花は桜木  前編  
     
                                                   髙崎靖士  
 
  前編
   (序章から第十章まで)



    序 章

 
鳥ヶ淵の桜はいつものように美しい。雑踏の中で私は酔いしれていた。靄ったお堀は、花びらが敷きつめられているかのようだ。通路は、桜の中を泳ぐ人々で埋まっていた。私は立ち止まり、妻の美佐子の手を握りしめながら何処までも続いているかのような桜のトンネルに見惚れていた。だが、急に暗闇が迫ってきた。何が起きたのか。手を伸ばしたが何にも届かない。暗黒であった。どれくらいの時間がたったのだろうか。ぼやけた目の前に無機質な薄いベージュ色の天井が広がっていた。ここは国立がんセンターB棟の一室だった。「夢か・・・」 嫌な夢だと思った。まだ窓の外は明るく、夏の陽光が差し込んでいる。
「目が覚めたの?よく眠っていたわね。」
美佐子の大きな目がそこにあった。
「何時だ。」
「まだ三時半よ。」
 
治療が始まってから三日目。ここ十一階からは、隅田川の下流と東京湾が見渡せた。やや霞んではいたが、お台場の奇抜で不可思議な建物、湾を行き交う船々が目に映った。痩せ衰えた身体には寝返りするだけの力もなく頭だけ回し、
「もう、桜は見られないのかな。」
美佐子は、珍しく語気を強めて言った。
「馬鹿なことを言わないで。あなたがいなくなったら、お花見なんかどうでもいいのよ。」


    一

  私のお花見好きは、五年前に九十二歳で天寿を全うした父の影響である。職業軍人だった父は、敗戦で全てを失った。私は、福岡県小倉(現在の北九州市)で昭和十八年十月に生を受けた。しかし、第二次大戦終戦の前に、姉兄と共に母の実家のある熊本県城北の片田舎に帰っていて、小倉の記憶はない。物心ついた頃には、江戸時代から周辺の物資の集散や京大坂の文物の搬入、さらにはご禁制のはずの海外の船による到来物等で賑わい、舟運で栄えた高瀬という町に住み、父母はささやかな文具店を営んでいた。町には菊池川という大河が流れている。この川が繁栄の基礎だった。川には、江戸時代の初頭に肥後一国を統治していた加藤清正が、治水の為に築いた石垣が数多くあり、梅雨時を中心に襲う猛烈な多雨と洪水に悩まされていた人々を救っていた。その石垣は上流から、一番わき、二番わきと呼ばれている。わきがどういう字を書くのかは、今も知らない。治水の方法は後で知った事だが、甲斐の武田信玄による信玄堤に酷似しているらしい。川の両岸の桜は素晴らしく、この町や近辺の人々には、その季節には最高の娯楽を提供する場所となっていた。酒飲みには酒飲みの、女性には束の間の休息に。そして、走り回れる空間を堪能出来る子供達にとっても。だが、父は花見客で賑わう満開時を避け、散り際を好んだ。堤も川面も花びらで埋まり、なおも桜は散って行く。散り急ぐように、恰も他に負けないように。
 
酒を一滴も飲めない父は、左手に甘納豆の入った紙袋を提げ、右手で私の手を握り、立ったまま散り行く花を凝視していた。おぼろげな記憶だが、見上げると父の目は潤んでいるようにも見えた。帰途、甘納豆を食べながらいつも同じことを言った。
「靖士。花は桜木、男は武士よ。男は桜のように生きねばならんぞ。潔く美しく。事に臨んで臆せずに、くよくよせんで。」 


    

 還暦を過ぎた翌年、年の初めから身体の異常を感じていた。好きだったビールを飲むとむせるようになり、咳が限りなく続いた。春先には食べ物もほとんど喉を通らなくなっていた。歩くのも辛い。頑健だけが取柄だったのに。会社の同僚も病院に行けと勧め、美佐子は懇願したが、依怙地な私は妙な理屈を述べては拒んでいた。自分ではそう思いたくはなかったが、臆病であったのかも知れない。それでも私はお花見に出かけている。美佐子は何かを感じていたのだろうか。四月初めの夕暮れ、止めもせずに明るい表情でついて来た。九段坂の下は、早や暮れなずんでいた。美佐子は、私の右腕を支えるというよりは抱え込んで坂を上った。見た目には仲の良い夫婦に見えたのだろうが。
「いつ来ても、ここの桜は綺麗だけど、今年は今までで一番素敵ね。」
彼女は少女のような声を上げた。いつもの私なら、「おまえは毎年、同じことを言うね。」と嫌味を言うところだが、私の目にも格別に美しく映った。この時期としては暖かい夕べではあったが、身体が急激に冷えて行くのを感じていた。
 
六月下旬、疲れ果てた私は帰宅中にC市の駅構内で倒れた。救急車で運ばれた病院で、意識を失くしていたが多くの検査を受けたらしい。何時間たったのだろうか。無精ひげを生やした医師は、横たわる私に「がんセンターへ行く意思はありますか。」と聞いた。がん告知を患者にすべきか否かという哲学的問題は、そこには存在していなかった。
 
