『いつまでも二人で』(With Or Without You)
監督 マイケル・ウィンターボトム


 生活を重ねる歳月のなかで倦み褪せていくことと背中併せにして築き上げていく蓄積というのは、なかなか気づきにくいもので、二人の世界に閉じているだけでは、その持ち得る再生力さえも潜在力に留まっている。そのことを味わい深い可笑しさと切なさを湛え、温かい眼差しで、リアリティをもって描出した佳作だ。
 夫ヴィンセント(クリストファー・エクルストン)が結婚後初めて、かつて付き合っていた美容師で、共通の友人でもあった女性の家に行ったとき、何があったのかは不明だと語り、白いブラインドが掛かる映像の語り口で示されていたように、この映画の語り手は、妻ロージー(デヴラ・カーワン)29歳だ。十年前に知り合った5歳上の夫と結婚して五年になるという。「愛しているけど、何かが足りない、そうだ、子供だ!」と矢庭に子作りに励み出して一年が経つけれど、妊娠の兆しがなく、ストレス化しつつある。そこに突然、16歳のときから三年間文通で恋に落ち、一度も会うことなく今に至っているブノワ(イヴァン・アタル)がフランスから北アイルランドまで訪ねてくる。
 この微妙な年数設定と年齢がこの物語にぴったりと嵌まっていて、心憎い。揺れる想いを互いに自制しつつも、夫が遂にかつての恋人と密会したことを察して、夫との関係や職場でのストレスが募る一方であったロージーがブノワを誘って出奔し、テントで過ごした海辺の林の一夜のなかで一線を越えてしまったときに悟ったものは何だったのだろう。
 文通していたときそのままに魅力的でデリカシーを湛えたロマンティストのブノワとのセックスが思ったほどの恍惚も歓びももたらしてくれなくて、後味の悪さを残したのではないかという気がする。そして、それが決して彼のせいではなく、あくまで自分のせいだということを身をもって知ったのだろう。体感するまで気づかなかったことというのは、自分のブノワに対する想いというのもかつて文通してた頃のように、彼に対して真っすぐに向けられた視線によるものではなく、すべてがヴィンセントとの生活を軸にして、そこから眺める視線によるものだったということだ。それだけ自分のなかにヴィンセントの存在が根付いていることに初めて気づいたのだろう。
 子作りに励み始めて、セックスそれ自体が目的であり得たところから手段に転落してしまい、楽しむことよりも務めのほうの比重が重くなるまでは、「この体が好き」というロージーの台詞にもあったように、彼らの相性は性的に申し分なかったし、ヴィンセントは自分の願いを聞き入れて、警察官の職を辞め、父のガラス工場で働くようにまでしてくれた夫なのだ。夫婦関係の主導権をロージーのほうが握っていたことは、ブノワを滞在させることや昔の警察官仲間とのゴルフの一件にも窺えるが、子作りに関しても、先送りを望んでいたのがロージーだったらしいことは、行為の途中で避妊具を装着しようとした夫に子作りを決意したロージーが必要ないと申し出たときの彼の嬉し気な様子にも表れていた気がする。仕事に張りがあった頃には欲しくなかったのだろう。
 このような描写が抜かりなくされているから、ラストの大団円が単なる予定調和のようには映ってこないのだ。ブノワとロージーのセックス・シーンを直接的に描写せずに、観る側の想像に委ねているところが気が利いているし、語り手がロージーである点からも自然で、思わせぶりな展開にならない。巧いものだ。しかし、一番の決め手は、やはりブノワのキャラクター造形だろう。彼のロージーに向けるスタンスの取り方は、実に微妙で味わい深く、抑制と表出の加減が素敵だった。
 それにしても、身をもって知る機会を得なければ、自らのうちに潜んでいるものでさえ、どうにも自覚に至らない人間というものの有様に、しみじみと思いやらされたような気がする。ロージーの場合、それが再生力のほうだったから、ブノワのことがふっきれたけれど、それが破壊力の場合だってあるわけで、そのときはヴィンセントを振り切ることになるのだろう。おそらくは、そのいずれであったにしても、身をもって知るまで自覚できない人間を描いて、そこに苦みではなく、笑いと温かみを肯定感として宿らせた眼差しで見つめるのが、ウィンターボトムの個性だという気がする。そこが気持ちがいいところだ。

推薦テクスト:「多足の思考回路」より
http://www8.ocn.ne.jp/~medaka/futaride.html
by ヤマ

'02. 2.13. 県民文化ホール・グリーン



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