『壬生義士伝』
監督 滝田洋二郎


 中井貴一は、本当にいい役者さんになったのだなぁとしみじみ思わされる作品だった。殺陣のときの背筋の伸びや腰の据わりなど、観ていて惚れ惚れするし、実に味のある表情を見せる。しかし、これだけの演技を見せてもらっても、ドラマとしては、すんなりと気持ちのなかに泌み透ってこなかった。
 真価を認められずに表面的な異端ぶりで侮られる烈士たる侍の物語となれば、つい先頃の『たそがれ清兵衛』を想起しないではいられないのだが、『たそがれ清兵衛』のシンプルな語り口に比べ、こちらは装飾が過ぎていて、場面場面での盛り上がりを仕掛けられていることが妙にあざとく感じられ、逆に興醒めしてしまうことに繋がったり、人物造形が腑に落ちなくなったりするという感じだ。とりわけ斎藤一(佐藤浩市)の人物像がすっきりしない。軽蔑と憎悪すら抱いていた関係が終生忘れがたき感化を受けるとの設えが先にあって、生きた人間関係のなかでの変化というように見えない。最初の対立、それも闇討ちに掛けようとするほどの憎悪とか、しばらく人を斬っていないから誰かを血祭りにあげようと思うほどの殺伐が、哀れな境遇のぬい(中谷美紀)を身請けし、密かに養う姿と重ならず、それぞれのエピソードなり場面としては、ある種の効果も挙げているのだけど、どうにも取って付けたような印象になる。
 吉村貫一郎(中井貴一)の脱藩の理由にしても、謎めかして引っ張ることが僕には興醒めに繋がった。「二度は不義はできない」と守銭奴のはずの吉村が対価に惑わされずに、新鮮組からの離脱を拒んだことに斎藤が驚いたというエピソードも、よく言えば、後の義士たる吉村像の伏線だろうが、どこかちぐはぐな感じだ。
 十五年ほど前、『カラー・パープル』を観たときに、娯楽性としてのサービスなり工夫と本格的な人間ドラマとしての人物造形の彫り込みとのミスマッチについて思いが及んだことがあったが、この作品でも似たようなことを感じた。『カラー・パープル』については、原作者のアリス・ウォーカー(だったと思う。) ではなく、映画監督スピルバーグの演出のせいだろうと思ったが、この作品では、どうも浅田次郎の原作なり脚本のせいではないかという気がする。エピソードの構築は巧いのだけれど、ドラマとしての語りがあざとく、少々安っぽい感じなのだ。
 このあたりは、原作という以上に脚本段階での中島丈博の加工だろうという気がするのだけれど、回想によって吉村という人物を語ることになる、斎藤翁と大野医師(村田雄浩)が出会い、偶然にも貫一郎の写真を目にしたのが明治三十六年と出ていたから、1903年である。ということは、既に二十世紀になっていて、日露戦争を目前にして満州に出向くという時代設定だったわけだ。ある意味で幕末の動乱期に重なるところがあって、大野医師が薫陶を受けたという亡き師吉村の教えを、世紀を越えて受け継ぐ形になっていて非常に格好がいい。しかし、吉村が脱藩して直ちに新鮮組に入ったとしても、池田屋事件や蛤御門の変の前だったから遅くとも1864年で、四十年は経っていることになる。明義堂とおぼしき藩校で、彼が教えを受けていた当時に、既に十代にはなっていたように見えるから、彼はもう五十代で、妻たる女医は四十代半ば過ぎというわけだが、とてもそうは思えない。幕末期に既に白髪混じりだった佐助が維新後、仁侠の道で成功して大親分になったというのも、かなり唐突な話だったが、年齢は幾つだとの想定なのだろう。
 また、四十年の時を経て最後に斎藤翁が口にした盛岡弁と盛岡の景色を讃える言葉は、確かに吉村のものだったが、身請けした女ぬいの出身が盛岡だったことや吉村が京に脱藩して来ながら、郷里を語るに悪びれないことを過度に嫌ったことから、斎藤もまた実は盛岡出身者だったのかと思わせる終幕になっていた。だが、もし同郷だとすれば、同じ歳の頃で、共に卓抜した剣の使い手であって何ら見知らぬことがあるのだろうか。どうして、そのような小細工を施して気を引くことで却って妙な按配になる仕掛けをするのか合点がいかない。そもそも、下級武士でありながら、北辰一刀流の免許を持ち、学問にも秀で、藩校で教鞭をとるに至るほど認められ、人望も得ていた吉村であったのだから、人一倍、義に篤いにも関わらず脱藩するしかないところまでの貧しさになぜ追いつめられたのか、そのこと自体が妙に腑に落ちない。
 しかし、こういう類の突っ込み処の多い映画というのは、別に珍しいわけではない。問題は、突っ込み処が気になるか、ならないかである。そして、それは一に掛かって作品の持つ魅力やインパクトとの差引勘定なのだろう。人間でも同じ事だ。大きな欠点があっても、それが気にならないどころか、却って魅力になる人物がいる一方で、たいした欠点でもないのに、それが気になって仕方がない相性の悪さを覚える人物もいるものだ。要するに、この作品は、僕にとって欠点を補って余りあるほどの魅力を与えてくれなかったということだろう。吉村貫一郎を演じた中井貴一にあれほど魅せられながらも、尚且つ、作品全体としては、そういうことになってしまうというのは、考えてみれば、よほどの相性の悪さだったと言えるのかもしれない。

参照テクスト:「多足の思考回路」より「対談」
http://www8.ocn.ne.jp/~medaka/talk-mibugishiden.html


推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0302-1donnie.html#mibugisi

推薦テクスト:「多足の思考回路」より
http://www8.ocn.ne.jp/~medaka/diary-mibugishiden.html
by ヤマ

'03. 2.15. 松竹ピカデリー1



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