がんセンターで再び多くの検査を受け、仮病棟に横たわっていると、担当のM医師はこう宣告した。
「進行性食道がんステージⅣです。外科手術は不可能です。」
気丈な美佐子もさすがに泣き崩れた。しかし、私は死の恐怖を余り深くは感じていなかった。「人間ってわりに早く死ぬものだな。おふくろも四十五歳で死んだし。」
ただ、恐怖は別の処にあった。過去に見聞きしてきた、がん患者の闘病、ベッドに縛り付けられたままの死に至るまでの治療。放埓で、自分勝手な私には耐えられそうにない。何故か、怒りが込み上げてきた。
「先生。手術をして下さい。喉を掻っ切って、がんを取り除いて下さい。その為に死んでも私は誰も恨みません。」
 
すると、まだ三十半ばであろうか。温厚そうなM医師の眼鏡の奥の細い目が光った。
「これは、貴方が死ぬとか死なないとかの問題ではない。医師としての良心。いや、そうでもない。人間としての、お互いの義務ではないか。抗がん剤と、同意が得られれば新薬も投入します。放射線での治療も勿論やります。でも、完治率は十五パーセントぐらいでしょう。後は、あなたの病を克服しようとする気力次第です。」
これに反論する言葉はなかった。
 
四人部屋に正式に入院した。こまごまとした注意を受けた後に、体重計に乗らされる。七十キロに近い身体で馬力自慢の私だったが、表示された数字は四十八キロ。戦慄して体重計を踏みしめた。だが、無情にもその数字は少しも動いてはくれなかった。
 
病院の朝は体重測定に始まる。重病人以外は、病室を出てナースセンターの横にある体重計に乗る。これは苦痛だった。入院後も、私の侵された食道は食べ物を通す事を拒んでいた。それは、僅かの水さえも。既に四十六キロを切っていた私は、測定に向う時、激しい尿意に耐えた。一回の排尿で、おそらく二百㏄くらいを排出し、二百グラムくらいの体重減となろう。病人の心理は不思議なもので、これ以上痩せたら、いや四十キロを切るようになったら、精神的に生きては行けまい。その思いがさせたのだろうか。まるで、学校の理科教室にある骸骨標本の状態となっていたが、体重は、それ以上減る事はなかった。これ以上削り取るものがなかったのだろう。ベッドに戻ると検温である。自己管理の為に、管理表が枕元に置かれていて、細かく記入する。一日三回の検温。体重。三度の食事の摂取量(パーセントで書く)。小水の回数。排便の回数と量。これらの一部は私を悩ませる。六時半頃、看護師が、にこやかな表情で朝の挨拶をしながら現れる。いろいろな機材を乗せた手押し車を押しながら。血圧測定、脈拍、採血。また、サーキュレーションモーターとかいう洗濯バサミみたいなもので、人差し指を挟まれる。血中酸素の量を測るという。彼女らは皆、明るく優しい。
「お元気のようですね。頑張って下さい。」
しかし、私は入院時に見せられた、おぞましいほどに食道を侵食していた患部の、あの映像を思い出していた。「あれが消えることはあるまい・・・。」彼女達の柔らかな視線も、死に行くものへの憐れみに感じられた。八時に朝食が出るが、喉を通らない。頼りは二十四時間支配している点滴なのか。だが医師はこう言った。
「食べなければ駄目です。点滴だけでは体力は維持出来ません。」
点滴器には二台の輸液ポンプが取り付けてあり、かなりの重量があった。点滴器に終日拘束されていて寝返りすらままならなかったが、強い味方でもあった。トイレに向う時、放射線治療で地下二階に向う時に、支えとなってくれた。彼を「お供」と呼ぶ事にした。長い入院生活では、お供も大切な存在であり、たまに治療の都合で外され、ナースセンターへ持って行かれると淋しささえ感じた。
 
天井を見ての毎日は、頭が冴えきっているようでもあり、朦朧としているようでもある。起床時間もあり一日のスケジュールもある。窓の外は明るくもなり、陽が落ちれば暗くもなる。しかし、ここには本当の時間はない。思い巡るは、過去の思い出。これも死の予感からであろうか。故郷の日々から始まり、東京での慌しくも、意味のないような生活。他人に迷惑ばかりかけた人生への遅すぎる反省。そこに、五日目の夜中だった。天井に大きく父の顔が現れた。夢かと思い目を凝らしたが、確かに父の顔があった。そして、肥後弁でこう言った。
「靖士。人間は桜の如く、潔く美しく散らねばならんぞ。しかし、『のさり』というものがある。それに逆らってはならん。」
『のさり』とは、人に与えられた運命とでもいうべき肥後弁であろう。この桜と『のさり』が闘病生活の大きな支えとなって行く。 


    

