『ドッグヴィル』をめぐって
(TAOさん)
(Fさん)
ヤマ(管理人)


  ◎掲示板(No.4248 2004/03/24 16:30)から 

(TAOさん)
 ヤマさん、こんにちは。やっと見てきましたよ、『ドッグヴィル』。

ヤマ(管理人)
 おぉ〜珍しや、僕のほうが先でしたか!

(TAOさん)
 ニコール・キッドマンの硬質な魅力が生きてますねえ。彼女の最高傑作でしょうね。

ヤマ(管理人)
 ですよね、ですよね!(欣喜雀躍) なのに、どうして一作で降板しちゃうんでしょうかね。トリアーがよほど挑発的に現場を仕切ってたんでしょうか(笑)。

(TAOさん)
 ほんとに巧い役者になったものです。それに、ラース・フォン・トリアー、ずいぶん腕を上げましたね。

ヤマ(管理人)
 僕は『ヨーロッパ』以来、力量にはいつも感心させられてるんだけど、どうも気に入らない作品が続いていたので、ここにきてようやく、嬉しくもやられちゃったという感じですね。

(TAOさん)
 今回は、安定感すら感じましたよ。

ヤマ(管理人)
 カメラの揺れも今回はかなりましだったし(笑)。

(TAOさん)
 あの設計図みたいなセットも、ほんとに効果的で、演劇っぽくなりそうなのに、かえって映画の本質を見るような気がしました。

ヤマ(管理人)
 僕は、日誌にも綴ったように、作り手が何もかも見通している視線というものを見せつけられたように感じました。『無痛文明論』を著した森岡正博・大阪府大教授(彼は、高校の一年後輩に当たる人ですが)は、「家々には壁も屋根もなく、すべての家の内部が外から丸見えという状態」をいわば主人公の脳髄の内部で、チェスの駒のようにあやつられる人間たちの暗黒世界というように観ています。そのうえで、そのような人間たちの暗黒世界を描いた超自傷的な映画なのだとしています。
 僕が日誌で言及した、作り手でも神でもない第三の「視線の主」の提示が、ちょっと新鮮だったんですが、「あやつられる人間」とか「自傷的映画」との解釈は、僕とは見解的に妙に合わないものでしたね。
 イノセントな存在だったグレースの変化についても言及しながら、新聞紙上を考慮してか、多くを語らず、「この映画、性的虐待を受けた経験のある方は見ないほうがいいと思う」といった形で「トリアーの放つ毒は強すぎて、それは人のトラウマを掘り起こし、古傷から血をたくさん流させるだろうから」としているとこや、映画の狙いを観客をも巻き込んだ自傷行為に、人々を招き入れることにあるとしているとこなどについて、もう少し多くの言葉を重ねたものを読んでみたく思いました。

(TAOさん)
 扉も壁もないことで、プライバシーのないコミュニティの閉塞感が視覚化されるんですね。

ヤマ(管理人)
 この視覚化された閉塞感というのは確かにありましたよね。森岡教授にとっては、そこのところがトムの脳内世界という解釈に繋がっていったのかもしれませんね。

(TAOさん)
 ヤマさんがご指摘のように、教会では秘密の相談が公然と行われるのも面白いです。

ヤマ(管理人)
 プライベートな空間ではないという、教会の「公」の側面を第一に、僕もあの場をトポスとして受け取りましたが、神と出会う場としての教会という意識は、不思議なほどに僕のなかでは希薄でした(笑)。

(TAOさん)
 私は途中まで、ヒロインは地上に降りてきた菩薩なんだろうと思ってみていたんですが、それこそ東洋人の幻想でした(苦笑)。

ヤマ(管理人)
 このへんは、僕も同じですね(苦笑)。でも、僕は追っ手のギャングのボスとグレースの関係については、露わになる前に察していたんですよ、珍しく(笑)。

(TAOさん)
 とはいえ、この容赦なさ、けっしてキライではありません。いや、かなり好きかも。

ヤマ(管理人)
  僕は日誌にも綴ったように、作り手への反発心ということでは、むしろ今までに観たトリアー作品のなかでも強い形で刺激されつつ、同時に、作品の見事さということについても『ヨーロッパ』に優るとも劣らないほどのインパクトを感じました。いやぁ、やっぱりたいしたもんですよ(感心)。

(TAOさん)
 ヤマさん、いまのところ、『ドッグヴィル』の話ができるのって、ヤマさんだけなんですよ。うちの夫はトリアーアレルギーだし。

ヤマ(管理人)
 当地では上映されてませんから、僕もここ以外ではむずかしいですね。トリアーって、嫌われがちですからねぇ(苦笑)。出演者のみならず(笑)。

(TAOさん)
 夫の場合、たぶんその「自傷性」とも関係がありそうに思います。

ヤマ(管理人)
 あらら、そーなんですか。森岡教授の言に従うなら、見ないほうがいいのかも(笑)。



-------「観客をも巻き込んだ自傷行為に、人々を招き入れること」について-------

(TAOさん)
 自傷行為なら、私は『ドッグヴィル』よりも、むしろグリーナウェイの『ベイビー・オブ・マコン』を想起しますね。

ヤマ(管理人)
 僕は未見なんですが、子供の死体がゴロゴロ出てくる悪趣味映画じゃなかったっけ?

(TAOさん)
 あれほど毒を感じた映画は他にありません。ちなみに夫は吐き気がすると嫌悪していましたが、私は生理的嫌悪以上におそろしく魅了されました。

ヤマ(管理人)
 ほっほぅ〜(興味津々)。僕は、グリーナウェイの作品で好きなのは一つもないんですよ(苦笑)。

(TAOさん)
 私も好きかと言われるとうーんと唸りますねえ。ただ『ベイビー・オブ・マコン』に関しては、悪趣味は悪趣味でも、見届けないといけない悪趣味のような気がしてしまって(笑)。

ヤマ(管理人)
 あ、これ何となく分かりますね〜。見過ごせない悪趣味っつぅか(笑)。

(TAOさん)
 うれしいな、わかりますかー(笑)。どうも私、そういうのにめちゃくちゃ弱いみたいですよ。

ヤマ(管理人)
 お互い同好の士だという気がしますねぇ。

(TAOさん)
 森岡教授の言及している自傷というのはキーワードで、トリアーもたしかに自傷行為を聖性に高めることにこだわってますよね。

ヤマ(管理人)
 えぇ、これまでの系譜からも窺えますよね。

(TAOさん)
 ただ、『奇跡の海』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』に比べ、『ドッグヴィル』はもはや自傷行為からサバイバルして、尊厳を取り戻したヒロインを描いているように思えました。というのも、自傷行為を繰り返す人たちの最大の特徴は、自己評価がとても低いところにあると思うのですが、『ドッグヴィル』のヒロインは傲慢さを意図的に捨てようとする自傷行為を経て、自らの責任と意志で自己の尊厳を回復するための決断を下すわけですから。
 最後まで尊厳を回復することなく、死によってようやく苦しみを逃れていった前2作のヒロインたちとはまるでちがいます。

