一年ぶりなのだそうだ。富田勲の『源氏物語幻想交響絵巻』が琵琶・筝・篳篥・篠笛・能管といった和楽器によって演奏され、ホリ・ヒロシの人形舞が添えられていたアトラクションや舞台挨拶などと共に映画祭の開幕セレモニーの一角を担った特別招待作品の『阿修羅のごとく』について、僕は '79年当時のテレビドラマを観ていないから、その比較はできない。また、思い掛けなくも開幕セレモニー&レセプションに初めて招待を受け、首に蝶ネクタイを付けてオーチャード・ホールのような大会場で映画を観るというのは、普段の映画鑑賞条件とは相当に趣が違うし、おまけにレジストレーションデスクで偶然にも久しぶりに出会った知人と昼食時からビールを飲んでいて、ふわっとした気分の名残が続いてもいた。でも、映画として上々の部類だったのは間違いないように思う。家族なり姉妹であるということ以上に、それが女同士であることならではの安心やら反発などの共感共振、摩擦軋轢といった葛藤の有様を生々しく且つユーモラスに描出していて味わい深い。女というのは大変だなぁと思うと同時に、女のほうが人生を存分に奥深く生きているような気にさせられ、羨ましいような気の毒なような微妙な気持ちに誘われた。

 僕は今現在、寡婦の長女綱子(大竹しのぶ)と同じ四十五歳で、この作品に描かれた昭和54年冬からの一年余の間に二十二歳になったということでは、四女咲子(深田恭子)と三歳しか違わない。舞台挨拶には嘗てテレビドラマで次女巻子を演じ、今回は母ふじを演じたとの八千草薫を始め、大竹しのぶ、黒木瞳、深津絵里、深田恭子、森田芳光監督といった顔ぶれが登壇していたのだが、深田恭子が昔の人の恋の仕方は今とは随分違っていると思ったなどと話しているのを聞いたり、昔の風物がよく捉えられているとか、今でも残っているところがあることに感心したといった話が出るのを聞いていると、自分が既に“昔”の側にもいられる歳になっていることを改めて意識させられる。

 その“昔”の側の感覚で言うならば、“今”として語られる感覚との違いで最も大きいのは、「秘すること」と「露になること」のもたらす意味とインパクトではないかという気がする。最も年嵩のいった世代のふじにおいて、夫・恒太郎(仲代達矢)の愛人(紺野美紗子)の住むアパート近辺を自分が訪ねてきている姿が次女巻子(黒木 瞳)の前で露になったことが、その死に到る直接的な引き金にもなっていたというのは、かなり象徴的であったし、この秘と露は、母親のみならず四人姉妹のそれぞれの葛藤のドラマに共通する重要な主題だったように思う。知りたいけど、知らされたくないこと。知ってもらいたいけど、知らせたくはないこと。知られたくはないけれど、知ってほしいこと。知らせたいけど、知らせるわけにはいかないこと。知っているけど、知らせてはいけないこと。知られてるということを知りたくないこと、などなど。長らく忘れていた感覚というか記憶だが、僕は若い頃、女はどうしてみんなこんなに“秘密好き”なんだろうと訝かしく思ったものだった。


 レセプション会場でシャンパンを重ね飲みした後で観たオープニング・ナイト作品『ヘヴン・アンド・アース』は、十一年前に観た『双旗鎮刀客』を撮ったフー・ピンの監督作品だが、あのときの野趣が適度な洗練によって非常にスマートになっているように感じた。感心したのは、ウェスタン風味の男性的な骨太い娯楽性の醍醐味が、野趣の洗練によって損なわれたようには感じられず、むしろ骨格それ自体は、骨太さに頼るだけではない確たる構成を備えるに到っていたように思われた点だ。とにかく明快なのがいい。そして、堂々たる存在感で主役も同然の位置を占めていた中井貴一が見事だった。壬生義士伝を観たときにも感じたことだが、彼は本当にいい役者になったものだ。外国作品のなかに観た日本人俳優の存在感ということで、嘗てこれほどに際立ったものには出会ったことがないような気がする。