 父は、有明海の干拓地の漁村の三男として、明治四十二年に生まれた。有明海は日本一干満の差が激しいが、清正の時代から明治まで干拓が進んでいて半農半漁だった。祖父の時代に入植したようだが来歴は明らかではない。肥後人は偏狭ではあるが、他を受け入れるには寛容である。江戸時代、国境は豊後、筑後、薩摩、日向に接し、関所があり、薩摩に代表されるように厳しく入出国が取り締まられていたが、肥後へ入るのはフリーパスであったという。実家は田畑は少なかったが、有明海の恵みが豊かで、父は不自由なく逞しく育って行った。しかし三男坊である。他に職を求めないと、いわゆる部屋住みで終り、嫁も娶れない。資力のあるなしというより、当時は中学に進める子供は、村には一握りもいなかった。そこで、父は高等小学校を出ると、教職をめざし師範学校の入試に挑んだ。学業は常にトップだったそうだが、見事に不合格となる。後年この話になると、落ちた原因は、君が代を歌えなかった為というが、真偽は明らかではない。もっとも、彼は音痴という表現すら当てはまらなかったのは事実である。鼻歌すらも聞いた覚えがない。多分、君が代の歌詞を知らなかったのではないか。それなら納得できる。時は大正末期。不安定ながらも大正デモクラシーの明るく見えた時代から、暗黒の昭和に日本は向っていた。それを知るや知らずや、父は陸軍に志願した。その時の心境を聞くと、「どうせ徴兵されるんだから、志願したほうが得だと思ったんだ。」と笑っていた。父は頑健な身体に加え、後年では考えられぬような要領の良さを持っていたようで、軍隊内で頭角を顕して行く。昭和三年十一月の昭和天皇の御大典に、隊を代表して上京し、参列したのが自慢であった。軍隊時代の思い出話はここから始まり、際限なく続く。聞き手はだいたい私である。一般的には、軍隊生活は過酷なものといわれている。しかし、父が語る終戦までの数々の話は生き生きとしていて、不思議に楽しいものだった。二度の出征。輝かしき戦果。勿論、その裏には多くの尊い生命が失われ、幾多の犠牲があったのだろうが。しかし、歴戦の英雄であり栄誉ある武勲をものにし尊敬を集めていた父は、敗戦により全てを失った。戦後の父の生き方は、その反動からか不器用に思えた。やはり彼にとっての軍隊生活とは、戦場すら天国であったのかも知れない。


     
 

 私は、健康というよりも体力に自信があった。病院にはほとんど行かず、薬も飲まない。少年の頃からスポーツや遊びで怪我や骨折をしても、親や周囲には内緒で我慢して回復してきた。しかし、今度の変調は今までと違うとは感じていた。食欲がないというより、食事の時間が来るのが嫌になったのである。ビールや酒類も喉は拒絶する。練り物や揚げ物は見るだけで気持ちが悪くなった。それでも病院には行かない。熊本県人の、いわゆる肥後モッコスの最も悪いところが出たのであろう。県人の名誉の為に言えば、そんなものは存在しなくなったと言うべきかも知れない。だが、私にはそのまま残っていたのである。
「肥後モッコス」響きの良い言葉である。一般には、頑固一徹、自説を曲げない、損得を考えて行動しない、等と何やら九州男児の典型の如く美化されているが、実際は違う。「頑迷固陋、視野が狭い、他の意見を聞かない、性あくまで狷介」少なくとも私に関しては。
 
明治時代の熊本の教育者、佐々友房氏はその書にこう述べている。(抜粋)
「熊本人士は、敦厚、懇篤なり。方正、律儀なれど荘重なし。質朴、倹素なり。気骨腕力あり信義礼節を守り、名節、廉恥を重んじる。理論に長ぜり。虚誕ならず、浮誇ならず尚武の風あり。頑固、偏癖なり。遅鈍、迂闊なり。愚直、潔癖あり、窮屈、狭隘なり。機敏ならず機略なし。豊満ならず、雄大ならず、寛弘ならず。耐忍力なく団結力に乏しい。小康曲謹の人多く、偽君子の風あり。退守に偏し進取に適せず。理屈多くして実行に疎なり。」
 私ならずとも、熊本県人がこれを読めば腹がたつだろう。当たっているだけに。また、女性については、こう記されている。
 「肥後の猛婦は気性激しく、自立的、積極的、自己主張が強い。」これも当たっている。平たく言えば、男はどうしようもなく、女はしっかりしているという事であろう。この文は明治中期に書かれたものだ。このままでは、熊本男児は現代社会に向かず、時代に取り残されて行くのではないか。佐々氏が見抜いた肥後モッコス精神は、現代も城北を中心に色濃く残っている。
 