ヤマ(管理人)
 あれを尊厳の回復と見ましたか、なるほどねー。そいつは、僕にとっては思い掛けない視座でしたが、自身の選択した寛容と受容で臨むことで傲慢さを排除できるとは、もはや信じられなくなった彼女が、異なる手段を選択するのは、ある面、自己の尊厳を回復するための決断とも言えますね。

(TAOさん)
 たしか、そういうナレーションが入っていたんですよ。

ヤマ(管理人)
 そうでしたか。
 きっと僕は、鑑賞中は単純に虐待されたことへの復讐というか、腹いせ的側面に過ぎない言葉として聞き流しちゃってたんでしょうね。ここでやりとりしているような意味を含んでの言葉として響いていたら残っていたんでしょうが、僕があれこれ考えたのは、観終えた後の反芻過程でのことですからね(苦笑)。

(TAOさん)
 私はまたいつもの自己犠牲で終わったらいやだなー、違う手は考えてるんかいなーと祈るような思いで見てましたからねえ、しがみつくように聞き取ったわけです(苦笑)。

ヤマ(管理人)
 あ、ここんとこが気掛かりだったのなら、何はともあれ、章の始まりのナレーションでそう来れば、ややっとなるわけですね。

(TAOさん)
 まして、今回のヒロインは『奇跡の海』や『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のような“聖なる愚者”ではなく、知性と意志を持った女性のように見えたので、どう始末をつけるのか、ほんとにハラハラしました。

ヤマ(管理人)
 “知性と意志を持った女性”ってとこ、僕が今回の作品に挑発されながらも、大いに買ってるところですよ。キッドマンよかったし。

(TAOさん)
 決断を避けての逃亡が許されなかったところもえらく象徴的ですよね。

ヤマ(管理人)
 なるほど、なるほど。
 あのドラマをグレースの内面の反映と捉えると、この顛末の象徴性は、彼女の強靭さと潔癖さの凄みに繋がりますね。

(TAOさん)
 ええ、その“強靭さ”と“潔癖さ”がまたニコール・キッドマンの持ち味にぴったり似合ってましたよねえ。

ヤマ(管理人)
 そうなんですよぉ(惚れ惚れ)。

(TAOさん)
 また、処女性の象徴でもあるアルテミスを思わせました。で、昔、澁澤龍彦が、処女と娼婦の共通点は子供を生まないことである、と書いてたことも思い出し、妙に納得したりして。

ヤマ(管理人)
 それで言えば、子供持たない宣言のTAOさんの場合、どっちのセンなんですかね〜(笑)。

(TAOさん)
 それはまあご想像におまかせすることにして(笑)、私は、ヒロインが自らの責任と意志で自己の尊厳を回復するための決断を下すところにトリアーの飛躍的な成長を感じたんですけどね。

ヤマ(管理人)
 なるほどね。それも興味深い御見解ですね。彼の作品では、命を捧げるという献身が、別面で“生の苦からの解放”とも言えるような状況で描かれてましたよね。グレースの「絶望によって死には向かわない強さ」を認めても、あの選択のありようを率直に成長と言えるかどうかは疑問ですが、主人公の死によってクライマックスを迎えていた物語の作り手という点では、確かにトリアーが飛躍的に成長したという観方ができるように思いますね。毒の強烈さにおいても飛躍的に成長してますけど(笑)。

(TAOさん)
 グレースの選択のありようは私も疑問ですが、「逃げない」ということと、自分で蒔いた種は自分で刈り取るというところを認めたいんですね。

ヤマ(管理人)
 この点では異論なしです、僕も。

(TAOさん)
 いずれにせよ、トリアーの挑発的なところと、自傷的なヒロイン像は表裏一体のようです。みずからの傲岸さに対する無意識の罪悪感の現れでしょうか。そういう意味でも、今回は自己統括が済んだんだな、と(笑)。

ヤマ(管理人)
 そんなに殊勝そうには見えないんですけどね、あやつ(笑)。



-------「主人公の脳髄の内部で、あやつられる人間たちの暗黒世界」について-------

(TAOさん)
 ところで、森岡教授の「いわば主人公の脳髄の内部で、チェスの駒のようにあやつられる人間たちの暗黒世界」という表現は、なるほどですねー。「あやつられる」というのはそぐわない気がしますが、「主人公の脳髄の内部」という前半部分は同意します。寛容と受容性で臨みたいグレースの意識はトムに、自分では認めたくない暗黒部分は他の住人たち、とりわけ力で他人を支配しようとする男性に、投影されているとすれば、ドッグヴィル全体が彼女の心の縮図とも言えるんじゃないでしょうか。暴力反対の母親と、お尻をぶってもらいたがる息子も含めて。

ヤマ(管理人)
 先の書き込みで不充分なところがありました(詫)。引用「 」で済ませたので書き抜かったのですが、森岡氏がここで「主人公」と記していたのは、グレースではなく、トムのことなんですよ。

(TAOさん)
 ありゃーそうだったんですか。どおりで。へんだと思いました(苦笑)。

ヤマ(管理人)
 グレースだと、ちょっと違和感ありでしょ? トムのことだから「あやつる」という言葉が出てきたりもするわけです。自分の見解とは合わないというのも、その両者においてってことで、TAOさんがご指摘されたように「自傷性」をグレースに読み取ると、僕が合わないとしていた自傷性について、むしろ納得できるものをお示しいただいたような気がしましたよ(感謝)。
 ドッグヴィル全体が彼女の心の縮図とも言えるとのご指摘は、森岡氏の提示した第三者よりも、遥かに説得力あり!の第三の「視線の主」ですね。「あやつる」ではなく「投影(付言すれば、反映も加えて)」とすることで、さらに納得の得られる構図が浮かび上がってきているように思います。
 「暴力反対の母親と、お尻をぶってもらいたがる息子も含めて」というふうに考え合わせれば、ますます、いいなぁ、グレース脳髄説(笑)!

