水銀→カオリン→ゼオライト

道東十勝の上士幌町では毎年、夏に熱気球の大会が開催される。
大会では指定された畑のターゲットに、上空の気球から砂袋を落とし、
その近さを30機以上で競い合う。 上士幌


熱気球は人類が世界で初めて空に飛び立った乗り物だ。
日本では北海道で昭和44年(1969)に初飛行が行われ、
ここ上士幌町では昭和49年(1979)から北海道バルーンフェスティバルが行われている。 熱気球


旧鉱に向かい廃林道を進む。
『満州事変』(昭和6年(1931)〜昭和8年(1933))前後から、
特に軍部の支持を得て総合大企業となった日産コンツェルン・日窒・ 日曹のうち、
日窒、つまり日本窒素肥料株式会社は化学工業界の雄となりつつあった。



しばらく進むと付近にはズリ山のような一角がある。
子会社の日窒鉱業は昭和12年(1937)樺太の炭鉱採掘と 石炭液化を目的としたが、
致命的な断層発見により本格着工前の撤退を余儀なくされた。 ズリ山


露天掘りの痕跡が色濃く残る。
同時期にここ、勢多付近の水銀鉱床売込の話が持ち上がり、
当時水銀は艦底塗料や起爆剤としての需要増が見込まれていた。 露天掘り


随所に平場があり、建屋があったのかもしれない。
当時水銀は奈良県と天塩でわずかに生産されているだけであった。
輸入に頼る重要資源の確保のため渡りに船と日窒は売り込みに応じる。 平場


付近の開発は昭和13年(1938)からであり、
萩ケ岡駅に向かっての鉱山道路敷設が付近農民の出役で施工され、
駅前には新社屋兼倉庫が建設された。 ズリ山跡


軌道が存在したのか人工的な切通しも残る。
日窒鉱業の最盛期には社員社宅だけでも100戸近くが立ち並び、
萩ケ岡駅前もかなりの賑わいであったという。 切通し



露天掘り跡をよじ登る。
日窒鉱業の特産品は軍需品とは言いながら、自社消費に使用されていたが、
太平洋戦争の激化に伴い水銀需要の増加と統一経営体制確立のため、
国営の帝国鉱発会社が設立された。 鉱床


昭和16年(1941)にはこの国策会社に経営を委託することとなり、
一部の社員は出向として現地に留まった。
昭和18年(1943)には金山整備法で休山した 生田原鉱山から多数の移動入山があったという。 ズリ山


露天掘り鉱床にはレールが埋没している。
国策会社として一躍脚光を浴びたものの、
終戦とともに鉱発会社は採算が取れず閉山を迎える。 レール


運搬軌道は9sf級のレールのようだ。
国策会社は初めから企業として採算のとれるものではなかったし、
戦時下の使命を負い、経営に乗り出したに過ぎなかった。 9s


更に上部にはズリが大量に積まれた一角がある。
当時の国産水銀は非常に希少金属で、
その生産の80%が イトムカ鉱山産で占めていた。 ズリ


周辺にはヒグマの足跡が散在している。
本坑の鉱石含有率は3%以下であり、
その貧鉱開発に膨大な失費を払って国策会社が操業したのである。 ヒグマ


上流の別鉱床付近では沈殿池跡が残存している。
敗戦と同時に国策会社の財産計器一切は軍需概査ということで、
進駐軍の命令で資産凍結を受けることとなる。 沈殿池


鋼製の鉱山遺構が残る。
閉山当時の従業員数は210名であり、家族を含めると1,200名にのぼった。
当時空前の労働争議が勃発し、収束まで相当な時間と労力がかかったようだ。 遺構


かつての鉱山道路のような道も残る。
各種塗工紙の材料であるカオリンは帝国鉱発が水銀採掘中に発見したものだ。
当時は軍需のための水銀生産に拍車のかかる時代であったため、
カオリンの発見後もそのまま放置されていた。 鉱山道路


比較的新しい石垣がある。
戦後、進駐軍の調査により優秀なカオリン鉱石であることが発覚したが、
戦後の物資不足は紙の分野にも及び、依然として採掘が進む状況ではなかった。 石垣


下流の鉱床にもレールが残っている。
開坑当初は50坪程度の製錬所一棟、飯場一棟があっただけだったが、
企業買収の翌年、昭和13年(1938)から日量100t処理の浮遊選鉱場の設計が行われた。 レール


   斜面の一角で製錬所の発見だ。
選鉱所は初段階で鉱石を細かく砕き、泡や比重差で有用/不有用をより分ける施設。
製錬所は鉱石から金属を取り出す工場で熱や薬を使って選鉱後の鉱石を処理する。
対して精錬所は製錬後の金属鉱石を電気や化学反応を用いて純度を高める工場だ。
つまり工程としては選鉱→製錬→精錬となる。 製錬所


