『ミスティック・リバー』(Mystic River)
監督 クリント・イーストウッド


 不可思議な川との原題には、時と共に流れ行く人の生の不条理を暗示する意図が込められているような気がした。神の選択とでも言うしかない人為を超えた不運に翻弄されつつ、自らの意志と選択で己が生として格闘しながらも敢えなく敗北に至るデイブ(ティム・ロビンス)とジミー(ショーン・ペン)の、肯定も否定も仕切れない生き様が、ある種のやむなさと共に綴られていて、いささか重苦しい気分を余韻として残してくれる作品だった。

 僕は、刑事ショーン(ケビン・ベーコン)がパワーズ刑事(ローレンス・フィッシュバーン)との捜査のなかで、ジミーの娘ケイティ殺害に使用された拳銃から辿った“ただのレイ”に繋がる人物として幼なじみのジミーの名やサベッジ兄弟を捜し当てたとき、彼女の恋人ブレンダンが父親レイ殺害の復讐として、ジミーに最も痛手を与える愛娘殺しを行ったと思った。真っ先に疑われながらも、いかにも犯人らしくない人物像で描かれていたところが常套的でもあったからだが、さすがイーストウッドの作品だけあって、それよりも遥かに含蓄のある、問題提起に富んだ事件の顛末がそのあと展開される。

 この話には四つの殺人が登場する。殺害された順に並べるとレイ・ケイティ・少年愛嗜好の男・デイブとなるのだが、ケイティ殺害以外の殺人には加害者側のやむにやまれぬ思いの発露というものがある。それぞれの妥当性については無論留保しなければならないものがあるのだが、人が感情の生き物である以上、善し悪しは別にしてなくなりようのないものだろう。しかし、ケイティのようなケースだけはなくそうとすればなくせる性質のものだ。銃器が氾濫していて簡単に手が届いてしまう状況をなくせば、起こらなかった殺人であった。ボウリング・フォー・コロンバインでは、アメリカ銃社会における死者多発を引き起こす問題点として、銃器の氾濫以上に恐怖を刷り込む文化の問題が指摘されていて興味深かったが、簡単に銃に手が届いてしまう状況に対する異議の申し立ても当然にして込められていた。ケイティ殺害には、ジミーの誤った確信ともデイブのやむなき衝動とも通じる部分のない“動機のなさ”が顕著なのが痛烈で、そんな殺人事件なのに、それが発端となって幼なじみ三人を巻き込んで決定的な破綻を招いてしまう人の生のミスティック・リバーぶりがやりきれない。人生に「もし、たら、れば」は起こり得ないことながら、人がそれから解き放たれることもあり得ない、言わば付き物だ。もし、デイブに25年前の出来事がなければ、もし、ジミーがショーンと同じくケイティが銃殺されたことに気を留めていれば、もし、デイブが変質者と夜中に遭遇したのがケイティの殺害された晩でなければ等々、この作品は、思い返すほどに数々の「もし、たら、れば」を想起させる物語であることで、ミスティックなる人の運命についての思いを新たにさせる。

 時宜に適って興味深かったのは、ジミーの人物造形と彼の妻アナベス(ローラ・リニー)の存在だった。ジミーは“自分にとっての”愛と正当性に対する思いの強さだけを盲信し、その破格に強力な力の行使に対して確信的な人物だ。強い意志と実力を備えていて、必要とあらば悪に手を染めることも厭わないし、警察に捕まって尋問を受けても仲間を売るようなことは決してせずに一身に背負って服役した過去を持つ。裏切りへの報復として殺害したレイの遺族に嫌悪の感情を残していてさえ、自ら密かに少なからぬ経済支援を科し、やめることはない。ひとたび足を洗うと決めれば実行もできるし、家族の庇護者としての責任感と自負は人一倍強い。そして、自己目的のためには手段を選ばない非情さと傲慢さを備えている。ある意味で、国際社会における功罪含めたアメリカを体現しているような人物だ。愛娘を殺害され、彼のようには足を洗えないサベッジ兄弟を使って得た情報やデイブの妻セレステ(マーシャ・ゲイ・ハーデン)からもたらされた状況証拠だけで殺害凶器の確認をしないままに凶状に及んだのは、それがそれなりの切迫感を伴ったものであったにせよ、明らかに過ちであったが、そこには、武力制圧したとの立場でイラクに進駐しながら大量破壊兵器を見つけられず、今まさに批判に晒されているブッシュ政権率いるアメリカに重なるところがある。

 この作品で注目すべきなのは、自らの過ちに気づかされ愕然となり力を落としていたジミーを鼓舞し、過ちに目を向けることよりも今なお負っている役割と責任への自覚を促し、力は正義だと言わんばかりの勇気づけ方をするアナベスの存在だ。映画では、彼女がそういうふうにしなければ、さすがのジミーも今回の顛末で生き方を変えざるを得なくなるかもしれないとの風情が漂っていただけに意味深長だ。アナベスにはアナベスなりの切実さはあるのだが、観客によっては、ジミー以上にアナベスに抵抗感を示すかもしれないような演出が施されていた。ジミーがブッシュ政権率いるアメリカだとすれば、アナベスは言うまでもなくアメリカ国民だろう。作り手にそういう意図があったか否かの当否正誤自体は僕の関心外だが、イーストウッド作品なればこそ、僕にはそのように見えた映画だった。

 そして、さらに印象深かったのは、映画のなかでショーンの口でもデイブの口でも語られ繰り返されたように思う「25年前に変質者の車に乗せられたのがたまたまデイブで、そうでなければ…」との言葉だった。特にデイブは、直接ジミーに向かって「あのとき君が乗せられていれば、君でさえも、今の君のようには生きられなかったろうし、僕には君のような青春があったかもしれない。」というようなことを言っていた。ジミーの強さと奢りに対するささやかな異議申し立てであったが、そこには深い意味がある。


参照テクスト掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』過去ログ編集採録

推薦テクスト:「La Dolce vita」より
https://gloriaxxx.exblog.jp/51276/
推薦テクスト:「This Side of Paradise」より
http://junk247.fc2web.com/cinemas/review/reviewm2.html#mysticriver
推薦テクスト:「La Stanza dello Cine」より
http://www15.plala.or.jp/metze_katze/cinema2004.html#mystic
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2004micinemaindex.html#anchor001049
推薦テクスト:「とめの気ままなお部屋」より
http://www17.plala.or.jp/tomekichip/impression/kansoum1.html#jump20
by ヤマ

'04. 1.28. 松竹ピカデリー3



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