『スイート・シクスティーン』(Sweet Sixteen)
『幼なじみ』(A La Place Du Coeur)
監督 ケン・ローチ
監督 ロベール・ゲディギアン


 『スイート・シクスティーン』は十五歳にして裏社会での将来を嘱望される少年を描き、『幼なじみ』は十八歳でレイプ犯として収監されたティーンエイジャーを巡る物語だったのだが、観後感には大きな開きがあった。しかし、ともに上々の部類の作品だ。


 先頃観たばかりのシティ・オブ・ゴッドも麻薬販売という犯罪にまみれたティーンエイジャーを描いた作品で、しかもティーンに満たぬ子供も加わって殺戮を重ねる荒廃ぶりだったが、その一方で映画としての技巧の冴えが際立っている作品でもあった。しかし、『スイート・シクスティーン』にはそれ以上の巧さが行き渡っているように思う。殊更に巧さを意識させることなく、“スイート”が明らかに皮肉な反語でしかないようなリアム(マーティン・コムストン)の十六歳の誕生日の迎えを描いて、観ている者の心に痛切を泌み渡らせる。それは、技巧の冴えを見せつける以上に高度な巧さだという気がする。

 リアムの裏社会への立ち入りの総ては母親ジーン(ミッシェル・クルター)のためであって、ささやかな煙草売りから麻薬の売人稼業にヤバい鞍替えをしたことで、大金は手にしたものの深みに嵌まり、後戻りの難しい地点にまで立ち到る。唯一の親友だったピンボール(ウィリアム・ルアン)に心ならずも取り残された恨みと妬みを抱かれ、彼をも失うという大きな代償を払うことになったのに、母親からは無残な肩透かしを食らってしまう。思えば、リアムの人生は、予期せぬ形で売人のボスに見込まれることも含めて、思惑外れの繰り返しばかりだったような気がする。母親を想って挫けず逞しく、まさしく命を懸けた懸命さで困難な状況のなかを生きているのに、何の果報も得られないどころか、傷つき失うばかりで哀れと言うほかない。こういう作品を観ると、先頃報道を賑わせた事件のことを思い出す。

 九歳年下の男子高校生との愛欲に溺れ、その愛人の暴力で四歳の長男を虐待死させるままにしていた二十七歳の母親のことだ。四歳の男の子が健気なまでに母親を気遣い、慕っていた生前の様子が報じられていたが、男であれ女であれ、父親とか母親とかにはなってはいけないような大人が少なからずいるのが、人間が動物と違ってどうしようもなく不具合なところだ。親子の関係や生まれてくる環境を当人の意志では選べない理不尽さには、運とか運命という一言では片付けられない厳しいものがある。

 それにしても、リアムとシャンテル(アンマリー・フルトン)の姉弟のみならず、登場するすべての人々の表情に奥行と味わいがあった。どういう演出をすれば、あのような演技が引き出せるのだろう。『シティ・オブ・ゴッド』でベネを失ったときのリトル・ゼ以上に、ピンボールを失い母親に選ばれなかった喪失感で占められたリアムの虚ろで寂しい表情には、心境的には背後の海に引き込まれて行かんばかりの絶望感が漂っていた。思わず溜め息をついてしまうようなラストシーンだ。


 片や『幼なじみ』のほうには、人が人を信じ、人のために懸命になって何かをする姿というのが、人間の営みのなかでも最も美しいことなんだなぁとしみじみ思わせてくれるような観後感があった。ロベール・ゲディギアン監督作品は、四年前に観たマルセイユの恋が好印象で記憶に残っている。「言ってみれば、フランス流の長屋人情物語である。名もなく貧しく美しくもなく、凡庸な人間の不器用で飾らない不遇な人生の紆余曲折を穏やかな語り口で感じさせ、そのなかにある生命力と生きる喜びの豊かさというものをしみじみと綴っている」と当時の日誌にも記してあるが、今回の作品には原作があって人種差別や冤罪といったハードな問題を内在させているにもかかわらず、味わい的には似たようなところがある。十六歳と十八歳で結婚を決意し、身篭った子供を生み育てようと独立し始めたクリム(ローラ・ラウスト)とベベ(アレクサンドル・オグー)の二人に、格別の条件でアパートを貸し与えた老家主レヴィ氏(ジャック・ブデ)にさりげなく宿らせている、人生の紆余曲折を重ねた深みが穏やかに滲み出るような味わいなど、先の作品を髣髴させるものだった。

 それにしても、子供に恵まれないからといって白人ながら黒人姉弟を養子にしていることもさることながら、養子の息子べべのためにあれほどの骨折りをする父親フランク(ジェラール・メイラン)や幼なじみで旧知のベベが相手とはいえ、十六歳で結婚しようとする娘クリムをまず祝福で受け入れる母親マリアンヌ(アリアンヌ・アスカリッド)、娘たちの突然の朝帰りと結婚の申し出にとまどい、すぐには同意できなかったにしても、そこに相手が黒人であることによる懸念をいささかも感じさせなかったクリムの父ジョエル(ジャン・ピエール=ダルッサン)など、二つの家族の間には、人種とか血縁とかいうことでの隔たりがまるで感じられなくて驚いた。共に暮らしてきた時間が家族の絆そのものであるとの単純明快さにいささかの揺るぎも感じられない。それは、ベベの養父にとって近頃苛立ちの種になっている妻フランシーヌ(クリスティーヌ・ブリュシェール)に対してさえも同様なのだ。昔からの家族ぐるみの付き合いだとの友人関係においても、このシンプルさには揺るぎがない。差別や偏見がいけないからといった理の部分が出動するまでもなく、共生の絆を身体感覚で掴んでいる庶民的知性の強さと美しさというものが滲み出ている。それもまた『マルセイユの恋』に通じる部分だという気がする。さすがに“自由・平等・博愛”という近代理念を生み出し、国旗としている国は人間観が違うと感心していたら、映画の後で読んだチラシに「原作は、現代アメリカ文学を代表する黒人作家ジェームズ・ボールドウィン。」とあった。

 原作者が黒人作家ならと腑に落ちる部分がある一方で、これがアメリカを舞台にした作品だとしたら、そこに原作者の体験的なものがどれだけ反映されているのだろうかと興味をそそられた。そう言えば、ベベは物書きを志してはいなかったが、彫刻の才を天賦され、造形作家という“作家”を志していたから、もしかしたら、原作者は白人の養父母の元で育った境遇にあるのかもしれない。




参照テクストその1(TAOさん編
掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』過去ログ編集採録
参照テクストその2(タンミノワさん編
掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』過去ログ編集採録
参照テクストその3(お茶屋さん編
往復書簡編集採録


『スイート・シクスティーン』
推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0310-5sweet.html#sweet
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2003sucinemaindex.html#anchor000909
by ヤマ

'03.10.25. 県民文化ホール・グリーン



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