それは肥後人の血によるものか、大きく言えば民族的あるいは種族的なものなのか。どうもそうではないらしい。肥後は歴史が古い。私の育った地も日本書紀に記されている。玉杵名の里とある。景行天皇にまつわる遺跡や、装飾古墳、神社が今も各地に多数有る。その頃より、既に肥後モッコス精神は育まれていたと思われる。歴史を見るに、なかなかまとまらなかった。俗に鹿児島提灯、熊本鍬形(薩摩提灯、肥後鍬形とも)という。そして現代まで、一人一党で損得を顧みず、損ばかりしている。哀れむべきは、それを哀れとも思わず変えようとしない処にあろう。時代が進み、多くの土豪が黟集する中、鎌倉幕府の成立に伴い、地頭が送られてきた。武勇抜群と謳われた武蔵八党の一、小代氏である。その支配に対し、土豪たちは猛烈に抵抗したが、ほとんど滅ぼされている。集結せず、それぞれ勝手に戦った為だろう。南北朝時代から戦国時代と抗争は絶えなかったが、絶対的権力を有する守護大名も戦国大名も出ず、川筋や谷あい山奥に中小の土豪が乱立していた。周辺の龍造寺氏、島津氏、大友氏の軍勢に蹂躙されたが、それでも、まとまろうとはしなかった。豊臣秀吉による天下統一が見えて来て、九州征伐。この地にも平和が訪れたかに思えたがそうではなかった。肥後一国は猛将佐々成政に与えられた。秀吉は、さすがに肥後を統治する事の困難さを見抜き五箇条の定め書を渡している。その一つだった検地を実施しようとした為、国人たちは一揆を起こす。激怒した秀吉は小早川氏、立花氏・隈部氏等の大軍を送り、叛乱は鎮圧された。肥後の国人千余人の首が刎ねられた。勿論、全て肥後モッコスだったろう。そして加藤清正が治める事になる。清正は天下に隠れもなき勇将であり、さすがの肥後人も大人しくなった。清正は今も「せいしょこさん」と呼ばれ尊崇されている。加藤氏の改易後、細川氏が入封。太平の世となったが、肥後モッコスは根強く生き残った。かかる歴史の中で、古くからこの地にも多くの他国人が入り、住み着いたであろう。他国の人情・考え方・行動・文化がもたらされたはずである。しかし、「モッコス」は変わらなかった。考えるに、これは血のなせる業ではないようだ。一種の風土病ではないか。この地の土を踏み、空気を吸うと、男達はこの風土病に罹るようだ。そして、なかなか治癒しない。私も、十八歳で上京した後は、帰省することも少なかったのに、都会の繁華も、文化も、雑踏も、生活の便利さ煩わしさも、この風土病を治癒する事は出来なかったのである。


     

  十時過ぎには美佐子が現れる。彼女は、私の入院に伴い、大好きだった職場を退職し、定期券を買って一時間かけ、退院までの二ヶ月間、一日も欠かさず出勤(?)して来た。心の中は覗けぬが毎日明るい笑顔を絶やさなかった。彼女は、北国は青森、津軽の出身である。津軽は歴史的に盛衰の多い土地である。三内丸山に代表される縄文時代からの日本最先端の文明。一時は抹消されていた十三湊の繁栄。弘前藩から明治へかけての素晴らしき文化。その裏返しとしての他藩や中央政府の弾圧。三年おきには襲ってくる山背による飢饉。豪雪。しかし、津軽人は底抜けに明るい。男衆のなかには「ぼっけもん」と呼ばれる人達が多い。自説を曲げない「モッコス」的な意味だが、議論をしても、解決に向う点が肥後と違うようである。お祝い事があって訪れたある冬の二月。その年は豪雪だった。こんな雪は私としては初めての経験だ。その夜は大宴会となり痛飲したが、朝は早くも明けて来た。終日、暖房をされてはいるが階段を下りてトイレに行くのは寒い。居間や食堂を覗いても誰もいない。まだ寝ているのか。すると玄関先や道路に人の気配がした。しかも激しい息使いが。従弟二人が二メートルもあろうか。積もった雪の中で、黙々とでかいスコップを振るっている。
「靖士さんもやりますか。」
南国育ちのやわな身体というよりも、精神的にとてもできないと感じた。朝食を摂りながら聞いた。
「雪かきは毎朝なのですか。」
「雪が解ければ、終わりだはんで。」
従弟達は屈託なく笑った。女性はしっかりしているが、男性をたてる。雪国ゆえの知恵であろうか。穿った見方をすれば、あの雪かきのせいか・・・。美佐子がそういう津軽女の典型であるかどうかは分らないが、明るく前向きである。私と違い、社交的で愛想が良く(意識的でもあったろうが)医師、看護師、同室の患者とも、すぐに仲良くなった。
青森の事を思い出すと、やはり、自らの郷里に繋がる。
私は、口癖みたいに毎日言っていた。
「熊本に一度は帰り、あの地を踏みたい。皆にも会いたい。」
「動けるようになったら、必ず連れて帰ります。」 
この目的を果たそうという思いが、挫けそうになる美佐子の心を支えていたのかも知れない。
 
昼食が終わると、二十四時間の点滴に加え、一時間の新薬が投与される。排尿の量を厳しくチェックされるのは、これによる腎臓障害の副作用を恐れてのものらしい。もっとも、抗がん剤と放射線の副作用については、医師や看護師、おまけに訪れる見舞い客にまで、くどいぐらいに聞かされていた。いわく、嘔吐が激しくなる。頭髪が抜ける、口内炎になる、首が黒ずむ、胃に障害が起きる、便秘または下痢を起こす等々。これでは、何かなければ悪いみたいである。結果から言えば、副作用は奇跡的にほとんど出なかった。二時になると美佐子とお供に連れられて、地下二階にある放射線治療室に向う。外は炎熱の七月だが、冷房のせいもあろうが冷え冷えと感じられ、テレビドラマで見る霊安室を思わせた。話で聞いていたのと違い、治療は数分で終わる。放射線技師の説明によると、ピンポイント照射とか。治療開始の日に見せられた患部の断面写真には、多くの赤丸が記されていた。
「気管とリンパ腺に転移しています。幸いにも臓器への転移はないようです。これらは必ず消して見せます。頑張って下さい。」
 
