『暴力恋愛』を読んで
雨宮処凛 著<講談社>


 あとがきに恋愛対象の評価くらいによってしか自分を確かめることができないこの時代に対して、居心地の悪さを感じてもいる。(P230)と書きながら、自分自身の価値や評価のすべてを相手に委ね、それが思ったとおりに満たされないと死にたいくらいの不安に取り付かれてしまう(P230)著者が、彼女の出演したドキュメンタリー映画新しい神様の土屋監督をモデルにしたものではないと明言しつつも、ドキュメンタリー映画への出演などをモチーフにしたことを表明してもいる小説だ。

 映画の『新しい神様』という作品は、こだわりや自信を持てるほどの自分がないからこそ、信じ帰属できる物語がほしいのだと言い切る雨宮処凛の言葉の力が圧倒的であると同時に、それが“表白と対象化のツールとしてのカメラ”の持つ力によって引き出されたものであることを痛感させてくれる映画だったのだが、さればこそ、そんな強力なカメラなるものを向けた作り手との映画作品の外側での関係性のありようがとても気になってくる類の作品だった。

 だから、小説のなかの私(みか)が撮影中の関係と撮影後の関係において二人の間にあるどうしようもない時差(P51)に苦しみつつ、寄り添いの位置から自分を守るために全部を相対化しようとする人間ってホント虫唾が走るよな。なんでどうにかしようとしないの? なんで自分の中でも外でもなんでもいいから問題の原因見つけようとしないの?(P50)とまで言う突き放しの位置に変化していることに対しそして私は、まだ対等に接してくれていないときの達也君を知ってしまっている。私が好きになったのは、私を撮ってくれていた達也君なのだろうか。でも、あの時の記憶が、私を達也君に執着させてしまう。もう一度だけ、あんな視線を私に向けてよ。(P52)と零している姿に痛ましさを覚えると同時に、そういった顛末に決然と対処できないで、ある意味、誠実に或いは腐れ縁的に離れられないままDVさえも交えた関係のなかで俺だってこんなことしたくない。俺だって追い詰められてるんだ。もう、許してくれよ…俺たち、出会わなければ良かった…(P148)と達也が言うような状況に至っていることの怖さもまた、カメラの力がもたらしたもののように感じた。

 それにしても私はいつも意味にばかりひっかかって、その先を一歩も進めなくなる。その後は、意味と無意味の堂々巡り。ずっとずっと、いつもこうだ。だから、意味や理由を与えてくれる人がいると安心する(P135)私なればこそ、“自分探し”を主題にしたようなドキュメンタリー映画への出演が大きな意味を持ったのだろうが、ただひとつわかったことは、メディアに出る、注目を浴びる、スポットライトを浴びるという行為が、ある種の生きづらさをやわらげてくれるっていう恐るべき事実だ。どうしてそんなことが基準になるの? どうしてそうしないと自分に価値がないって、肯定されないって思うの? どうしてそんなことで人の価値が変わるの? そう思って、愕然とする。私こそが、誰よりもそういう考えの持ち主だから。いつも、どこかそんな目で人を見ている。そしてくだらないと蔑みながらも、メディアに出るという行為が、私にとてつもない癒しみたいなものをもたらしてくれたから。私はそれで、どこか決定的に満たされてしまったから。そしてそれは、メディアにしかできない芸当だってことが本当によくわかったから。(P213)とまで言い切っているところが考えさせられる。つくづくメディア社会なんだなと思う。

 そんな(…誰も目を向けてくれない…)私の前に、達也君がカメラを持って現れたのだ。(P46)との一文に“カメラ”が掲げられていることの意味には、描出以上のものがあったような気がする。ちょうどこの本を読んでいる最中に銀座でYOYOCHU SEXと代々木忠の世界を観たのだが、代々木忠のカメラの前で自身を曝け出した人たちにとっての彼は、いかなる存在だったのだろうと思うと共に、カメラを持って対象に肉薄することの怖さのようなものを感じた。達也君が好きなのは達也君だけだ。そして私は達也君が好きだ。情けない。(P37)などと感じさせることなく丸ごと引き受けるのは不可能に決まっているのだから。
by ヤマ

'11.02.11. 講談社単行本



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