(TAOさん)
 そうですか(笑)瓢箪から駒でしたかね。

ヤマ(管理人)
 ええ、とても刺激的で面白くイメージが触発されましたよ(感謝)。

(TAOさん)
 この説でいうと、トムはむしろグレースとドッグヴィルのインターフェイスの役割を担ってますよね。

ヤマ(管理人)
 ですね。そして、トムよりグレースの世界の反映と観るほうが、作品の構図においても登場人物の人物像の必然性においても、だんぜん据わりがいいですね。もちろん解釈的に絶対的なものではなく、基本的には彼女の体験が描かれたドラマなんですが、こういう読み取り方も加えてみると、面白いし、つられて浮かんでくるものが豊かになってオトクだということなんですけどね。

(TAOさん)
 ヤマさんの推薦テクストのリンクと同じで、読み取る視点が増えれば増えるほど、楽しめておトクなんですよねー。

ヤマ(管理人)
 そうそう、そうなんです。

(TAOさん)
 逆に言うと、視点がひとつに収斂しない映画のほうが、少なくとも語るには面白いですねえ。

ヤマ(管理人)
 その愉しさの前には、正誤の競り合いなんてバカみたいですよね。

(TAOさん)
 で、彼女が監督自身の投影でもあるという私の説をとると、神の視点ではなく、作り手の視点を感じたヤマさんと同じ結果になりますね。

ヤマ(管理人)
 あ、なるほどね。そう還ってきますね。でもなぁ、グレースの味わった虐待とか、元々は寛容と受容で臨んだとか、たとえ、それに自傷性の彩りを添えたにしても、トリアーのキャラにはそぐわないような気がしてなりませんが(苦笑)。

(TAOさん)
 いえいえ、グレースは裏トリアーですから、そぐわなければそぐわないほど、トリアーの存在を補償しているというわけです(笑)。

ヤマ(管理人)
 なるほど、補償か。じゃあ、トリアーはアメリカに己が姿を見ているって訳ですね。それもあるかな〜(ちょび混乱)。あやつ、それほど大きいかなぁって(苦笑)。

(TAOさん)
 私もかなり混乱してきました(笑)。

ヤマ(管理人)
 あはは。

(TAOさん)
 でも、大きさはともかく、深さだけは認めてあげたいです、私(笑)。

ヤマ(管理人)
 ええ、ええ、同感ですね。

(TAOさん)
 少なくともアメリカ的なるものを一方的に批判してるって風ではなさそうでしょ?

ヤマ(管理人)
 僕は日誌にも綴ったように、けっこう容赦なく批判していると思っていたのですが、グレースの反撃自体に容赦なさを浮き立たせても、決して故なしとはせず、ある種、颯爽とさせている点をどう観るかってことですよね。

(TAOさん)
 そうですそうです。

ヤマ(管理人)
 ただ僕は、ヨーロッパとアメリカを世代間で繋ぐ視点というのを窺って、確かにアメリカはヨーロッパを脱出していった者が建国したとこだから、元を質せば同根ってとこに思いが及ぶようになりましたよ。

(TAOさん)
 グレースの反撃を、ある種、颯爽とさせている点をどう観るかに加えて、この点を考え合わせると、やはりアメリカ的なるものを一方的に批判してるのではなさそうですよ。ヨーロッパとアメリカは、まさに同じ穴の狢ですよねえ。だから、ジェームズ・カーンは権力を血の繋がった者に渡したいわけで、娘の認識の甘さを厳しく指摘しつつも、「お前も知りすぎたようだな」といたわりさえ示しますよね。

ヤマ(管理人)
 親子間に欧と米を観ると、こうなるんですよね。その文脈で観るならば、そこには、ある種の了承もってことになるのかもしれませんね。でも、欧でも米でもないアジアの我々と異なって、トリアーに欧米を併せて対象化するような視線があるのかどうか、そこんとこがイマイチ疑問ではありますね。
 この作品がアメリカ側の挑発に応える形で企画されたらしいとの話を聞くに及んで尚更のことに(笑)。

(TAOさん)
 ただ、トリアーには、やっぱりアメリカやヨーロッパだけでなく、どんな国にもどんな人にも、権力を持ってしまった者には起こりうることだという認識はあるんじゃないですかねえ。

ヤマ(管理人)
 これは確かにありそうですね。少なくとも強靱であることへのシニカルな眼差しはあって、そこにいかほどのアメリカ投影をしているのかは、受け手側で斟酌すれば足りるってことではないでしょうかね。

(TAOさん)
 現在のアメリカがたまたま権力の頂点にあるというだけで。

ヤマ(管理人)
 ええ。これはミスティック・リバーでも感じたことでしたが、欧のトリアーであれ、米のイーストウッドであれ、亜の我々であれ、出自の地のいかんに拠らず、見て取れるところですよね。

(TAOさん)
 それと、分を超えた欲望は、人を堕落させるってことですよね。ドッグヴィルの人たちは自分たちだけで慎ましく暮らしているときは善人に見えたのに、グレースが現れて、労働力を提供しはじめたとたん、あれも、これもと欲望を剥き出しにしはじめた。

ヤマ(管理人)
 僕は、ここでは「分を超えた欲望」というよりも、日誌に綴った「日常化から生じる馴れや増長」のほうが印象深く、顕著な欲望社会としてのアメリカということよりも、もっと人間に普遍的な属性のほうを強く感じましたね。

(TAOさん)
 グレースの標榜する受容性と寛容性だって、分を超えた欲望だったからこそ、知らなくていいことを知ってしまう事態を引き起こしたとも言えそう。

ヤマ(管理人)
 これについては、同感ですね〜。もっとも、人の身の分を超えていたという結果に終わるのは、グレースの受けた虐待の程が、彼女の負っていた弱み故に、村人の馴れや増長を些かも牽制することなく、度を超したものになってしまったからでもありますけどね。

(TAOさん)
 ん? となると、分を超えた欲望に振り回されなかったのは、すでに権力を握っていたパパだけ?

ヤマ(管理人)
 あは。そういう観方もできなくはありませんね。ヨーロッパの達観ですかね(笑)。

(TAOさん)
 いや、彼にしても自分の得た権力を我が子に継がせようとするから、いろいろ苦労するわけですよね。

ヤマ(管理人)
 それはそうですね。欲望というよりも執着って感じですけど。なんか帝王学みたいな匂いがしてましたね(笑)。それが我慢ならなくてグレースは逃亡したんだろうな〜。パパは傲慢よ!って(笑)。でも、その覚悟の程は、あの虐待にスポイルされていかなかったのですから、見上げたもんで単なる御嬢様の家出レベルではありませんね(笑)。

(TAOさん)
 だからやっぱり帝王学なんですよ(笑)。

ヤマ(管理人)
 そーか、鍛えられたのか(笑)。

(TAOさん)
 昔、マンガや冒険小説などでよくありましたが、毒殺に備えて、ふだんから毒を薄めて飲んでおくというあれですかねー。

ヤマ(管理人)
 薄めて飲んだと言うよりは、一気飲みに近かったようにも(笑)。

(TAOさん)
 あ、言葉が足りませんでしたね。英才教育というべきか。グレースパパはあのとおりの性格なので、ロード・トゥ・パーディションのトム・ハンクスとちがって、ギャングとしての手の内を娘にバンバン見せてたんじゃないかと。