 来栖旅人(中井貴一)と李隊長(チアン・ウェン)という私怨なき対決を強いられた男たちの、武人としての侠気がクラシカルに背筋が通っていて、気持ちのいい人物造形だ。そして、それを引き立てる悪役の盗賊団首領たる安(ワン・シュエチー)の悪辣ぶりも生々しく、特に水枯れに際して発揮した嗜虐性には凄みがあった。彩りを添える役回りである文珠を演じたヴィッキー・チャオは、中井貴一ともども舞台挨拶にも登壇していたが、物語の舞台にふさわしく、ヘレニズム的な風情を映画のなかでは見事に醸し出していた。いかにも中国的な美女の顔だちというわけではないところが絶妙のキャスティングで、非常に魅力的だった。『西遊記』を『東遊記』仕立てにして『七人の侍』的なキャラ組みを施したシンプルなアイデアだけれども、風景の力と役者の個性、力強い演出で堂々たる作品に仕上がっているように思った。



*三日目('03.11. 3.)

 二日目は国際映画祭シンポジウムへの参加やそれに続く懇親会その他で談話を途中で切り上げがたく、観る心積もりをしていた二作品も総て観逃してしまった。現役最高齢日本人監督と思われる新藤兼人の『ふくろう』と、高知ではピンク映画以外はまだ未公開監督ということになると思われる廣木隆一のコンペ作品『ヴァイブレータ』なら、間隙を縫って観られるかもしれないとの当ては外れたが、その分、三日目は予定していた三作品総てを観ることができた。

 黒木和雄監督作品の『美しい夏、キリシマ』は、今回の映画祭のなかでは“ニッポン・シネマ・フォーラム”の“メディア・セレクション”という部門で上映された映画だ。この部門は、「映画興行を含め、今日の市場動向を左右する女性客の気分を一等知っている媒体は女性誌だろうか…?」ということで、女性誌「FRaU」編集部に選択を任せた日本映画7作を渋谷シネフロントで三日間に渡って上映したものとのことだ。僕が観たのは、その最終日に最後の上映作品として登場した映画であった。

 沖縄戦に敗れ、広島への原爆投下もされ、戦況としては先の見通しが全く開けないなかで、国が無条件降伏をするまでの間、人々は、兵は、いかように過ごしていたのかというのは、かねてよりの僕の関心事だったのだが、その一週間あまりの時間を市井人の目から描いたものを今までに観たことがなかっただけに、非常に意義深い作品だと思った。何かの喪失なりショッキングな出来事による虚脱を経た後の「うつろさが常態になっている感覚」を造語的に特に“空脱感”とでも名付けたくなるようなものが、静かに泌み渡ってくる作品だった。

 勤労動員中の空襲で被災した友人を見捨てて逃げ出した自分に対して強い罪悪感と喪失感を抱いている十五歳の少年康夫(柄本 佑)にしても、新妻はる(中島はる子)を世話して貰っても新生活を営む気になれない、脚が不具になったフィリピンからの帰還兵古寺秀行(寺島 進)にしても、出征した夫の遺骨も返らないまま戦死と伝えられて寡婦となり、生活も苦況のなか、村に駐屯する兵(香川照之)との情交に憂き身を任せていたイネ(石田えり)にしても、数多くの人が死に行くなかで自分が残り、生き行かなければならないことに重荷と苦しさを感じている。その苦悩の表れ方は様々ながら、そうした人物たちがクローズアップされているところには、他方で本土決戦に向けて日向上陸を阻止せんと小穴を掘って潜み迎撃する軍事訓練に精出している駐屯部隊の姿の情けなさを尻目にしている、この時期の市井の人々の気分自体が、まさしくそういうものであったことを示す意図があるように窺われる。人々にかような空脱感をもたらしたものが何であったのか、ということだ。

