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『芙蓉鎮』(原題同じ) | |||||
監督 謝晋 | |||||
この作品を観て最も印象深いのは、ここに描かれた中国の人々に感じられる人間としての線の太さである。節操もなく変節を繰り返すイデオロギーに対し、ある者は憑依し、ある者は追従することで、ある者は自らの真実と画然とさせながら、またある者は懐疑と不安とともに、そのイデオロギーに関わらずを得ないのが、顕著なイデオロギー社会である中華人民共和国の人々の宿命であり、そのなかではイデオロギーに近いと遠いとを問わず、皆が翻弄されていく。 哲学という人類が持ち得た至高の文化のなかで、理念がその形而上的な最高次のものであるとするならば、思想とは、その実現のための行動規範を伴ったものであり、そういう意味での行動規範というものがイデオロギーであったはずである。従って、人々を翻弄し、過酷な人生を歩ませるものであってはならない。しかし、現実の人間社会のなかで、イデオロギーがその本来的な意味で機能している社会を人類は、未だ知り得ないでいる。形而下に降りてくるにつれて理念から離れていく一方で、本末転倒してしまってばかりいる。理念は人類が生み出したものであるのに、人類がその理念に耐え得るだけの次元に至っていないのである。それどころか、宗教がその持つ意味を稀薄化させていきながら、それに取って代わるべきところの政治文化がそこまで育たないために空洞化が生じ、総体的なモラルの低下を招いているなかで、人類の至り得る次元のピークは、既に越してしまっているのではないかという危惧すら、時折抱かさせられるのが現代なのである。 そういった認識を持たざるを得ない状況のなかでこの作品を観ると、イデオロギーについてのその思いを改めて強くするとともに、それに翻弄されながらもしっかりと生き抜くだけの人間というものの持つ力強さと逞しさに勇気づけられもする。そういう意味では、生き方や立場は違え、胡玉音も秦書田も谷燕山も李国香も同じである。王秋赦だけは、翻弄された揚句、狂気の世界へ陥ったけれども。特に、この作品が登場人物をある程度ステレオ・タイプ化せざるを得ない大河ドラマでありながら、李国香をそういう意味での悪役にしていないところが重要である。そこには、党側の人間でしかも幹部である人物の扱いということで配慮があったのかもしれないが、結果的に、生き抜く力が一部の主人公達だけのものとしてでなく、人間の持つ力と可能性としてクローズ・アップされ、形而上の部分での一つの頂点である理念と鮮やかな対照をなす形而下の部分での人間の持つ極みとして示されてくる。この構図のもとに、作品のなかで描かれているイデオロギーと人間の逞しさとを対比すれば、前者が後者の前に遥か霞むのは自明のことである。前者は、現実のなかで理念とかけ離れ、余りにも歪んでしまっている。 主要な人物が十数年の歳月を経て一堂に会し、米豆腐を食べている映画の最後のシーンは、この構図における生の逞しさを讃えるうえで、実に効果的であった。苛烈ないきさつを持つ者同志も含めて皆が再会して、あのように振舞えるその底には、立場も生き方も違いながら、皆あの厳しい時代を懸命に生きてきたのだということを分かつだけの人間観の大きさがなくては叶わぬことである。そして、そのように大きな人間観を体得させたのは、彼らの生の逞しさなのである。あのように穏やかに会えるラストがわざとらしく不自然に映るか否かは、それまでのドラマのなかで彼らの生き方をどのように描いたかということに掛かっている。大きな人間観を体得するだけの逞しさをもって描き得たところには、謝晋監督の力量が窺えるし、それが人間ドラマとして説得力を持つところには、中国の人々の民族としての線の太さが感じられる。 この作品を観た時、中国では、天安門広場で学生達が民主化を要求してハンスト行動を起し、市民もそれを支持して政府にプレッシャーをかけている頃であった。この作品に描かれている文化大革命という、政治に翻弄された経験を持つ彼らがそれでもまだ政治に期待と可能性を失っていない現実を前にして、彼我の格差に愕然とさせられた。文革の凄じさからすれば比較にならない程度の全共闘の挫折以後、日本ではびこってしまった政治に対する無力感と無関心をみれば、やはり民族の線の太さの違いを感じる。それは、長い歴史の間で、大きく言って大和朝廷の誕生と明治維新と連合国による占領の三度位の変革しか経験していないものと幾度となく繰返した王朝の変遷のなかで、変革の歴史を歩んできているものとの差なのかもしれない。天安門広場の学生達は、その後、思いもかけない強硬な形で弾圧されたが、中国の人々が長い歴史のなかで培った生の逞しさからすれば、全共闘以後の日本のようなことにはならないのだろうという気がする。日本に比べて遥かに国家の強権が顕在化している国であるにもかかわらず…。この作品は、中国の人々にそれだけの力と可能性があることを感じさせてくれる。 | |||||
by ヤマ | |||||
'89. 5.31. 県民文化ホール・グリーン | |||||
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