美術館冬の定期上映会“空想のシネマテーク”
   第2回:「自分探し」

①『鳥の歌』('95) 監督 ホルヘ・サンヒネス
②『新しい神様』('99) 監督 土屋豊
③レクチャー:村山匡一郎  
④『ボディドロップアスファルト』('00) 監督 和田淳子
⑤『紙の花』('59) 監督 グルダット
 99年に綴った池端俊策監督の『あつもの』の日誌のなかで、「この作品は、菊づくりの戦いを借りた自分探しの物語だとも言える。そして今、時代のキーワードとも言える“自分探し”という点では、二人の老人にも若い音大生にも、全く差がないくらいに対等だ」と記していた僕にとっては、ひとかたならぬ関心を抱かせてくれるテーマだった。『新しい神様』には、制度としての家や国が既に個人のなかでは解体され、通常の社会生活において帰属する集団が個人のアイデンティティの準拠となり得る物語を紡ぐことができなくなっているなかで、自分探しを重ねている三人の若者の姿が捉えられていた。この作品には「大きな物語が信じられない」という言葉が出てくるし、『ボディドロップアスファルト』には冒頭のテロップのなかに「見つけなきゃ、探さなきゃ」という言葉が見つかる。かつて個人への執着が神や国家の権威を損なうものとして是認されていなかった時代から、合理的で自律的な近代的自我の確立が称揚されるなかで、個性の尊重と自己決定権が権利として保障されるようになってきたわけだが、今やそれが権利を通り越して、見いだし確立すべき自己というものを持てないことが不安やコンプレックスになる形で強迫してくるようになっているという気がする。
 しかし、誰においても、そんなに安住できる自己の物語が見つけられるわけがなく、満足できるだけの際立った個性を完成させられるはずもない。結果的に生涯かけても自分探しを捨てられなくなっているのではなかろうか。本当の自分がどこか他にいる感じとか、自分は一体何者であるのかということに対する疑念や迷いにとらわれ続けるのが、若者の専売特許ではなくなっているのが現代であり、そういう意味では“自分探し”こそが時代の物語となっているわけで、国を越え、世代を越えて我執と自意識に目覚めてしまったのが現代という時代なのだろう。

 こういう文脈で今回のプログラムを眺め渡すと、最初に上映されたボリビアのウカマウ集団による『鳥の歌』が、自分探しがもはや国や世代を越えた個人の問題どころか、集団の問題となっていることを提示していて感心させられたし、新鮮だった。まさしく“自分探し”は、時代の物語となっているのだ。十年前に『地下の民』を観たときに、差別する側とされる側の対立構造のなかで差別の状況を捉える社会的観点ではなく、被差別者のアイデンティティの物語として映画にしていることに非常に感心した覚えがある。そして、そんな作品をインディオ自身ではなく、白人と混血(メスティソ)による映画製作集団がなし得ていることにすっかり驚いたものだった。それだけに、この作品に登場する、彼らが自身を仮託した映画集団が、インディオたる村人たちに対して差別意識を持ち、異文化人として恐怖心さえ覚える姿を晒して、結局のところ村人には聞こえる鳥の歌が聞こえない自分たちを描いていたことに衝撃を受けた。一昨年の年末から翌春にかけて東京で彼らの全作品回顧上映がされたようだが、高知で僕がこの二作品を除く六作品を観る機会に恵まれることはありそうもないのが残念だ。

 『新しい神様』では、何と言っても中軸となる雨宮処凛の率直さが際立っていた。男の二人が、右翼であれ左翼であれ、拠り立つ思想的足場と本位としての自分というものを半ば当然のように前提としていることに対し、彼女は、こだわりや自信を持てるほどの自分がないからこそ、信じ帰属できる物語がほしいのだと言い切る。そして、右翼系民族主義にも左翼系主体思想にも並行して憧れをいだくことに衒いを見せず、揺れる戸惑いというものが、せいぜいで維新赤誠塾の伊藤秀人とドキュメンタリー映像作家の土屋豊という二人の男の間での揺れでしかないことに悪びれるふうもなく、素朴に悩む。そこが妙に潔く映るのだ。それでいて、信じることに向かうときの憑依力は二人の男のいずれよりも格段にまさっているから言葉に力があるし、まさしく自身を晒しているような説得力がある。「どんなにかっこ悪くても自分を晒し、ぶつけていくしかない」などという言葉を使う男たちがとても真似のできない力で彼女がその表出を果たせるのは、自己を放棄した憑依の構造の持つ力なのかもしれない。女の前には男たちは霞んでしまう。それは互いに立場は違うけれどと言いながら、親和性を高めていく二人の男たちにとっての思想的立場などというものが、自覚されていないだけで彼女とほとんど大差ないものであることが透けて見えるからだろう。たまたま僕には、十年前にアンジェイ・フィディック監督の『金日成のパレード』を観たときに、雨宮処凛が北朝鮮を訪ねて感じたことに似たようなものを映画から受け取った記憶があるので、よけいに彼女の思いが理解しやすかった面があるのかもしれない。
 また、もうひとつ興味深かったのは、図らずも彼女が最後に漏らしたカメラへの依存というか、表白と対象化のツールとしてのカメラの持つ力の再確認であった。彼ら三人の内部と関係性において生じた変化というものは、カメラ抜きにはけっして起こり得なかったものだということだ。そういう意味では、去年観た茂野良弥監督の『ファザーレス・父なき時代』を想起したりもした。あれも企画・出演者である村石雅也青年の“自分探し”の物語だ。