担当医の慎重さと違い、技師の言葉には自信が満ちていた。でも、どう頑張ればいいのだろうか。部屋に戻ると窓の外は眩しいぐらいに明るい。
「暑そうだな」
「メチャクチャよ。貴方は快適な冷房の中。いい休養よ。」
美佐子の変わらぬ口調と表情に、口には出せないが苛立ちを覚えた。夕食が終わると、七時が面会の最終時間。
「何か欲しい物がありますか。」
何もなかった。欲望のない生活も気楽なものだ。そんな考えは今までの私の人生にはない。やはり、最期に向っているからだろうか。美佐子の後姿が淋しく見えた。後は、時間のない夜が始まる。すると不安が頭をよぎる。医師は三人で早朝と夕刻にベッドを訪れる。
「治療は順調に進んでいます。」決まってこの言葉。
同室の三人の患者には多数の飲み薬が与えられ、医師も看護師も頻繁に出入りしているのに。もはや見捨てられたのか。気力が萎えていくのを感じていた。


     

昭和六年、柳条湖事件をきっかけに満州事変が勃発する。世界最強と謳われた帝国陸軍の中でも屈指の熊本第六師団、砲兵六連隊に所属していた父も、勇躍出征する。二十二歳。血気盛んであったろう。この戦いを語る時の生き生きとした表情は忘れられない。満州の恐るべき寒ささえ、楽しげに語っていた。
「一戦が終わり、ほっとした時、一人の戦友が手袋を脱ぎ柱に手をかけたが、鉄柱だった為、瞬時に凍りつき、手術を受け送還されたんじゃ。」とか。
本職だった大砲の撃ち方の説明は、微に入り細に亘った。中学も出ていない父だが、代数学には長けていた。数学が苦手な私は、よく教えを請うたものだ。
「軍隊でも数学を教ゆっとですか。」
「大砲は数学なしでは撃てん。天皇陛下からお預かりした大事な砲弾だ。文学では無理だ。」と意味不明なことを言っていたが、彼は一度も小説を読んだ事がなく文学とはまるで縁のない生涯だったので、この言葉にはうなずける。敵味方とも夥しい犠牲があったろうに、これらの話はまるで講談調で、血の臭いは感じられなかった。戦時中に起きた五・一五事件について聞くと「内地でゴチャゴチャやる暇があるなら戦地に出て、共に戦え。」と、感じたという。戦争は日本の勝利に終り、父も凱旋帰国する。実家のある漁村も戦勝に沸いた。人力車の先頭は村長、続くは警察署長、郵便局長。父はその後に続いた。前日の雨でぬかるんだ狭い村道の両側には村民が溢れかえり、日の丸の小旗を振り、バンザイ、バンザイを叫んでいた。父の得意や想うべしである。
 
こういう話を聞いている私は、まだ小学校高学年だ。でも興味深かったのか、眠気を堪えながら聞いていた。国際情勢は緊迫し、世界に背を向けて突っ走る日本は、二・二六事件を経て支那事変に突入する。昭和十二年である。二十八歳の父は少尉に任官していた。志願兵からの叩き上げとしては異例の出世だった。勿論、再び出征する事となる。ませていた私は、ここで疑問を抱いた。そして父に投げかけた。
「前の戦争で、充分手柄を立てたのでしょう。死ぬやも知れぬ戦場に何故再び行く気になったとね。」
「天皇陛下の御為、帝国人民の為、家族の為である。」
彼は、陛下や皇族の方々の名を口にする時は、背筋を伸ばしていた。それは晩年まで変わらなかった。私は、本当は父自身の為ではないかと感じていたが、口には出せなかった。戦国時代の武将のような気持ちではなかったのだろうか。農民の出で足軽となり、手柄を立てて戦国武者となり、更には一城の主一国の国主へと。
 
出征に際し、父は妻を娶る事になる。死ぬやも知れぬ戦場に赴く寸前に妻帯するとは、現在では考えられないが、当時はそれが常識であったらしい。求むる女は鍋島家の長女である。遠縁に当たっていたらしい。その家は、父の村から一里足らずだったが、草深いというより山深い処にあった。鍋島家は、その姓の示すとおり佐賀藩主鍋島家の一族である。伝によれば、この家の姫に狂気の質があり事件を起こし、当地に流れ落ちて来たという。当主は五十歳前か。端正なるも厳しい顔つきで眼光鋭く、古武士の風格があった。二十七歳で禿げ上がった頭は月代を剃ったような感じである。私には祖父に当たる。この祖父を私は大の苦手としていた。全てに厳しく、叱責されるのを恐れてこの家に行くのは嫌だったが、年に数回は訪れさせられていた。奥の間でいつも正座していた祖父は、食事中も無駄口一つ叩かない。食事を慌てて済ませる私に、叱責が飛んだ。
「靖士。皿に醤油が残っとるぞ。食べ物にかける醤油の量も分らんとは、碌な者にならんな。」
碌な者にならんという指摘は的中したが、この事で、後北条氏の故事を思い出す。名将北条氏政は、ある時、嫡男氏直が湯漬けを食べる際に、三度湯をかけた。氏政は「たかが湯漬けを食らうのに、かける湯の量も分らんでは、当家も終わりじゃ。」と嘆いたという。歴史はまさしく、その通りとなった。
 