 しかし、僕が感銘を受けたのは、そういう問題意識よりも、そのような人間の営みを超然としたところで営々と息づいている自然の姿を美しく捉えていた画面の魅力だった。緑は元来、僕の好きな色だけれど、緑のみならず、風景の色合いが実に素晴らしい。この自然の姿の力強さを印象深く目にするなかで、人の営みによる空脱感が泌み透ってくる感じに、この作品の一番の値打ちがあるのではないだろうか。そして、それこそが、おそらくは僕の知らない“あの夏の日々”のなかで人々が感じていたものだったのではなかろうか。そんな観後感を残してくれた。

 それにしても、と考え込まされたのは、地方上映との鑑賞環境のあまりにもの違いだった。画面の発色が素晴らしく、音が非常にきれいで、観ていて溜め息が出てくる。地元で日本映画を観ると大概の場合、音声が割れて台詞を聞き取るのに難儀をする。それなのに、日本語だからということで字幕が付いていないのが恨めしいくらいで、かねてより僕は日本映画が日本で好まれない理由の一つに、このことが大きく作用していると密かに思っている。しかし、ここでは音も響きも鮮明で、方言であるがために語彙として持ち合わせていない言葉は別にして、聞き取れない言葉というのが殆どないことに驚かされた。それと同時に、こういう作品であればこそ、画面の発色がよく、映像が美しく映し出されることの重要性が高いのに、地方では充分な形での上映がされないであろうことへの残念さが募った。

 思えば、初日に観たオーチャード・ホールにしても、2500人収容できるらしいのだが、そんな大会場で30列あたりで観ても、遠い感じを受けないどころか画面は普段観る以上に発色がよかったし、音も一体いくつスピーカーをセットしてあるのだろうかと思うほど、鮮明に聞こえていた。先頃、地元で六月の蛇を観たときに台詞が殆ど聞き取れないことに閉口したのだが、その時、これほどまでに酷いのには行き当たったことがないと感じながら、もしかすると最近の大都市映画館での設備の改善状況のなかで、グレードの高い再生装置を前提とした音づくりや録音がされ、出力レベルも高く設定されていて、音響設備の悪いところでは却って聞き取れないような不具合が生じてきているのではないかと思ったのだったが、改めてその意を強くすることとなった。何とも悔しいことではある。


 シアターコクーンで観た特別招待作品の『イン・アメリカ/三つの小さな願いごと』は、僕が今回観た7作品のなかで最も心惹かれた映画だ。幼い家族を失ったことが遺族に残している様々な痕跡を丁寧に掬い取りながら、喪の仕事というものがいかなるものであるのか、そこにおける家族の絆の掛け替えのなさや家族のなかに新しい風を吹き込めるような他者との出会いから得られるものの素晴らしさなどを描いて、豊かな後味を残してくれた。

 幼い息子フランキーを亡くした悲しみを押し殺すために感情を封じ込めることで感情表現が素直にできなくなり、それを技巧的に演じることしかできなくなって失業した俳優ジョニー(パディ・コンシダイン)が新天地ニューヨークで活路を見いだそうとする物語は、監督・脚本・製作を担ったジム・シェリダンの半自伝的なものだそうだ。妻サラ(サマンサ・モートン)の失意にある夫に対する向かい方が愛情と信頼に満ちていて、とても素敵だった。直接的には最も痛手を被っていたはずだし、その痕跡の想像以上の深さは後に窺えもするから、相当に気丈で自負心の強いことが偲ばれる人物像が浮かび上がってくるのだが、そこには半自伝的であるがゆえの理想化というか、ジムの感謝の念が込められてもいるのだろう。

 愛する者の死について、忘れようとすることで払拭できないでいる両親たちに対して、幼い娘たちは、もっと自然な受け入れ方をしている。それは子供であるがゆえのものかもしれないが、最も幼いアリエル(エマ・ボルジャー)には殆ど屈託の痕跡が窺えない。姉のクリスティ(サラ・ボルジャー)は、忘れようとするどころか、逆に常に心のなかの対話の相手として置いている。しかも、おそらく彼女の記憶にある童話からの連想だろうが、心のなかのフランキーは、この世ならぬ地に住む近親者として“三つの願いごと”を叶えてくれる頼りになる存在なのだ。結局は、この、忘れようとはせずに受け入れ、素直な形で心中に留め置くことに到るのが、いわゆる“喪の仕事”であって、そのことへの気づきと踏み出しの過程において、家族の絆と他者との出会いが大きな力になるということが描かれているという点では、先頃観たばかりのムーンライト・マイルとも通じる。