 二作品上映後のレクチャーでは、村山氏が心理学者の榎本某氏の言葉を引きながら、自分探しにおいては、語り、表出することが重要なファクターで、それを他から認知されることが非常に大事だというところから、映画がそれに最適のメディアであり、近来の映画の状況として自分探しを主題とする作品が顕著に増加していると語っていた。「認知」とは即ち外界との関係性であり、そこにおいて、映画の持つバーチャルなリアリティのインパクトや写すという形で自己をも対象化できるカメラの特性ばかりか、自分の肉声を記録することができることにも言及して映画の有効性を指摘していたことには大いに共感を覚えた。かつてとは異なり、時代が物語を失ったゆえに“自分探し”がテーマとなってきたという見解については、前述のように僕は、むしろ“自分探し”の物語こそが時代の物語となっていると見ているのだけれど、国家や集団が個人に押しつけようとする物語が有効性を失っているという見解には勿論同感だ。『新しい神様』について、監督が出演者にポンとカメラを預け渡す部分を持つことで成功し得た作品であることに着目して、ビデオでないと出来ない作品だと指摘していたのには、なるほどと気づかされ、興味を覚えた。

 『ボディドロップアスファルト』は、僕には作品的にはかなりキツイものがあった。個人映画的スタンスで自分探しをし、表出することのセンスと長編劇映画を撮り上げることとの間には、やはりかなりの距離があるのではないかという気がする。かねてより気がかりな未見の『桃色ベビーオイル』は、十六分の短編だ。今回が長編劇映画の初作品だったようだが、最後には、今はまだこんなもんなんだという居直りというか開き直りを憶せず晒していて、それが意外と後味をよくしていた。単品チラシにあった篠原哲雄監督の「和田淳子は、相変わらず、度胸がいいなー。」という言葉は案外そのあたりのことを言ってるのかもしれないと思えて可笑しかった。

 『紙の花』は、自分の感覚からは今回のテーマにぴったりと嵌まってくるものではなかったが、作品的には充実していて、二時間半を少しも長いとは感じなかった。1959年のインド映画だが、冒頭で主人公の映画監督スレーシュ(グル・ダット)が学校で娘に会おうとしていると、別居中の妻からの指示で娘に会わせるなと言われていると女性教師に咎められるなど、四十年以上も前のインドでの女性像の描かれ方として意外なほどに進歩的で、映画世界そのものが土着的なインド文化があまり感じられない西洋的なテイストに満ちていた。それで思い出したのが94年の高知アジア映画祭インドネシア映画特集で観た“インドネシア映画の父”と呼ばれるウスマル・イスマイル監督の『三人姉妹』(1956)だ。驚くほどハリウッド的なミュージカル・コメディーが四十年も前にインドネシア映画として存在していて衝撃的だったのだが、当時のインドネシアの状況を反映したものでは勿論なくて、監督のハリウッド視察体験とインドネシアにもこういった作品があることを示すデモンストレーション的な意味が反映されたものだったようだ。インド映画初のシネスコ作品でもあるらしい『紙の花』に、そういった側面が皆無だとは思えない気もするが、インドは英国領が長く、西洋的な映画はごく普通に製作されていたのかもしれない。古いインド映画を観る機会など滅多にないのだが、県立美術館ではグル・ダットの特集上映の予定もあるらしく、その日が楽しみになった。



参照サイト:「高知県立美術館公式サイト」より
https://moak.jp/event/performing_arts/post_170.html



新しい神様
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2000acinemaindex.html#anchor000441
参照テクスト:雨宮処凛 著 『暴力恋愛』読書感想


紙の花
参照テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT
特集企画『映画を語る映画たち』より
http://members6.tsukaeru.net/sammy/films/yama.html
推薦テクスト: 「マダム・DEEPのシネマサロン」より
http://madamdeep.fc2web.com/kaagaz_ke_phool.htm
推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT
http://members6.tsukaeru.net/sammy/archive/paper.html
by ヤマ

'02. 2.16. 県立美術館ホール



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