ヤマ(管理人)
 そうか、そうか。村での体験ということではなく、父親の元を逃げ出す前ってことか。なるほど。そういう意味では幼い頃から毒に親しんできてたんでしょうね。むしろ逃げ出すほどの反発を覚えるくらい毒に接していたってことですよね。

(TAOさん)
 だから、グレースにはとっくに悪の抗体ができてるというわけです(笑)。

ヤマ(管理人)
 なんだか、そのことに向き合いたくなくて逃げ出したという観方もできるような気がしてきました。

(TAOさん)
 ああ、それにしても、人は欲望から逃れられない!ってわけだあ。

ヤマ(管理人)
 僕は、欲望の側面よりも“プライド”みたいなものが、テーマ的には強く窺われたものでしたが、確かに欲望についても、特に、村の男達が次第に無遠慮にグレースに向けていく性欲に顕著な形で容赦なく炙り出されていましたね。
 でも、トリアー自身は、どの程度に意図してたんでしょうね。そこんとこの受け取りようでも、一方的に批判していたわけではない視線というのが検討できそうに思いますね。



-------教会の持っていた意味-------

(TAOさん)
 ヤマさんが「神と出会う場としての教会という意識は、不思議なほどに僕のなかでは希薄でした。」とおっしゃっていた教会は、たしか、字幕では「教会」ではなく、別の言葉に訳されてました。「説教所」だったかな。

ヤマ(管理人)
 そうでしたか。原語が気になるとこですね。何だったんだろう?

(TAOさん)
 えーと調べました。“HOUSE OF JEREMIAH”です。あいにく私は不案内ですが、予言者エレミアにどんな含みがあるか、わかりますか?

ヤマ(管理人)
 あ、素早くどうも(礼)。エレミアですか、僕も不案内だしなー(とほ)。思いつきません。いずれにしても、ストレートに教会ではないことが判明して、僕としては大いに満足です。ありがとうございました。

(TAOさん)
 ともかくも、この村に宗教はないのですよ。人間の心の深いところから要請される宗教ではなく、半端な作家が頭で考えた理想主義の倫理しかない。

ヤマ(管理人)
 はい、はい、同感ですね。宗教的な魂の深遠さのない思考だから、トム君の欺瞞性は、後に無惨に露呈しちゃうワケですよね。

(TAOさん)
 グレースにしたって、頭でっかちな理想しかもってなかった。

ヤマ(管理人)
 ここんとこのしっぺ返しが容赦ないんですよね。

(TAOさん)
 たぶんこれも一面ではアメリカの風刺なんでしょうね。

ヤマ(管理人)
 アメリカに留まらない広がりを現代において果たしているように思いますし、むしろ今や人間に普遍的とさえ言えるとこまできているようにも思いますが、むろんアメリカを含めることはできますね。

(TAOさん)
 返す刀で、「ヨーロッパは、偽善はないけれども年老いてしまって、アメリカに権力を譲り渡すしかない存在だ」と言ってるような。ジェームズ・カーンの存在感、とてもよかったですねえ。

ヤマ(管理人)
 偽善はないとするのは、その相対性を前提にするとしても僕には与しにくい視座ですが、トムやグレースの親と子の対比にヨーロッパとアメリカを見て取るのは、ちょっと面白いですね。

(TAOさん)
 あ、失礼しました。「偽善はない」というのは、あくまでアメリカ的偽善という意味です。ポリティカルコレクトネスというか。

ヤマ(管理人)
 なるほど、なるほど。それなら了解です。

(TAOさん)
 面白がっていただいた“パパからグレースへの世代交代”には、ヨーロッパ→アメリカだけでなく、父性主義から母性主義への変換が加わっているとも読めますね。そして、母性のほうが残酷な一面があるのだ、というような(笑)。

ヤマ(管理人)
 なるほど。近頃は鬼母ばやりだしなー(苦笑)。

(TAOさん)
 これは、昔、筒井康隆が『七瀬再び』だったかでちらりと書いていたような気がします。

ヤマ(管理人)
 むかし読んだ覚えのある作品ですが、ほとんど失念してます(とほ)。

(TAOさん)
 宇宙を支配する神が女神に変わって、世の中が万事女性原理で動くようになったと。私は、てっきりグレース親子は神様だと思っていたので、そんなことを連想したのでした。

ヤマ(管理人)
 トリアーの系譜からすれば、そう観るのが妥当なのかもしれませんね。キリストとは異なる選択をする神の子がグレースって。十字架じゃないけど、重い轍輪を引き摺ってましたし、ね。

(TAOさん)
 あ、そうかー。私は一神教のセンスがなくて、神というとついギリシャ・ローマや北欧の神々を想像してしまうもので、それはちっとも気がつきませんでした。

ヤマ(管理人)
 人間の原罪どころか轍輪に罪深き子供たち人間そのものを乗せて引き摺って歩いていた姿には、キリストとかなりカブるものありますよね。だからこそ、最後のしっぺ返しが効くんですけど。

(TAOさん)
 たしかに。その文脈で反芻すると、今さらながら怖さが増しますね。

ヤマ(管理人)
 まぁでも、本来、日本的やおよろずの神々文化からすれば、ギリシャ・ローマや北欧の神々のほうが感覚的には近いですよね。そもそも僕は、この作品に宗教性や神よりも、トリアー自身のまなざしをあまりにも顕著に感じてしまって、拙日誌にも綴ってあるように、そんなふうには受け取らなかったんですよね。アメリカ三部作として撮り上げたということへの意識が過度に働いていたのかもしれませんが。

(TAOさん)
 そうだ、エレミア、わかりましたよー。新バビロニアによって滅ぼされたイェルサレムの荒廃を嘆き、不信心者に正しい信仰の道へ立ち返るように勧めた人なんです。

ヤマ(管理人)
 あ、これは何か聞いたことがあるような話の気がしてきたけど、その名前がエレミアっていうんですか。

(TAOさん)
 なるほど、でしょ?

