油谷炭鉱跡  探検: 北の細道 油谷炭鉱跡

油谷炭鉱でレオ式選炭機を見る




北海道芦別市

  ヨーロッパ資本主義経済の原動力となったのは、
言わずと知れた蒸気機関であり、その根底は石炭産業によって支えられてきた。
同様に明治後期以後の日本の近代化を支えたのも石炭産業であり、
昭和30年代の道内炭鉱数は150以上にのぼる。

芦別では明治30年前後から採炭が進み、ピーク時には47の炭鉱が稼働していた。

しかし、戦争と炭鉱は切っても切り離せない環境にあり、
大戦と共に不況と軍需が繰り返し、芦別の炭山も比例して栄枯盛衰となる。

戦後の芦別の石炭産業のベースとなったのは、「芦別五山」と呼ばれた、
三井芦別三菱明治高根・そして 油谷(ゆや)炭鉱であった。
鉄鉱と共に重点産業に指定された石炭は、再び戦時下の特需を迎えて
「黒ダイヤ」と称され、炭鉱町は繁栄を極める。

ところが昭和30年代後半になると、石炭から石油への転換、
つまりエネルギー革命の余波を受け、大規模な合理化と整理、
政府による取捨選択である、スクラップアンドビルドの甲斐も空しく、
昭和38年から昭和42年にかけて、芦別五山の内四山が閉山を迎える。


大正中期から採炭された油谷炭鉱は、水害等により昭和2年に中止、
その後、昭和21年から資本をもって、再開発が行われる。
当時は鬱蒼とした原始林で20数年間放置された鉱区は荒れるに任せていた。

その後旧軌道跡に道路を開拓、5,000t/月級の索道の建設も進む。

更に「第二の夕張」と称された芦別炭鉱は、昭和24年に油谷より更に北の、
辺渓三坑まで芦別鉱業所専用鉄道が敷設され、分岐した油谷坑まで、
国鉄線の蒸気機関車がアクセスすることとなる。

周辺住民はこの喜びに積雪の中、日の丸旗を手に完成間近のレオ式選炭所付近に集合したようだ。
その後本格操業に入り、困難であった自動車送炭や索道運搬もすべてが軌道送炭に切り替えられ、
良質炭の出荷も相まって、小樽・室蘭経由で製鉄所等に出炭されることとなる。

しかしながら前述のエネルギー革命により、石炭市況の悪化が進み、
昭和40年3月をもって、従業員230名の油谷炭鉱は閉山を迎える。


採炭したままの原炭から不要な鉱物を取り除き、
塊・粒・粉などの粒度別に仕分けし、市場性の高い「精炭」に仕上げることを選炭というが、
水力を利用しその比重差で選炭する方法の中で、
中塊以下の原炭を処理するバウム式水選機に対して粉炭を得意とする、
レオラボール水選機は幾春別を皮切りに、 夕張本坑真谷地等でも採用された。

今回この、レオ選炭機の遺構に出会うこととなる。




選炭所・温泉・梯子・・・


レオ水選機
( ̄u ̄;)レオ水選機



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