 しかし、ここには飛びっきり可愛いエマ・ボルジャーの姿があって、ハロウィンのときの仮装に留まらず、本当に天使のようだった。癌を病み、迫り来る死を前にして、残された生を苦悶のうちに生きていた黒人画家マテオ(ジャイモン・フンスー)の心をも融解させるだけの無垢の愛らしさに溢れていた。この年頃の少女にだけ備わり得る光彩で、最強とも言うべき輝きだ。


 今回の招待に併せて用意してくれていた宿は二泊までだったので、このあと自前で予約してあった渋谷のビジネスホテルへのチェックインを済ませ、暫しの休息。一泊を追加したのは、今宵の特別招待作品であるイン・ザ・カットを是非とも観たかったからでもある。十二年近く前に初めてエンジェル・アット・マイ・テーブルを観たときの日誌に「生理的感覚に対する感性のタフさは女性監督ならではのものかもしれないが…」と綴った後に観た、どの作品においても、ジェーン・カンピオン監督作品には、ある種の生々しさが特徴的に宿っていたように思う。

 生々しさが力強さとしての迫力に向かうとき、そこに僕は、男性的なニュアンスを感じるのだが、カンピオン作品の端々に観られる生々しさは、迫力に向かうものではなく、息づきに向かうものだと感じている。観る側が結果として迫力を受け取りながらも、作り手側は迫力を求めて描いているわけではないように感じるのだ。そういうところに女性的なニュアンスを感じて、その監督作品を観る機会があれば逃したくないと常々思っている。

 この作品は、原作・脚本がスザンナ・ムーアで、監督・脚本がカンピオン、製作にニコール・キッドマンの名があり、彼女の主演を押し退けてメグ・ライアンが出演を熱望したと宣伝されている女性尽くしのセクシュアル・サスペンスということだ。上映前に監督のビデオレターが映し出され、メグ・ライアンのコメントが紹介された。メグの手紙によれば、自分のキャリアを吹き飛ばす爆弾のような作品かもしれないとのことだったが、出演には大いに満足しているようだった。

 謎めいたサスペンスとしては、ある意味で常套的な展開を見せる作品で、犯人の目星も程々のところで付いてしまう。目を惹いたのは、案の定、カンピオン作品らしい生々しさだった。

 早々からダウンタウンのいかがわしげなカフェの地下で見知らぬ男女のオーラル・プレイのあられもない姿を覗き観たフラニー(メグ・ライアン)がアパートの自室に戻って、その残像を追いながら自慰に耽る場面が出てくるが、腓返りを起こし、「Shit!」と言って中断に到る。オナニーをしながら脚を攣らせる女の姿などというのは、ポルノ映画などでもあまり出くわしたことがないように思うのだが、フラニーがいかに興奮し、身体に力が入っていたかを偲ばせることにおいて生々しいことこのうえない。また、手首にスペードの3の入れ墨をした例の地下のオーラル・プレイの男とおぼしき刑事マロニー(マーク・ラファロ)に「脱げよ」と命じられて、パンティ一枚になった姿を嘗めるようにしげしげと観られながら、「そいつが残ってる」と言われても自分の胸を掻き抱いて立ちすくんだままにしていたフラニーが、マロニーに勢いよくパンティーを引き下ろされて、そのままベッドにうつ伏せに倒れ込み、マロニーがフラニーの盛り上がった尻に顔を埋めて、舌技を施し次第に彼女に声をあげさせる場面があるのだが、臈たけ熟した女が離婚歴を明かした男に向かって「誰にあんなことを教わったの?」と訊ねる台詞があって、彼がそのときフラニーの肛門を舐め撫で回していたことを偲ばせたりもする。現実的には初めての相手とのセックスで、いきなりそこから始められて悦ぶものでもなかろうが、そういう舌技を問わず語りに偲ばせるうえでは、うつ伏せに倒れ込んだ女の尻に男が顔を埋める場面展開であったからこそ、鮮やかに浮かび上がってくるわけだ。そういうふうな生々しさを随所に偲ばせながらも、例えば、ブリジット・ジョーンズの日記などで感じたような身も蓋もない明け透けな印象を与えずに、妖しくスリリングな緊張感を官能的に醸し出していたのだから、やはり大したものだと思う。

