『金日成のパレード〜東欧の見た赤い王朝〜』
監督 アンジェイ・フィディック


 ドキュメンタリーのなかに写し取られた北朝鮮ということである程度予想される光景というものを遥かに越える圧倒的な映像に打ちのめされてしまった。西側資本が商業フィルムとして作り出すスペクタクルやセットの壮大さ、群衆シーンのスケールの大きさは、それがいかに金を掛けたものであろうと北朝鮮の国家資本を背景に異様なほど高度に組織化された国民を動員して繰り広げられる祭の壮大さの前には霞んでしまうほかはない。しかもそれが只一人の現存する人物を讃えるための祭なのである。予想を遥かに越えるスケールと綿密さに、ピラミッドを造ったエジプトのファラオも凱旋門を建てたフランスのナポレオンも凌ぐと思われるほどの権力の行使とカリスマ性を保つ人物が同時代の現代に生きていることを知らされる。そして、延々と続く馬鹿馬鹿しいほどに華麗で壮大なパレードの映像に呆気に取られつつ、合間に挿入される金日成・金正日を讃えるエピソードと人々の姿を観ているうちに幾つもの興味深い発見と出会う。

 先ずは、金日成の大衆操作のための教育の肌理の細かさと厚かましさである。スターリンにしろ毛沢東にしろ、あそこまで厚かましく総ての功績を自身に集約した形で人民に植えつけてはいまい。何しろ地下鉄や建物どころか、本の一冊から椅子の一脚に至るまで、いちいちが金日成か金正日の下さったものとして人民の前に置かれているのである。日本では、幼児になれば、数や字を覚えることを大人に誉められ、仲間と競うが、北朝鮮では、それが数や字ではなく、金日成の家系や生年月日、出身地、幼少期のエピソード等なのである。幼稚園では、そのための合宿も行なうという。そして、金日成の名が口にされる時には、必ず「偉大なる首領様」という接頭辞が伴い、金正日の名には「親愛なる指導者」という接頭辞が冠せられる。呪文と同様に繰り返され続けるなかで、言葉がそれを口にする人間に何らかの作用を及ぼさないはずがない。一定の規模以上の数の人々をまとめようとする時には、思想や理念といった形而上のものより、特定人物のカリスマ化のほうが遥かに有効であることをよく知っている。残念ながら、人間は、思想や理念で『百万人のパレード』を実現できるレベルにはない。そして、力によって抑えつけるよりも力を使わなくても従う人間を育てることのほうが効果的であることも実によく知っている。さらには、知っているだけではなくて、知ってはいても、とてもそこまではやれないということをいけしゃあしゃあとやってのけるのである。力に頼り過ぎたスターリンの失敗に学んだのであろうか。

 とはいえ、そういう教育のもたらした効果のほどをパレードの実際のなかに観る時、単にその肌理の細かさだけではなく、それが効果的に作用しやすい人々の性質といったものを想起せずにはいられない。するとそれは、北朝鮮の国民性というよりも東アジアの民族性といったものであることに気づかされる。東アジアというのは面白い地域で、資本主義的自由社会の最右翼にある日本から、韓国、中国ときて、いわゆる社会主義的統制社会の最左翼の北朝鮮にいたるまで、ある意味で段階的に揃っているのだが、体制の違いとは裏腹に、集団主義的であるという点では見事に共通していて、欧州的個人主義と一線を画している。それに気づいた時、パレードの壮大な馬鹿馬鹿しさを嘲笑する日本人が決して北朝鮮をあざ笑えるほど遠いところにいるのではないことを知らされる。金日成と「Money」 の違いだけで国民挙げての『拝金主義』という点では、日本と北朝鮮は全く同じなのである。しかし、その集団主義こそが良くも悪くも今の日本の繁栄を築き、国際社会でのそれなりの地位をもたらしていることを思うと、東アジア的集団主義という精神的土壌のうえに加えられた教育的大衆操作に支えられている金日成体制は、現在次々と崩壊していっている東欧社会主義と同じ命運にあるとは、にわかに言い難いと感じさせる。また、そういう現体制を良いと思う人々の気持を最もよく支えているのが、大戦前の日本統治時代の記憶なのであろう。ほぼ完全な鎖国状態にある北朝鮮で、現在における他の国々との比較は一般の人々には不可能であろうが、過去と現在の比較はできる。そして、確実に日本の占領下にあった時よりは良いとの確信を与えているのに違いない。

 それにしても、パレードに参加している北朝鮮の人々の活き活きと高揚した顔はどうだろう。ドキュメンタリー・フィルムが凄いのは、学問や思弁では捉え切れない、そこに生きている人々の生の表情を写し取るところにあるが、彼らの顔を観ていると、理念や思想で統合しようとするのではなく、祭やカリスマで人々を操ることや主体的な選択を求めるのではなく、疑問を抱かせないような絶対性を押しつけることも、もしかしたら、そのほうが人々には幸せなのかもしれないとさえ思わせるものがある。もはや、そのような形の絶対性を受け入れ、信じることのできない自分には窮屈で不自由で我慢のならない社会であろうが、本当に疑問も抱かせずに上手に騙してくれるのなら、個々の人々にとっては、それで良いのかもしれない。より多くの個々の人々にとって幸福なら、それはいわゆる社会正義とか公正とか自由とか平等といった絵に描いた餅のような理念による大義名分よりももっと大事なことなのかもしれない。そのように思うのは、北朝鮮より遥かに自由で民主的なはずの日本で、真の自由を求めている人も実現している人もほとんどいなくて、民主主義実現の前提となる民の自立がなされていないだけでなく、北朝鮮のように徹底的に騙し通してもくれずに、むしろ自由とか平等、自立個性化、多様な価値観などをなまじ薦めたりするものだから、却って人々の顔に不満と諦めの表情のほうが多く窺えてしまうからである。人生の目的や生き甲斐を持ち、自分は幸福だと思って生きている人の数は、日本より北朝鮮の方が多いのではなかろうか。

 思いがそのように至った時、パレードは、もはや嘲笑や揶揄の対象ではなく、徹底的に邪道でありながら、見事に巧妙で且つ、より多くの人々に安心感と幸福感をもたらす凄い社会的装置であることに気づく。さらには、人々に一体感を与えるだけでなく、生産を支える消費の市場としても重要な役割を果たしているとも思われる。西側資本主義の国々のように、個人の欲望の創出による市場の形成促進はせずに、生産活動を保証するだけの市場を形成しようとする時、パレードの壮大で馬鹿馬鹿しい消費はまさに打ってつけなのである。本当に奇妙ではあるが、うまくできた社会システムだという気がする。



推薦テクスト:「神宮寺表参道映画館」より
http://www.j-kinema.com/kim-prade.htm
by ヤマ

'91. 7. 4. 新宿武蔵野館



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