肥後は有史以前からの阿蘇山の活動のせいであろうか。複雑な地形が多く山や丘が入り組んでいる。軍服に身を固めた父は、上官と共に昼なお暗き山道を踏みしめ、鍋島家に辿り着いた。前日、母は祖父に呼ばれ、こう告げられていた。
「明日、客人が来る。一番良い着物を着ているように。」
懇談中に母は呼ばれ、茶菓を出した。父をちらりと見たという。彼の身長は五尺三寸足らずである。この頃の成人男子としては標準的だが、五尺四寸を超えていて当時としては大女の部類に入る彼女の目には、短躯に見えたようだ。軍服姿の凛々しかるべき姿を「五月人形をチンチクリンにしたようだった」と表現している。
客が去った後、祖父に穏やかに告げられる。
「式は六日後だ。道具の足りんのは、明日ワシが町に降りて取り揃える。」
見かけのしとやかさとは違い、激しい気性を有していた肥後の猛婦だ。当然、逆らったであろうが、祖父の一言で決まった。
「おなごは、親のいう通りに嫁に行くのが一番の幸せじゃ。」
 
祝言は古式通り、村の入り口から村人の注目を浴びながら嫁入りする形で行われた。披露宴は際限なく続いた。村の成人男女は全員参加する。部落ごとに男女別々。飲めや歌へのドンチャン騒ぎだが、一時間経つと、さっと引き上げ、別の部落の人々に入れ替わるという秩序正しきものだった。前日、父は次兄と共に漁に出ている。小船に乗っての投網漁である。父も投網を良くしたが、次兄に一日の長があったらしく、艪を操った。三回のみの投網で船は魚で埋まった。クロメだ。鯔の幼魚で、関東ではイナと呼ぶ。いわゆる出世魚だ。収穫は二十貫をゆうに超えていた。祝言と披露宴の料理、刺身、吸い物、煮物、熟れ鮨は全て賄えたという。それほど有明海の恵みを人々は受けていたが、現在の漁師に聞くとクロメを見ることは稀だという。
 
慌しく祝言は終り、三日間の新婚生活の後、出征する。
「では、出発する。生まれて来る子が男であれば征士、女であれば征乃と名付けてくれ。」とのみ言い残した。英雄は寡黙で自分勝手な人でもあった。そして、一通の封書を手渡し、「じぶんが戦死した時のみ開封せよ。」との言葉を添えた。父は、家族以外には己のことを、後年まで「じぶん」と称していた。短かすぎる新婚生活だったが、非常時の人間には奇跡的な事が起きるものだ。この僅かな間に母は身籠もったのである。父が広大な中国大陸を転戦している時、女の子が生まれた。遺言(?)通り「征乃」と命名された。姉である。事変が終結し、父が凱旋した際には、もう歩いていて、初めて見る顔に号泣した。無事生還した為、例の封書は開封される事はなかった。「じぶんは、お国の為に戦死した。あなたは、いい人があれば再婚して下さい。」という内容だったそうだが、それを聞いたのは母が亡くなった後である。立派な覚悟だとは言えるが、自分勝手な言い草でもある。


     

  支那事変についても、楽しげな話し振りである。大砲を的確に命中させるメカニズムは、前の事変と同様であるが、ある日は突撃の話となった。砲兵といえども、状況により突撃を命じられる。しばしば銃剣を手に敵陣に突入したという。
「手柄を立て、しかも身を守るには、先頭に立ち攻撃する事だ。敵はまだ照準が定まっとらん。殺られるのは二陣、三陣だ。」 
ここの話には、いつも力が籠もっていた。父は、子供の頃から走力には定評があった。また、軍隊でも屈指の銃剣術の達人であったという。多くの部下を率いていたので、鼓舞する為にも先頭を切ったのだろうが、私は違和感を持った。それが分っていれば他の戦法はなかったのか。具体的には語らなかったが、部下にも多くの死者が出ただろう。二度の出征による数々の武勲も、彼らの犠牲の上にあったのではないか。しかし、父の顔を見ていると、それを口にする勇気はなかった。近くに砲弾が落ち炸裂した弾片が腹部を襲ったが、極寒の時で、厚い外套を着ていたので破片はシャツ一枚前で止まり、命拾いしたという話も幾度も聞かされた。
「戦場で大事なことは走る事と、無駄な動きをせずに素早く動く事だ。」
これは、黒澤明監督の映画「七人の侍」で、加東大介扮する侍の一人七郎次が、農民に「戦では走れなくなる時は死ぬ時だ。」のセリフを思い出し納得出来た。しかし「小便五十歩、クソ百歩」「早飯、早グソ芸の内」が軍隊用語であったという事は信じ難かった。中国がいかに広大であるかも大いに語られた。大陸の奥深く、重慶までも転戦したという。
「中国は広か。行けども行けどもきりがなか。戦闘も大変だったが、この広い大地を相手に、果たしてこの戦い、勝てるのだろうかと思うた。」と、珍しく弱音気味の言葉もあった。さらに、いわゆる○○大虐殺の時期に、父は中国のどこかにいたはずである。だが、かの事件に話が及ぶことはなかった。また、話の合間に遠くを見るような目をし沈黙した。僅か三畳の居間である。私は壁に背を預けている。その壁の遥か遠くを、確かに父は見ているようだった。何を思っていたのだろうか。この時、その目を以前に見たような気がした。それは、数年遡った小学二年生の頃だったと思う。商売は順調に行っていたが、父は信じられないほどのお人好しと無知により、何度も騙され苦い目にあい、母から叱責されていたが、この日は様子が違っていた。母は竹製の鯨尺で父を殴りながら罵倒した。「あんたなんか戦争で死ねばよかったとよ。」これはあまりなんでも言い過ぎではないかと、子供心にも思った。しかも子供達の前で。次の罵倒は「あんたが生きて帰ったりするから戦争に負けたとよ。」これは正鵠を射ていたのかも知れない。父は、鯨尺の打撃を避けようともせず、そして罵声に逆らおうともせずに、静かに遠くを見つめていた。あの目は、この日の目だった。
 