ヤマ(管理人)
 トムが村人をそこに集めたがるワケだ(納得)。

(TAOさん)
 これ、ワード検索でわかったんですが、「予言者エレミア」で検索したら、いきなりこの掲示板が出てきて、なんだかウロボロスみたいだねえ、と苦笑しました。

ヤマ(管理人)
 こういうのって、ほんとネット時代の恩恵ですよね〜。

(TAOさん)
 こうして考え合わせてみると、母性のほうが残酷な一面があるのだ、と言うようになっていることも含めて、やっぱりいろんな面でたくましくなってますよ、トリアーは。

ヤマ(管理人)
 今までだって虚弱とは言えないでしょうに(笑)。

(TAOさん)
 あれ、そうですかー?(笑) 私のイメージするトリアーは常に虚弱なんですよ。一見、尊大そうだけど、ほんとは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のデヴィッド・モースみたいに弱いんではないかと。
 で、自傷性のある弱くて強い女に救済されたがってるんですよ。『ヨーロッパ』の少年も、いつも危ないところを女の人によって救われていたでしょう?(笑)
 日本で言うと、『エヴァンゲリオン』の庵野秀明が近いです。彼は、綾波という希有な魅力を持つ自傷癖のあるキャラをつくったし、映画版のときの途轍もないスケールには感銘を受けました。

ヤマ(管理人)
 『エヴァンゲリオン』も未見なんですが、それはともかく、男の性根を見抜く力量は、惚れた弱みに曇らされぬ限り、女性は同性たる男の及ぶところではありませんから、きっとTAOさんのほうが的を射ているんでしょうな(笑)。もっとも、男が虚弱なのはトリアーに限った話じゃないんですけどね(苦笑)。



-------メル・ギブソンの『パッション』、ギャロの『ブラウン・バニー』-------

(TAOさん)
 ヤマさんのおかげで、『ドッグヴィル』反芻欲が収まってきましたよ(笑)。

ヤマ(管理人)
 ガス抜き出来ましたか(笑)。よございました〜。

(TAOさん)
 そうそう、自傷性のある意味での究極のシンボルは、磔にされたキリストではないかと思うんですが、メル・ギブソン監督の『パッション』も賛否両論を浴びそうですよ。今のところ、賛はあまり聞きませんが。

ヤマ(管理人)
 パッションは、凄く気になってる作品です、僕も。キリストもの、けっこう好きなんですよね(笑)。スコセッシの『最後の誘惑』も面白く観ましたし。

(TAOさん)
 どうしてここまで、と気持ちが悪くなるほど血みどろなんだそうです。でも、グレースが引き摺っていた重い轍輪は十字架かもという話から『パッション』が血みどろになるはずだわ(ためいき)と思いました。

ヤマ(管理人)
 おおー、ますます観たいぞ、『パッション』!(笑) スプラッターは好みじゃないんですけどね、僕(苦笑)。

(TAOさん)
 ちょっと覚悟したほうがよさそうですよ(笑)。メル・ギブソンは、何度も死にたくなるたびに、十字架のキリストを思い浮かべることでかろうじて生きてきたんだそうです。だから、本人にとっては必然のようですけどねえ。

ヤマ(管理人)
 へぇ〜、そうなんですか。

(TAOさん)
 メル・ギブソンって、若い頃から目が尋常じゃなかったでしょう?

ヤマ(管理人)
 色の透明度がやけに高い気がするんですけどね(笑)。

(TAOさん)
 私はそこがとても好きだったのですが、『マッドマックス』『リーサルウエポン』の主人公の死への衝動って、演技を超えて、本人の資質だったのかもしれないし、だからこそ、ハムレットもバッチリ似合っていたんだなあと、改めて反芻してるところです。

ヤマ(管理人)
 ほぅ、そうなのか〜。確かにちと危ないなー、アクション系は(笑)。あ、でもハムレットのほうは観てないなー。

(TAOさん)
 ああ見えて、メル・ギブソンは自傷性の強い人らしいのです。『ブレイブ・ハート』もその文脈で見直したほうがいいのかも。

ヤマ(管理人)
 ほほぅ、なるほどね。興味深い話ですね。

(TAOさん)
 『パッション』も見届けなければ、と思っているところです。

ヤマ(管理人)
 こちらでも上映されるといいのですが…。

(TAOさん)
 それはそうと、ニコール・キッドマンは、撮影中6時間もぶっ続けで、首に鎖をつけられてたんですって。それでもうトリアーはごめん、なんだそうです(笑)。

ヤマ(管理人)
 この点では、杉本彩が勝っているようですな(笑)。

(TAOさん)
 ニコールに限らず全員がもうごめんだと言ってるらしいですが、ひとりだけ例外なのが、マゾだと噂のクロエ・セヴィニーだとか(笑)。

ヤマ(管理人)
 そうなんですか。実は一昨日、ギャロの『ブラウン・バニー』を観たのですが、これがもうイライラするような映画で、辟易気味でしたけど、彼女の根性には、杉本彩ばりの見上げたものを感じてました(笑)。

(TAOさん)
 ひゃあー、『ブラウン・バニー』を見ましたか。ギャロ好きの私でさえ、どうもいやな予感がして遠慮したのに。勇気ありますねえ、ヤマさん(笑)。

ヤマ(管理人)
 ギャロ好きのTAOさんには申し訳ないんですが、あのナルシスティックで自閉的な幼児性と自作自演で泣きと傷を披瀝しつつ覗かせる自己肯定観に感じる甘え。そして、それらが母性をくすぐり、女性の気を惹くことができるというギャロの自信の誇示がどうにも苛立つのは、もてない男に共通するであろう妬み僻みなんですけどね(苦笑)。

(TAOさん)
 おお、これまたえらく力の入ったギャロ評ですね(笑)。

ヤマ(管理人)
 すんません、でした(苦笑)。ギャロ評に近いかもしれませんが、いちおう『ブラウン・バニー』について書いたつもりでした。バッファロー'66は、許容範囲内だったんですが、『ブラウン・バニー』でまたしても出てきた長い手足を折り込んで胎児ようにベッドで丸くなる姿には正直なところ、うんざりでした(たは)。で、日誌も綴ってません(苦笑)。

(TAOさん)
 ううう、つくづくよかったー、見に行かなくて!(笑)
 ええ、私の許容範囲もきっとヤマさんと同じですよ。

ヤマ(管理人)
 でも、『ブラウン・バニー』では、クロエに感心してましたよ。しかも聞くところによれば、共演ラブにのぼせたギャロを袖にしたとかで、ますます見上げていたんですけどね(笑)。しかし、マゾだという噂があったんですか? ちょっと両者がそぐわない話のような感じがして、却って興味が出てきたなー(笑)。

(TAOさん)
 正確に言うと、二人は以前につきあっていて別れた後も友だちづきあいをしていたんですよ。

ヤマ(管理人)
 そうでしたか。

(TAOさん)
 ギャロが、親密なロケ中にまたクロエを好きになってしまって、別れるときとてもつらい思いをしたんだと、うれしそーに話してたのを雑誌で読みました。

ヤマ(管理人)
 全くイヤな野郎だな〜(笑)。

(TAOさん)
 ギャロもマゾっぽいから、クロエのほうではもういいよと今回は見送ったんじゃないでしょうか(笑)。

ヤマ(管理人)
 つらい思いをしたとの喜びを授けてやっただけのことか、なぁ〜んだ(笑)。

(TAOさん)
 それより気になるのは、ギャロとトリアーの違いですよ。女性に受容性と寛容性を求めるところは同じようにも見えるのに。

ヤマ(管理人)
 なるほど。そこんとこ確かに通じてる部分がありますね。

(TAOさん)
 ほらね、ギャロに比べれば、トリアーがずいぶん大きく見えませんか?(笑)

