美術館春の定期上映会“インド映画の奇跡~グル・ダットの全貌”

①『賭け』 '51   未見
 (BAAZI[The Gamble])
監督 グル・ダット
②『網』 '52    未見
 (JAAL[The Net])
監督 グル・ダット
③『鷹』 '53    未見
 (BAAZ[The Hawk])
監督 グル・ダット
④『表か裏か』 '54 未見
 (AAR PAAR[Cupid's Arrow])
監督 グル・ダット
⑤『55年夫妻』 '55
 (MR.& MRS.'55)
監督 グル・ダット
⑥『渇き』 '57
 (PYAASA[Eternal Thirst])
監督 グル・ダット
⑦『十四夜の月』 '60
 (CHAUDHVIN CHAND[Fourteenth Day of the Moon])
監督 M.サーディク
⑧『旦那様と奥様と召使い』 '62 未見
 (SAHIB BIBI AURGHULAM[King,Queen and Knave])
監督 アブラール・アルヴィー
⑨『グル・ダットを探して』 '89
 (In Search of Guru Dutt)
監督 ナスリーン・ムンニー・カビール
 2000年末に開催された、福岡アジアフォーカスと国際交流基金アジアセンターとの合同アジア映画祭における、アジアセンター側の企画である“インド映画伝説の巨匠”と謳われたグル・ダットの特集は、5作品の上映であったが、その後さらに5作品を加えたものが、昨年来、巡回上映企画として全国展開している。ようやく高知にもお目見えというしだいになったところだが、それらの作品のうち、弱冠三十九歳で自殺したグル・ダットの最後の監督作品『紙の花(KAAGAZ KE PHOOL[Paper Flowers])』('59) は、この二月に「美術館冬の定期上映会“空想のシネマテーク”第2回:自分探し」という企画上映の際に観た。人気映画監督スレーシュが、抜擢した新人女優シャーンティと恋に落ち、家庭も仕事も失い、酒に溺れ、落ちぶれていく物語だ。その作品的な充実に目を見張り、歌や踊りの入ったエンタテイメントのフィールドで、かくもシリアスにペシミスティックな、また貧困と絶望を描いて、社会性をも色濃く持った作品が1950年代からあったことに驚いたものだった。と同時に、ディル・セボンベイのマニ・ラトナム監督が忽然と現れたわけではないのだと妙に納得できるような気持ちにもさせてくれた。

 今回、一挙にまとめて6本の監督作品が上映されることに期待を寄せていたのだが、あいにく『55年夫妻』と『渇き』の2本しか観ることが叶わなかった。『55年夫妻』のタイトルに55年と冠せられているのは、この年がインドで離婚が法的に認められるようになった年だからこそ生まれ得た夫妻という意味合いが込められているのだろう。フェミニズム活動家とも言うべきアニターの叔母を登場させ、女性だろうが男性だろうが、人を従え、ある種の権力を手中にした人間に共通する欲と欺瞞というものを鮮やかに皮肉っていたのが、けっこう新鮮に目に映った。また、映画の構成自体が偽装結婚のなかで芽生え育まれる真実の愛という形になっており、偽物本物に向ける視線というものが印象づけられた。

 圧巻だったのは『渇き』だ。社会的に認知されることの持つ意味や得失が何であるかとか、社会という人間集団が求め崇める個人というものは決して血肉の通った生身の存在ではなく、求めるイメージを仮託できる観念的な存在でしかないといったことを、五十年近くたった今なおインパクトの衰えない力強い演出によって、見事に描き出していた。ヴィジャイの詩人としての真の理解者であった娼婦グラーブや欲得のない親愛感による交友を貫いてくれた露天マッサージの男とは対照的に描かれる、利得にさどかった大学時代の学友や初恋相手、さらには、金のためにはヴィジャイを精神病院に幽閉し、社会的に抹殺しようとする出版者の社長やそれに協力することで金をせしめようとするヴィジャイの兄たち。この作品でも、グル・ダッドの視線は、人の心根の偽物本物というものに向けられている。しかも、加えてそこに芸術の表現者たる詩人としての真贋を問う眼差しが窺えもした。それは『55年夫妻』での漫画家プリータムには、まだ向けられていなかったものだ。しかし、二年後の作品『渇き』では、そういったものが、プロットとして仕込まれているヴィジャイ本人の真贋騒ぎを通じて、おのずと浮かび上がってくる幾重もの真贋問題のひとつとして明確に打ち出される構造になっていた。それゆえに作品に厚みが宿っているのだろう。

 そのように観ると、『渇き』で表現者としての真贋問題に踏み込んでしまったグル・ダットが『紙の花』で表現者としての苦悩と敗残に朽ち果てていく映画監督を描いて遺作としているのは、結果的な皮肉のようでありながら、必然のようにも感じられる。『渇き』の時点では、自らの声をのみ聞く詩人としての生き方を全うするためであるかのごとく、手に入れた社会的成功を捨て、ひっそり旅立ったが、その際にグラーブを伴うエンディングであった分だけ救いがあった。だが、二年後の『紙の花』では、今や人気女優になっているシャーンティが、落ちぶれ果てているスレーシュに気づいて追ってきても、後ろ髪を引かれるように振り返りつつ、逃げ去っていくしかない姿を描いていて、全く救いがなくなっていた。ドキュメンタリ-映画『グル・ダットを探して』では、わずかに未亡人も登場していたが、他の者も含めた数々の証言から推察するに、彼は映画に没頭するあまり、家族を省みることもできなくなっていたようだ。残された諸作品から窺える彼の内省的な資質からしても、そういう状況のなかでは '55年からの二年ごとの作品がそうであったように、次第に追い詰められていく方向に向かわざるを得なかったのかもしれない。

 監督作品ではないながらも、観る限りにおいては、ほぼグル・ダット作品と言ってもいいような気がした『十四夜の月』でも、彼は苦悩に引き裂かれる役処だ。そして、その苦悩の源泉は、非常にモラリスティックなパーソナリティでありながら、それを自己実現できない状況や私情にある。そして、彼には繊細さと同時に、ある種の虚弱さも窺われる。『渇き』や『紙の花』に共通する彼の個性だという気がした。そういうグル・ダットと対照的な個性を、彼の作品のなかでいつも遺憾なく発揮しているのがジョニー・ウォーカーで、そのコンビのありようは、映画のカラーは全く異なるものの、まるで加山雄三・田中邦衛の若大将青大将コンビの趣があった。そう言えば、若大将シリーズも歌が売り物のひとつで数多くのヒットソングを輩出したが、『十四夜の月』のタイトルソングは、今なおインドの人々に歌い継がれているそうだ。ただ、僕が観たどの作品も、近年観る機会の増えてきた最近のマサラムービーと比べると、歌のほうではあまり遜色がないけれど、踊りのほうは随分と物足りない。それが時代的なことのせいなのか、あるいは、グル・ダットの作品が、娯楽映画という観点からはシリアスで作家性に富んだ、言わば中間的な映画だったからなのかは、僕の知見が及ばないけれど、いずれにしても今回の特集上映の過半数を観逃す結果になったのは、なんとも残念だった。



参照サイト:「高知県立美術館公式サイト」より
https://moak.jp/event/performing_arts/post_166.html




推薦テクスト『紙の花』: 「マダム・DEEPのシネマサロン」より
http://madamdeep.fc2web.com/kaagaz_ke_phool.htm
by ヤマ

'02. 5.18.&19.& 6.1. 県立美術館ホール



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