『地下の民』(La Nacion Clandestina)
監督 ホルヘ・サンヒネス


 今、ボリビアのインディオたちのアイデンティティは、どのような状態にあるのだろうか。インディオの村を出、インディオであることを恥じ、インディオの名を捨てて都会に住んだセバスチャンが再び村に戻り、村で暮す。その後、出るのではなく、追放される形で村を去る。そして、三度、今度は死を覚悟して村に戻るのである。捨てたり、追われたりしたからこそ、彼においてインディオとしてのアイデンティティの問題は最も峻烈である。二度目の村の生活のなかで目覚めたインディオとしてのアイデンティティは、彼に以前のような形で都会のラパスにて暮すことをもはや許さなくなっていた。彼は酒に溺れた挙句、魂の再生のために肉体の死を覚悟して村に帰ろうとする。しかし、彼の目覚めたるインディオ・アイデンティティは、社会の抑圧者である体制との戦いに目覚めた多くのインディオたちには理解されず、僅かに村の長老だけの知るところでしかない。インディオがインディオであるがために差別を受ける状況のなかで、インディオとしての自覚への覚醒がインディオたちのなかで理解されないというのは、強烈に皮肉な現実と言える。インディオにとってインディオであることを支える基盤は、容貌や体型あるいは非インディオからの「インディオ」という呼称等の外的属性以外の何によって形成されるのであろうか。
 社会において被差別の側に置かれている者を主体に劇映画が展開される時、彼らを差別者との構図のなかで捉える社会的な観点を持つ作品に出会うのは珍しくはないが、それ以上に彼らのアイデンティティの物語として描かれた作品というのは極めて珍しい。最近、スパイク・リーがそういう意味での黒人の黒人による黒人のための黒人ならではの映画をスクリーンに叩きつけてきて、強烈な記憶を残した。そんなこともあって、この作品の監督はインディオに違いないと思わせる。しかし、聞くところによるとホルヘ・サンヒネス監督というのは白人だという。仰天してしまった。非インディオでありながら、インディオの問題をこのような観点から捉え得る作家がいるのである。ヴェトナムの問題、アメリカ・インディアンの問題、黒人・ユダヤ人の問題、人種問題や民族問題を扱った作品を少なからず観てきたなかで、このようなことはかつて一度もなかったと思う。なまじ相手の側に立てば、白々しくなってしまうので、自分の側から真摯に描くのがせいぜいのところだと思っていた。相手の側に立とうとするのは、それ故むしろ傲慢で無自覚なことにしかならないと思っていたのである。実際、そのように思わざるを得ない作品がほとんどである。
 しかし、この作品は、インディオでなければ創れないような作品でありながら、作り手は白人なのである。そういう意味でのカルチャー・ショックがこの『地下の民』にはある。人間の理解力の可能性というものは侮れないことを教えてくれるとともに、安易なポジションの取り方を厳しく指弾する誠に貴重な作品と言える。そして、日本人としてこの作品を観るならば、アイヌの問題に思いを馳せないわけにはいかないとも思った。日本にもホルヘ・サンヒネスはいるのかもしれない。しかし、残念ながら僕は観る機会を得ないでいる。
by ヤマ

'91. 9.17. 自由民権記念館



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