ヤマ(管理人)
 蟻と比べて蟷螂が大きく見えてもな〜って、どぅ?(笑)
 でも、『ヨーロッパ』にはスケール感を感じましたけどね。

(TAOさん)
 冗談はともかく、ギャロの並外れたオレ様主義には、思わず面白がることはしても、いつまでもあれじゃあ、勝手にしてれば、と放置しちゃいますね。同じ見守るんなら、迷わずトリアーを選ぶでしょう。

ヤマ(管理人)
 これはもう、比較するまでもなく明白ですよ!(笑)

(TAOさん)
 ギャロと同じくらいイヤな奴かもしんないけど(笑)。

ヤマ(管理人)
 一緒に仕事するわけでもないから、別にそれはいいんですよ。要は作品が面白く観応えがあるか否かですもん、ね。



-------トリアーが描こうとしたもの-------
◎掲示板(No.4297 2004/04/04 15:30)から

(Fさん)
 ヤマさん、こんにちわ。
 実はたった今『ドッグヴィル』を見てきたところで。

ヤマ(管理人)
 おぉ〜、それはそれは! よくぞ、Fさんがトリアー作品に足を運ばれました!(笑)
 感想アップが楽しみですが、明日ってことはないでしょうから、次々回ですね。

(Fさん)
 実はですねぇ、僕はトリヤーが大嫌いなんですよ(笑)。

ヤマ(管理人)
 ええ(笑)。アダプテーション拝借の僕の書き込みレスにもこの手の映画は得てして作り手が「どうだ、スゴイ発想だろう?」…とラース・フォン・トリアーみたいに得意げになっている様子が伺えてシラケるものですが、ってな具合に矢庭に登場するくらい、ヤな奴の代名詞状態ですもんね〜(笑)。Fさんにとっては、チャン・イーモウか、トリアーかってなもんで(笑)。
 でも、二人ともFさんが嫌うのも分からなくはないってとこ、確かにありますね。特にトリアーは分かりやすく(苦笑)。キーワードは、「挑発」「これみよがし」ってとこですが、どうでしょう?(笑)

(Fさん)
 今回も地べたに線なんか引きやがって…とか、いろいろ苛立たせてもらいました(笑)。

ヤマ(管理人)
 実は僕も今回のトリアー作品には体質的な挑発性を強く感じたんですよね。日誌には「かもしれない」なんて糖衣でくるんでますが(笑)。でも、嫌いかって言えば、そうでもなかったりするのは、最初の出会いが『ヨーロッパ』という作品だったからかもしれません。
 奇跡の海にはちょっと引っ掛かりを覚える部分もありましたが、基本的には支持している作品です。『エピデミック』にはこれといった印象がなく、なんかなぁ〜って感じで、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』にはカメラ酔いしちゃって、ひたすら気持ちが悪くなってて、いいも悪いもありませんでした(苦笑)。

(Fさん)
 だけど、シャクにさわりますが、今回ばかりはやられたか…と思ってしまいましたね。

ヤマ(管理人)
 お、チャン・イーモウの至福のとき状態ですか? ひょっとして(笑)

(Fさん)
 うまく言えないんですが、あの村落の人々の傲慢ってだけなら凡庸な作品だと言いきりたいんですよ。だけど、あの映画はあの後がありますね。ジェームズ・カーンは大好きな俳優ですが、やっぱり今回も分かってました、彼は(笑)。キッドマンに一言。「オマエが一番傲慢だ!」 僕は自分が言われたかと思いましたよ(笑)。ここがこの映画の最もすぐれたところだと思います。

ヤマ(管理人)
 ですよねー。何らかの訳知り顔をしているって部分は誰にだってあるものですから、僕もそうですし、誰しもズキって来ちゃいますよね。誰しもにそう思い当たらせといて、誰しもが選べはしないだろう選択をグレースに容赦ない形でさせるとこが凄いですよね。僕もここんとこが最もすぐれたところだと思ってます。

(Fさん)
 しかし、それでもトリヤーだけは櫓の上で高みの見物かい…と言いたくなったんですけど、

ヤマ(管理人)
 ええ。拙日誌にもまさしくこれと同じことを綴ったんですが、僕もここんとこには挑発されて反発を覚えましたね(苦笑)。

(Fさん)
 実は今回はよくよく考えると、トリヤー自身も何らかのターゲットに置いてませんかね? あのポール・ベタニーのキャラは象徴的ではないか…と思ったりもしてるんですけど。

ヤマ(管理人)
 トムがトリアーですか? 露骨に作り手がお見通しの視線を露わにしていると感じてた僕には、こういう想起自体が視野にありませんでしたが、TAOさんは、グレースにトリアーの投影を観たとおっしゃってましたし、僕も作り手が容赦なく前に出てきている感じを受け取ったという点では、Fさんがおっしゃるように今回、トリアーは、自身をターゲットの位置に置いているのかもしれませんね。
 そういう受け取り方では僕は観てなかったのですが、そこらへんのところがTAOさんに“トリアーの成長”と言わしめているのかも(笑)。なるほどなー、登場人物への自己投影による人間化ってことですよね?(笑)
 で、もし、Fさんがおっしゃるように、それがよりによって偽善の墓穴を露わにするトムへの投影だったら、これはちょいと凄いターゲットの付け方ですよね。トリアーってそんなに殊勝そうには思えないですけどね、僕にはってTAOさんにも同じようなこと言った気が(たは)。

(Fさん)
 ハリウッド・スター大好き男…というわけで、予想に反して感想文をアップしちゃって、そこで大概の事は言っちゃってるんですけど(笑)。

ヤマ(管理人)
 さすがの速筆!たいしたものです。しかもディープなところに分け入ってて、なるほどなーって読み進めて行くだけには留まらせないものが書き込まれてましたね(感服)。

(Fさん)
 トリアーは結構アメリカ好きじゃないか・・・と。

ヤマ(管理人)
 Fさん未見の『ヨーロッパ』も確か主人公はアメリカ帰りの男で、欧と米のどっちにも居場所なき不安に苛まれている男だったように思います。

(Fさん)
 そのアメリカ好きの恥ずかしさを覆い隠そうと、いろいろ姑息な手段を往生際悪く弄しているのではないかと(笑)。ハリウッド・スター使いたがるし(笑)。

ヤマ(管理人)
 このツッコミ方がFさんらしい手厳しさですね(笑)。どうなんでしょ?(笑)