考えていたのか、まどろんでいたのか分らぬうちに、入院六日目の朝を迎えていた。病院の起床は六時だが、夏の夜は早くも明け、カーテンの隙間からは強い日差しが差し込んでいた。私は、父の口癖を思い出していた。
「花は桜木。日本男児たる者は、散り際を美しくせねばならぬ。そして『のさり』。運命に逆らってはならんぞ。」といつも語っていたではないか。だとすれば、九十二歳の天寿を全うすることが、果たして父の本意だったのか。英雄として支那事変で華々しく散るか、それが叶わなければ日米戦争に赴き、軍人としての死に場所はあったのではないか。三十六歳で終戦を迎え、その後の五十数年間は苦痛の人生ではなかったのだろうか。しかし、私は、父の遠くを見るあの目を思い出していた。そして感じた。何か違う。父が残した言葉を勘違いしていたのではないか。このままでは死ねない。少なくとも父の言葉の真意を知るまでは。この病を克服しようと初めて思った。がん(他の病気も同様であろうが)最大の治療法は本人の治ろうとする気力と、病に立ち向かう勇気にあるという。過去引きずり型人間の私も初めて前向きの考えを持ったのである。
「お早うございます。」看護師が手押し車とともに現れた。彼女達も私と共に戦ってくれているのだと確信した。
 
いつものように、十時に美佐子が現れる。屈託のないその顔を見て、私は急に思いたって言った。
「ランディはどうしている。」
「あい変らずよ。でも、夕方になると玄関の上がり框に一時間くらい座って待っているわ。あなたを待っているのでしょうね。でも、帰りそうにないと思うのかな。諦めて、ソファーで眠り込むの。毎日の事よ。」
 
ランディとは、我が家の九歳になる雄の飼い猫である。私はC市の駅近くのマンションに美佐子と、彼女の母と、ランディとで暮らしている。この猫を飼うきっかけは、義母の病弱にあった。やはり、津軽の生まれ育ちだ。働き詰めだったのだろうか。やや背が曲がっていて、無口で頑な人で私とは始めからそりが合わない。それが原因だとは思いたくないが、美佐子には「疲れたよ。もう死んでもいい。」と常にもらしていた。気晴らしになればと思い、猫を飼おうと言い出したのは私だった。日曜日に東京タワーの近くで行われていたペットフェアを訪れた。どうせ買うならアメリカンショートヘアーをと、珍しく大金を用意し会場に向った。そこには、人と犬猫が溢れかえっていた。ところが美佐子は、あるケージの傍を離れようとしない。真っ白だが、どう見ても貧相な子猫が、金網に張り付き鳴き声を上げている。美佐子はこの子にしようと言い張る。予算の半分以下だったせいもあろうが、やむを得ず同意した。店員の若い娘は「いいお買い物ですよ。正しい血統です。」と微笑んだ。確かに血統書は付いていたが、父がシャム、母がペルシャと日本猫のミックス。後で考えれば単なる雑種ではなかったのか。とにかく彼は当家の一員となった。美佐子と義母の可愛がりようは半端ではない。彼は今日まで、他所の地を踏んだ事がない。いわゆる「箱入り息子」である。当然、飼い猫としての自覚が欠落している。その第一は、飼い主であり主人である私に対する態度がなっていない事だ。美佐子は「貴方の抱き方や撫で方が下手だからよ。それにドラ声だし。」そうかも知れないが、九年間に亘り、触れば引っ掻く、近付けば恫喝のポーズ。まるで心を開いてくれていない。おまけに、猫のくせに食べ物にうるさい。キャットフードもブランド物のみ。バーゲンで買った物には目もくれない。私の実家も、子供の頃には多くの猫がいた。食事は残り物のぶっかけ飯。足りない分は猟をして鼠や蝉で、まれには蛇で自己調達していた記憶がある。でも、あのアホ猫も俺のことが心配なのかと、病人特有の感傷からか愛おしく思われた。あの子の為にも頑張らねば。これも病に立ち向かう気力の一つにはなったのだろう。それが勘違いであった事を知るのは、幸いにも退院してからだったが。


