『あつもの』
監督 池端 俊策


 シネカノンから送られてきたデモ・ビデオで観たのだが、思いのほか面白かった。老いてなお元気な男たちを描いて強い印象を残してくれているのは、十六年前に愛宕劇場で観た『近頃なぜかチャールストン』(岡本喜八監督)なのだが、かの作品は、老いをまず前提にしたうえで、それでもなおこんなに愉快でパワフルな逞しい老人たちがいるという描き方だった。元気な老人たちを描くとどうしてもそういうスタンスになりがちなのは、枯れた穏やかさに向かう老いという常識的なイメージを前提にするからだ。『あつもの』を観て、そういう常識的なイメージというのは、もはや壊れてきているのだろうなと思った。
 確かに老いても情熱や欲望を失っていない元気な老人たちが登場するのだが、そこに“常識的なイメージと違って”というニュアンスがほとんど感じられないのだ。そこが新鮮だった。あくまで菊の厚物づくりに熱中する男たちの物語が前面に出てきていて、たまたま彼らが老年であるといった感じである。菊づくりに激しい火花を散らす二人の名人、杢平(緒形 拳)と黒瀬(ヨシ笈田)に若い娘が絡むのだが、チェリストとして嘱望されながらコンクールではいつも二位三位にしかなれない音大生(小島 聖)が自分の限界と断念し切れない思いのなかで迷いと荒みに身をやつしつつも、若さゆえに持てる輝きを無自覚に発揮していることを物語のなかに効果的に織り込んでいて、作品に深みを与えている。杢平もコンクールでは、いつも黒瀬の後塵を拝しているのだ。一方、黒瀬も斯界の第一人者ながら、菊づくり以外の全てにおいて人生の敗者でしかない自分が菊づくりだけはトップであることを生きるうえで持て余しているかのような生き方をしているように見える。その点で、この作品は、菊づくりの戦いを借りた自分探しの物語だとも言える。そして今、時代のキーワードとも言える“自分探し”という点では、二人の老人にも若い音大生にも、全く差がないくらいに対等だということがよく判る。だからこそ、二人には老いを感じさせないのだろう。
 善くも悪くも、今ほど各世代のみんなが思春期の作業を終えることを留保して生きている(ある意味では、それでも生きていられる)時代というのはなかったのではないかという気がする。一方で抜かりなく、不況で事業に行き詰まって一家心中してしまう隣家のエピソードが織り込まれていたり、戦争疎開の記憶が語られたりと、決して安穏とした現実ではないことも綴られるのだが、そういった印象は否めない。しかし、それでも生きていられる状況ということよりは、生涯かけても自分探しを捨てられないくらいに我執と自意識に目覚めてしまった以上は、もう後戻りはできないということなのかもしれない。ドラマのなかだけではなく、身の回りを見渡しても、昔に比べて随分と年寄りが若くなったように感じられるし、大人が大人としての自信と自負を失っているように見える。本当の自分がどこか他にいる感じとか自分は一体何者であるのかということに対する疑念や迷いにとらわれ続けている度合いというのが、今の人は昔の人よりも格段に強いように感じられる。それは、そういう時代の変化ということよりも、自分の人生が後半生に入ったせいなのかもしれないけれど…。
 黒瀬を演じたヨシ笈田の存在感と屈託に満ちた表情、もの言いが実に渋い。同じように秘めた屈託を偲ばせても、緒形拳にはない軽みとともに表出していて、対照としても鮮やかだった。
by ヤマ

'99.12. 1. VTR



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