(Fさん)
 ところでベタニー=トリアー説にはもう一つ思うところがありまして…(笑)。トリアーはキッドマンの大ファンだったのでは…と。で、ベタニーがヒロインに迫ったようにネチっこくはなかったでしょうが、そういうしょうもない気持ちはあった。そのあたりの自虐が映画に出ちゃってるのでは…と(笑)。うがち過ぎですかねぇ(笑)。

ヤマ(管理人)
 どうなんでしょ?(笑) 元々のオファーはニコ側からあったようですけど。
 でも、Fさんがお書きになっていたように今が旬のオーラ発散中のニコを前にして魅せられない男はいないでしょうけどね(笑)。まぁ、トリアーってことより、むしろFさんがキッドマンの大ファンなのでは…と(笑)。
 で、ベタニー=トリアー説ですが、僕は、やっぱりトリアーはそんな殊勝な奴じゃないと思ってるんだけれども(あれだけ挑発的体質を露わにして堂々と逆撫でしてくるんですし)、Fさんの描出によるトム(ベタニー)のトリアーっぽさの抽出と三部作をものしようとしていた作家であることに根拠づけた仮説の説得力には、今いち納得しきれないながらも、殆ど説得されてましたよ(笑)。今後のトリアー作品を観るうえで、彼の自画像探しは、僕の重要な着眼点になりそうです。

(Fさん)
 このへんでラースくんの話題も出涸らしっぽいですが、『ドッグヴィル』がちょっとエキサイティングだったんで、もうちょいだけ今回限り深追いしてみますが…。

ヤマ(管理人)
 どうぞ、どうぞ(歓迎)。トリアー=ベタニー説、「FILM PLANET」のYoshiさんも取っておいででしたよ。加えてもう一つ上から見ているトリアーもいると、二段構えで捉えておいででしたが。

(Fさん)
 そのトリアー=ベタニー説ですが、あいつ確かに謙虚じゃない(笑)。でも、大概は気の小さい奴とかセコい奴、ショボい奴ほど虚勢を張りたがるものじゃないですか(笑)。

ヤマ(管理人)
 確かに(笑)。

(Fさん)
 だとしたら、ラースも実は小心者では…と(笑)。で、意外に凡庸でミーハーなボンクラだと(笑)。

ヤマ(管理人)
 一気に来ましたねー(笑)。虚勢かもしれないし、尊大かもしれないけど、やっぱり僕は凡庸なボンクラとまでは思えないんですがね(苦笑)。好感は持ちにくいけど、たいしたもんだとは思いますよ。

(Fさん)
 『奇跡の海』でエルトン・ジョンにプロコル・ハルム、今回がデビッド・ボウイーってベストヒット集みたいな選曲からして、あいつは音楽にこだわりもセンスもない単なる中学生のままみたいなミーハーだと思うんです(笑)。

ヤマ(管理人)
 『奇跡の海』でのエルトン・ジョンにプロコル・ハルム、けっこう僕は喜んでたんですよ、実は(笑)。だって、やっぱりいい曲ですもん。

(Fさん)
 で、何でベタニーかと言いますと、もう一つ思うところあって、ベタニーが何かにつけてキッドマンを助けると称して、ああしろこうしろと指図しますよね。それも理屈こねて。

ヤマ(管理人)
 指図といえば、指図ですし、理屈もこねてましたが、それは言い訳めいた理屈という感じではなかったように思いますよ。あの時点ではトム(ベタニー)自身も、決してほくそえみながらではなく、マジによかれと思って、だったように僕は観てるんですけどねぇ。だからこそ、後に馬脚をあらわしてくるところに深みがある気もしてます。ハナからあったものが露見してバレタみたいなもんじゃなくて、底に眠っていたはずのものがあらわになったと観るほうが僕の好みですね。

(Fさん)
 ベタニーの理屈こねた指図って『ドッグヴィル』の現場でのラースとキッドマンの関係に似ているような気がしたいんですよ。ベタニーはいわば「指導」や「演出」をしているんですね。

ヤマ(管理人)
 なるほど。これはそうだったように思いますね。トムって「導きたがり」でしたから(笑)。
 潜在的には、それも支配欲ということにはなるのかもしれませんが、そこには、やっぱり違いがあって、もし支配欲そのものに根ざしていれば、父親との関係からして、そういうものにはきっと敏感であったはずのグレース(キッドマン)が、直感的に反発を覚えたろうという気がします。

(Fさん)
 そうなってみると、あの地べたセットも分からないでもない。ちゃんとしたロケやセットだと物語の世界に没入しちゃう。でも、あの地べたセットでは映画はどこまでも撮影現場のドキュメントと化しますよね。

ヤマ(管理人)
 あ、これはちょっと新鮮な観方ですね。確かに「撮影」現場を意識させるような効果はありました。でもって監督と女優の関係模様を観客に見せつけようとしたってわけですか? それなら、映画の作り手としてのトリアーの観客に対する態度は、猛烈に悪趣味だってことになりますね(苦笑)。

(Fさん)
 何となくそういう意図もあったんじゃないかと思うんですよ。まぁ、妄想なんですけどね(笑)。

ヤマ(管理人)
 うーん、これは流石にないでしょうよ。そこまで生々しく自分の悪趣味を晒し伝えようとする意図というのが、今ひとつ僕にはイメージできませんもの。

(Fさん)
 あれで終わろうと思ってたんですが(笑)。レスが問いかけで終わっていたので、最後に付け加えを。もうすでに墓穴を掘っている気がしますが、モノはついでで。

ヤマ(管理人)
 ついでの餅に粉はいらん、と言いますし(笑)。まぁ、そうおっしゃらずに(笑)。
 久しぶりの長レス交換でいろいろ触発されてます(礼)。

(Fさん)
 凡庸なボンクラというのは凡庸な映画作家という訳でなくて、言ってみれば鬼才、異能、変人ぶりばかりが露出してますが、意外にフツー人の部分があるんじゃないかという事ですね。エルトンとかは僕も好きですし(笑)。

ヤマ(管理人)
 そういうことなら、大いに了解できますね。そもそも、どんな鬼才、異能、変人とても100%フツー人と懸け離れているということはないとしたものですし、自称であれ、他称であれ、フツー人と称されるどんな人にも個性的というか、ヘンなところがあるのが人間ですからね。
 ただ得てして特別視しがちな存在に対してフツーの部分を認め、遠くへ排斥しない「愛情」は大切なことだろうと思います。そういえば、キューブリックについても、神棚問題を懸念しておいででしたものね、Fさんは。そのセンでの、凡庸ってことなんですね、ボンクラっていうより。