 それにしても、最終的にはフラニーが独力で犯人と対決し、からくもながら倒し果せる展開になっているという点では、“強い女性”というメグ・ライアンの基本的なイメージは相変わらずじゃないかと思ったりもした。



*四日目('03.11. 4.)

 今回の映画祭で一番観たかった作品は、実は“アジアの風”部門で上映されたツァイ・ミンリャン監督の『さらば、龍門客棧』だったのだけれど、あいにく初日の初回でチケットの割り当てが受けられなかった。思えば、その“アジアの風”部門もコンペ作品も1本も観ていないということで滞在最終日に予定していた渋谷ジョイシネマでの『I LOVE YOU(原題)』とオーチャード・ホールでの『さよなら、将軍』は、外したくなかったのだが、なんとか観逃さずには済んだものの、さすがに四日目ともなると、この歳では蓄積疲労が身に応え、いささか朦朧としていたというのが率直なところだ。


 『I LOVE YOU(原題)』のチャン・ユアン監督作品は、二年前にただいまを観ているのだが、ベネチア国際映画祭の最優秀監督賞受賞の同作は、実話に想を得たとの興味深い物語ながら、その題材への着眼の面白さを映画が充分に生かし切れてない仕上がりぶりだったような覚えがある。今回の作品も、現代中国の名もなき一般の若者たちの等身大の恋愛結婚模様を描いている点に興味深さを誘われるところがあったのだが、あまり鮮烈な印象を残してくれてはいない。男女の思いの向け方のずれとそれに付き合っていくことで腐れ縁的にえにしを深めていくことが男女の愛の定めであるとの結婚観が窺われたように思うが、新味はなかった。ただ、映画のリズムのこの軽やかさは、これまでの中国映画では観たことがない類のもので、少々意外だったけれど、僕にはあまり好もしくは映らなかった。


 スペイン映画の『さよなら、将軍』は、今回僕が観た唯一のコンペ作品だ。独裁政権を敷いたフランコ将軍の晩年を描き、ほとんど亡霊のような形で君臨していた当時の様相が皮肉っぽく描かれていた。耄碌したままに側近たちの討議をどこまで聞いているのかも怪しく、明確な指示を出すわけでもないのに、話の最中に彼が何か気に入らない素振りを見せると、それが討議内容に関係あるかどうかも確かめずに、彼の顔色を窺う形で話の方向が転換されていく。フランコ将軍(ラモン・フォンセレー)の虎の威を借りる形で権力の周辺にいる人物たちと権力とは縁のないところにいる人物たちとで、彼に対する扱いやふるまいがまるで違っているさまが、風刺色の顕著なコミカルさで以て描かれていた。

 近頃こういう感じの映画というのは、滅多に観られなくなったと改めて感じさせられると同時に、さすがはブニュエルを輩出した国だけのことはあるなと妙に感心したのだが、僕自身が、この映画のなかのフランコ将軍同様に、蓄積疲労で朦朧としており、随分ともったいない鑑賞状況にあったのが残念であった。機会あれば再見したいところだが、こういう映画が地方で上映されることは、自主上映が盛んだと言われる当地でも期待が持てず、まずは無理だろうという気がする。




*『阿修羅のごとく』
推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0311-1eden.html
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2003acinemaindex.html#anchor001016

*『美しい夏キリシマ』
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2004ucinemaindex.html#anchor001042

*『イン・アメリカ/三つの小さな願いごと』
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2004icinemaindex.html#anchor001043
推薦テクスト:「This Side of Paradise」より
http://junk247.fc2web.com/cinemas/review/reviewa2.html#inamerica
by ヤマ

'03.11. 1.~11. 4. 渋谷界隈のホールや映画館



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