『ただいま』(過年回家[Seventeen Years])
監督 張元(チャン・ユアン)


 他国の異文化に触れる映画を観る醍醐味の一つは、その文化のなかで暮らす人々にとって極当たり前のこととして受け入れられているとしか思えないことが、その文化のもとには生きてない自分には違和感の拭えないものとして映るような出会いを果たす観賞体験をすることだ。
 十六歳のときにはずみで継姉を殺してしまい、十七年の服役を経て、旧正月の一時帰宅を許された模範囚タウ・ラン(劉琳)が、その変化に戸惑うほどの変貌を遂げている街の様子は、北京や上海ほどではないにしても、都市再開発による移転立ち退きがあったり、いわゆるゲーセンにあるようなゲーム機を置いている店があったりすることからも、この映画が作られた1999年とそう違いのない時期だと思われる。とすれば、タウ・ランが刑の宣告を受けたのは、1980年代のはじめというわけだ。僕が大学を卒業した頃のことになる。十六歳ではずみで犯した殺人の刑が模範囚であることで短縮された感じをもってなお十八年に及ぶとは驚くほかない。なにしろ実話に想を得た作品らしいのだ。
 また、それぞれに連れ子を持って再婚したらしいタウ・ランの両親の夫婦関係というのも奇妙に見えて仕方がなかった。馴染めぬ家庭から抜け出すために大学進学に全てを賭けていた学業優秀な姉シャオチン(李涓)の父親(梁松)も学歴がありそうなのに稼ぎがなさそうで、工場労働者とおぼしき妻(李野萍)に大きな顔をされていて、将来有望そうな娘の存在を唯一の面目として妻に対抗している風情だった。妹のタウ・ランもまた、ぎすぎすした家庭が嫌で、高校を卒業したら工場労働者になって家を出て二度と帰ってこないと言っている。そんな夫婦がそれぞれ死と収監という形で一挙に娘を失い、その原因が互いの娘にあるにもかかわらず、寄り添うようにして二十年近くも暮らすものだろうか。しかも父親は、自分の生きる希望だったシャオチンを殺害した継子タウ・ランが戻ってくることが事前に判っていたら、今にして一人で家を出るつもりだったと告白していた。にもかかわらず彼は、突然戻ってきたタウ・ランのあまりにも寄る辺なき弱々しげな様子を目の当たりにしたからか、引率してきた二十七歳の女性刑務主任シャオジエ(李冰冰)の言葉に納得したからか、彼女を受け入れるわけだが、その寛恕に打たれ、生涯仕え、二世を誓う妻の姿というのも苛酷な体験と歳月があったとはいえ、十七年前とはあまりにもの変貌だ。でも、これらは総て、中国的融通無碍として了解しなければならないのかもしれない。
 しかし、そもそも家族の大いなる不幸を招いた殺人事件の発端というものは、二十年近くの時を経たインフレにより、今や端金となった金額でしかないが、父親の五元をシャオチンが盗んだところから始まったわけで、彼女が盗みを働いたのは、昼間に子供たちの前であからさまに妻から蔑まれている父親が夜になると継母と睦み合い、継母に悦びの声をあげさせているのを耳にして、若い娘ゆえに思い及ばず、憤りを覚えたからではなかったのか。父親にそのことへの思いに到らせることもないままに、継子に示した寛恕とそれに対して濡れ衣の盗みを自らの行為として認める態度を示すことで応えるタウ・ランの姿でもって感動の物語とすることに、どこか釈然としないものを感じた。
 だが、事の真実などそうそう知り得ようもない人の生において、赦しの営みというものは、常にこうしたものなのかもしれない。そういう観点からは、安易な納得とともにあるカタルシスよりも、遥かに透徹した人生観が窺えるとも言えるのだが、あいにくそれに見合うだけの説得力を備えた演出や脚本ではなかったように思う。タウ・ランを演じた劉琳が、十六歳のときも三十三歳のときも、年相応にはついぞ見えなかったことも少々つらかった。

by ヤマ

'01. 8.22. 県民文化ホール・グリーン



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