(Fさん)
 でも、ラースくんが意外にフツー人の部分があって、エルトンとかが好きってのは、ちょいとイメージ狂うかと。もっとおどろおどろしいプログレとかだったらピッタリ(笑)。

ヤマ(管理人)
 前衛を持ち出しても現代音楽ではなく、ロックってのが似合っている若々しさですか、なるほど(笑)。それに今の時代から観るとプログレってレトロな前衛って感じだから、よけいにラースの画調にも似合ってると?(笑)

(Fさん)
 そんなこんなも含めて、ビビってあまり過度に鬼才扱いをするような人じゃないんじゃないかと僕は初めて思ったわけです。それゆえの“ラースくん”でして(笑)。

ヤマ(管理人)
 了解です。

(Fさん)
 単に余人には理解できないすごく変な奴って訳でもない、結構ボンクラな人的部分も持っている奴ではないかと。ジェームズ・カーン=ギャングって使い方も結構マトモだし。

ヤマ(管理人)
 そうですね。実は今回ここがイチバンFさんにフィットしたのかもね(笑)。
 でも、Fさんがアップされた感想のなかで一見奇抜で過激に見える作品が、実は意外なまでにオーソドックスな作りであることのご指摘は、非常に示唆に富む鋭いものだと思いました。

(Fさん)
 僕もベタニーはマジで良かれと思っていて、それで愚かにもドツボにハマってくと描かれてる…と、感じてはいます。で、ラースくんも良かれと思ってやってるのに、なぜか現場は大混乱と(笑)。

ヤマ(管理人)
 わはは。これイイ、おかしい(笑)。

(Fさん)
 だから悪意はあるけれど、100パーセント悪意の人とは思えなくなってきたかな…と感じてきたんですね。そして、その悪意の部分も結構身構えた虚勢があるし(笑)。それで今回の作品が気に入ったのかもしれません。まぁ、こいつなら理解できなくもないかと(笑)。うまく言えないんで、誤解を招くところかもしれませんが。

ヤマ(管理人)
 まぁ、人間、純度100%なんてこと、まずないとしたもんですから、ゼロ・フルなり、オール・オア・ナシング、で観たら振幅大き過ぎで、手ぶれカメラ並みに悪酔いしちゃいそうですが(笑)、そういうこと以上に、心情的にとりつく島がないって状態の自分の心境に光明が射してきたような、「理解・共感」まではいかなくとも、「とりつける」とこが見いだせた感じというのは、いいもんですよね。

(Fさん)
 支配欲というものも誰もが潜在的に持っていますよね。

ヤマ(管理人)
 ええ。

(Fさん)
 元々はそんなつもりではないのでしょうが、結果として人間は他者を支配する方向に動いてしまうという暗喩とでも申しましょうか。

ヤマ(管理人)
 ここんとこに係る普遍的な「人間の属性」の炙り出しが容赦なく見事でしたね。

(Fさん)
 最初はキッドマンも「ここの人たちは違う」と思っていたけど、やっぱりなって事で。敏感なはずの彼女も最初は気づかない。この話は長くなるんですが。

ヤマ(管理人)
 彼女が気づけないのはなぜかってことをどう受け取るかによって、かなりこの作品の観方も異なってくるのでしょうね、たぶん。

(Fさん)
 監督と女優の関係をあそこで見せつけるという気まであったかどうかは分かりませんが、無意識にそうなった可能性はあるかと思います。ま、そのためにやった…という事はないでしょうね。

ヤマ(管理人)
 ですよね(笑)。

(Fさん)
 それよりもラースくんは、ドラマを構築する気もあったかもしれないが、そのためには俳優を似たような極限に追い込み、それをドキュメント的に記録していけば迫真のドラマが描けるのでは…と思っていたフシがあるかと思います。

ヤマ(管理人)
 ええ、これには大いに賛同ですね〜。いかにもラース風って感じですし(笑)。

(Fさん)
 あの地べたセットには何か理由があるはずだと思いますから。

ヤマ(管理人)
 ええ、元々は思いつき・ひらめきから始まっても、それを採用する段になって、理由も意図もないってことはないでしょうし、この作品の場合は、ノリでってな軽い理由以上に意図的なものを織り込むに至った様子が偲ばれましたよね。

(Fさん)
 あるいは、人間の業のようなモノを本気で描こうとする時に、自分を素通りして描くべくもないと気づいていたはずで、そうなるとどこか自画像を描いてしまう事になってしまうかも。

ヤマ(管理人)
 これは、ラースに限らぬ一般論としてFさんの信条なのでしょうね。確かに一般的にそういうものだろうし、だからこそ了解できるわけで、ラースが反発されがちなのは、己を棚上げにして高みから観ている視線というものを否応なく感じさせるからでしょうし、ね。

(Fさん)
 自画像を描くことによって人間の業を描こうとしたゆえの現場ドキュメント・ドラマではないか。

ヤマ(管理人)
 自らをも引っ張り込み投影する仕掛けでもあったというわけですか。なるほどねー。

(Fさん)
 同時進行で、セット内に懺悔室を設けて俳優のグチを撮影し、そこでラースくんの悪口とかがバシバシ出てくるのを、後でメイキングとして発表させてるあたりもそんな気がします。

ヤマ(管理人)
 ますますもって挑発的なんだなー(感心)。

(Fさん)
 ラース自身がやっていなかったにしても、それをやらせてるってところからしてそうではないか。これは未見なので何とも言えませんが。まぁ、このへんはそれぞれ見解が分かれるところでしょう。

ヤマ(管理人)
 ですね。

(Fさん)
 でも、結構この作品の核心部分ではないかと思ってます。

ヤマ(管理人)
 ええ、その見解の違いによって、作品及び作り手の見え方が随分と異なって来るという点で、核心部分ではありますね。でも、核心部分への見解だからといって、正解不正解があるものではないので、むしろ見解の違いの生じ方が興味深く思えてきますね。

(Fさん)
 ヤマさんのようには簡潔な言葉でうまく言えないので、誤解と舌足らずがどんどん増していく気がするので、このへんで(笑)。ちゃんと語れてるかどうか心もとないですが(汗)。

ヤマ(管理人)
 いえいえ。前便での僕にとっての腑に落ちなさみたいなものが、随分と解消されました。ありがとうございました。

(Fさん)
 僕はそんなラースくんが、だからここで悪趣味の露悪趣味をやっているとも思ってないんですよね。

ヤマ(管理人)
 晒しているのは、悪趣味ではなく凡庸なる己自身って受け取りなんですよね。面白いなー。
by ヤマ(編集採録)



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―