着任した鉱業所所長自ら米国の資料を基に、
尾根の山頂から崖下までに階段状の製錬所として設計、
そして竣工したのが、昭和13年の秋であった。 精錬


ところが大規模製錬所は不幸にも昭和16年1月24日に最下段の製錬施設から出火、
消火の手の施しようなく、完全焼失した。
わずか2年の稼働である。 製錬


しかしながら当時戦局拡大は必至の状態にあり、
製錬所再建は直ちに着手され、
昭和16年秋には再び操業を開始している。 施設


製錬法は水銀が比較的低温で気化する特性を利用する。
原料である 辰砂 は200℃で気化が進み、
350℃で大部分、500〜600℃ですべてが気化する。 精錬法


つまり製錬工程は乾式製錬と呼ばれる加熱炉を使用し、
その際、飛散を防ぐ物質で化学反応を促進しながら、
気化した水銀は冷却筒を通して析出、流れ出たものを回収する。 製錬方法


尾根の最上段に運ばれた原鉱石は自動で重量を計り、
その後 「トロンメル」傾いた円筒内に金網があり、回転振動しながら 内部の鉱石粒度をふるい分けする装置 「ボールミル」回転する円筒内に鋼球と鉱石を入れ鋼球の落下衝撃により 鉱石を磨り潰す装置 といった粉砕装置で鉱石の粒度(粒の大きさ)を
50o以下、19o以下、6o以下などに揃える。
その後は斜面の傾斜に従い下部へ運ばれる。 摩鉱


大きさを揃えた鉱石はその後加熱炉へ投入される。
加熱炉には球状の容器部とそれに直結した長い側管からなるレトルト炉、
焙焼炉 のような直立炉、 ロータリーキルンなどが あり、ここ十勝鉱山ではレトルト炉が使用された。 加熱炉


設備が単純なレトルト炉は鉱石の平均品位が1〜2%と高い場合に用いられ、
鉄製のレトルトを塗りこめた炉の一端から精鉱(選鉱後鉱石)を投入し、
管の先は凝縮炉(コンデンサー)に接続する。 レトルト炉


炉は下部から石炭などで加熱し、
発生した水銀蒸気をドラフトファンと呼ばれる送風機で凝縮炉(コンデンサー)に送り込み、
冷却して 「凝結」気体中に分散している微粒子が集合し より大きな粒子となって沈殿すること させる 。 骨


通路のような隧道はすぐに埋没している。
レトルト炉中の辰砂の分離過程は酸欠の中で行われ、
傾斜部に水銀が冷却析出する。 隧道


冷却析出した水銀は『スート』と呼ばれる少量のダスト(ゴミ)を含んだ混合物として集積する。
純粋な水銀を得るために生石灰を混ぜるのだが、
その分解反応は4HgS(硫化水銀)+4CaO(生石灰)=4Hg(水銀)+3CaS(硫化カルシウム)+CaSO4(硫酸カルシウム)となる。 廃鉱


平場にはドルシックナーの遺構が残る。
処理水に混合した微粉をより分けて回収する装置だ。
排水中に浮遊する水銀を回収するため、
シックナーからの溢流廃液は繰り返し使用される。 選炭所


水銀製錬のロスには焼滓、廃液、排ガスに残留するものがあるが、
焼滓残留物は0.1%と問題にならず、廃液は上記処理、
排ガス中のものはコンデンサー内の洗浄液を沈降促進剤を用いて沈殿槽処理する。 廃水


墓標のような遺構が残る。
正常な蒸留過程を妨げる物質がヒ素であり、これは凝縮システム内に沈殿する。
気化した水銀の移動を妨げるので、
蒸留設備の各接合部の密封を厳重にする必要がある。 墓標


近隣には鉱山施設の跡らしき遺構がある。
本坑の南東2qにはかつて金鉱を探鉱した跡があるらしいが、
現在となってはその位置もわからない。
かつてはマカセップ川の水を利用して水車で砕石してたという。 遺構


過去には付近に鉱泉があった記録がある。
ここは藪の奥の沢沿いに湯気の出ている一角があり、
恐らく記録の温泉だと思われる。 温泉


こちらは付近の社員寮のような廃墟だ。
カオリン鉱山時代も昭和27年頃から盛況で、
昭和30年(1955)には水簸(すいひ)工場が建設され精製が行われた。 社員寮


昭和45年(1970)の従業員数は53名で、
常雇49名、うち女性が10名とそこそこの規模があったようだ。
これは当時の遺構かもしれない。 鉱山跡


食器棚や茶わん類も色濃く残る。
昭和42年(1967)には原因不明の火災により内部設備が延焼、
すぐに復旧したものの、水銀坑時代の製錬所火災の既視感のようだ。 廃墟


ロビーの作りが昭和の佇いだ。
昭和14年(1939)には旅館の経営もあり、『水銀ホテル』と呼ばれたその建屋は、
十勝唯一の地下資源所在地でもあり、利用度は高かったという。 廃鉱










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