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『バッファロー '66』(Buffalo'66) | |||||
監督 ヴィンセント・ギャロ | |||||
淋しい男と淋しい女のボーイ・ミーツ・ガール・ストーリーという映画の定番ともいうべき小品なのだが、思いのほか魅力的で後味の良さが嬉しい。定番ものの純愛劇を、現代的なセンスで思いっきり異化効果を狙って展開させた後、ストンといい気持ちにさせてくれるリズムと呼吸が心憎い作品だったように思う。 ビリー(ヴィンセント・ギャロ)とレイラ(クリスティーナ・リッチ) の親密さの深まり方を観つめていると、フェミニストの顰蹙を買いそうなのだが、男には愛してくれる者の存在が必要で、女には愛せる者の存在が必要なのだなとつくづく思う。 強がりでクレイジーな小心者で、ほとんど性格破綻者に近いビリーの人格の本質は強い幼児性だ。幼児期に満たされるべき愛情体験がほとんど得られなかったために、幼児段階を卒業できないままに大人になっていることが痛々しいほどに伝わってくる。最悪の奴だけれど、どこかにピュアな魂の痛みを感じさせたり、両親にいくら冷たくぞんざいにあしらわれても見限り巣立つことができないのはそれ故なのだろう。一方、レイラのほうは誘拐という最悪の出会いでありながらも、直感的にビリーの傷ついた魂を見抜いている。それは、彼女もまた傷つき孤独な魂を抱えていたからだろう。逃げ出すチャンスがいくらでもありながら、そうはしないレイラの様子には、極めて早い段階でビリーの本質を見抜いたという以上に、現実への執着心のなさのようなものが窺われたように思う。そのことは、二人の関係が進展し得たことにおいて、僕にとっては大きな説得力として作用し"ていた。 それにしてもクリスティーナ・リッチのいかにも鈍重で不器用そうななかに愚直な包容力と豊かな安心を湛えた肢体には、存在感があった。かっこよさや美しさとは縁のない、儚く危うげな優しさが漂っている。おどおどしながらも、ビリーとの関わりのなかでレイラが次第に自信と手応えを得て、母性豊かな女として成長していく過程が切なく嬉しい。“ムーン・チャイルド”というフレーズは、いかにもリッチの風貌肢体のイメージにぴったりで、心憎いばかりである。 ビリーもまた、今まで誰にも認めてもらえなくて欠落していた部分をレイラに埋めてもらい、ほんの少しだけ成長する。後先のことなど、まともに想像したこともなかったであろう男が、銃の引き金をひいた先のことをイメージとして想起するようになっていることを示した場面は、映像的にも演出的にも見事なものだった。 ところで、『ビッグ・リボウスキ』のときにも思ったことだが、ボウリング場っていうのは確かに日本にもあるのだけれど、我々には想像のできない独特の意味と空気を持った、アメリカの生活文化における重要なトポスなんだなと改めて感じさせられた作品でもあった。 | |||||
by ヤマ '99.11.19. 県民文化ホール・グリーン | |||||
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