     

  支那事変でも父は多くの武勲を打ち立てている。十個に余る勲章は形見分けとして手元にある。この戦いの多くは、狭い家の三畳の掘り炬燵で語られた。小学校高学年時代は、この部屋が居間だった。いかに狭くとも家族全員が常に此処にいるのだから、立派に「居間」と言えよう。家は昭和二十二年に買った中古品で、かなり傾き痛んでいた。この町唯一の駅から、菊池川の右岸にある中心街へ通じる駅通りがあり、駅から徒歩五分ぐらいの場所に、慎ましく遠慮気にその家は建っていた。表通りには、平屋で間口のさして広くない商店が軒を連ねている。呉服店、洋品店、小間物屋、下駄屋、魚屋、肉屋、青果店等。小規模とはいえ商店街をなしていた。どの店にも無愛想で、怖い顔をしたオヤジがいた。そして、一人残らず「肥後モッコス」だった。だが、いずれも商売としては結構成り立っていた。互助会的に、各商店と周辺の住民はこの町内で買い物を済ませていたし、駅の北と西には田園地帯が広がり農家も多く、有明海に面した海岸沿いにはかなりの漁村があり、有力な顧客だった。まだ車が普及していない時代だ。自家用車はめったに見られず、乗合バスとタクシーがたまに走る程度である。タクシーもハイヤーと呼ばれていたぐらいで、庶民が利用するのは珍しかった。農民、漁民は徒歩か自転車で、村にない品物を求めて町にやって来る。中にはリヤカーに子供を乗せて引っ張る人もいた。あれは何を買いに来ていたのだろうか。純朴で融通の利かない肥後人のことだ。安価な物を求め歩く習慣はない。最初に出会うこの商店街で、ほとんどの買い物を済ませていた為、盆時や年末の繁盛には凄まじいものがあった。結構、どの店も潤っていたのだ。しかし、この商店街の店主たちに商才があるわけではない。何せその横柄な態度は、どちらがお客か分らぬほどだ。父もまた、商才のない点においては他にひけをとらなかったが、おこぼれに与り、一家五人、裕福とはいえぬまでも、普通に暮らすぐらいの収入はあった。だが、父のお人好しで他人を簡単に信じ、騙されても悔いない本性が現れて来た。終戦までは、歴戦の英雄であり陸軍中尉の権威がそれを包み隠していたのだろう。
 
騙されたと思われる一つに、信じ難き話がある。電話が未だそれほど普及していない頃だ。戦後の田舎町としては豊かになりつつあったが、加入したばかりの我が家の電話番号が四六七番。人口一万人を超える商業の町にしては少ない。町内にも電話のない商店も多く、私なども取次ぎの依頼に走らされていたものだ。ある日、一人の紳士が店先に現れた。四十がらみだろう。水色と白の縦縞のスーツに蝶ネクタイ。このあたりでは見かけない風貌だった。紳士は、父と一時間くらい話をし、にこやかに去っていった。父の説明によると、電話機に付ける最新の器具のセールスマンだという。当時は、市内通話は固定料金だったが、物価に比べれば高額だった。町内や通りがかりの人々が、しばしば借りに来ていたが無料である。公衆電話は一台もなかった。紳士は、この事を「不公平である。」と強調したらしい。父の手元には黒い妙な物が置かれている。父の言では、
「これを電話機に付ければ、十円入れんと電話がかけられん。電話の所有者にとっては、またとない事だ。うちは代理店になる。お礼は充分にするそうだ。」
 
この器具は違法だったと思われるが、数日後には、ダンボール数箱の品物が搬入された。タブロイド版の地方紙に広告が載り、チラシも配られた。確かに大きなゴジック文字で、「総代理店○○文具店・電話番号四六七番」とあった。そして、一ヶ月に及ぶ販売が始まった。結構注文があり、父は器用な事もあって取り付けにも出かけていた。「金銭の授受は面倒でしょうから。」という紳士の好意から、代金は彼の指定する口座に、購入者本人から振り込まれた。予定の一ヶ月を三日残して器具は、めでたく完売した。連絡を受けた紳士はにこやかな表情で現れ、
「お陰さまで完売しました。これはお礼の印です。」と小さな包みを手渡し、颯爽と立ち去った。開けてみると饅頭が入っている。あっけにとられる母の前で父は、饅頭をほおばり、
「なかなかうまか。」
 
その後、紳士が顔を出す事はなかった。これには後日談もある。かの器具は、しばしば故障し、父は修理に向ったが返品を迫られ、工面しては律儀に返金していた。もっとも、入金はなかったのだから、厳密に言えば返金ではあるまいが。そして、この器具は半年もせずにこの町から消えた。
「あんた。また騙されたのよ。」の母の怒りに、
「終わったことはしょうがなか。それに、あの人にも都合があったんだろう。」
同じような事が、その後も幾度となく起きる。


     

  管理表を見ながら、若い看護師は微笑みを浮かべつつ、
「血圧も脈拍も正常です。尿も順調に出ています。でも、便通がないのが心配です。下剤を上げましょうか。」
私はこれが苦手である。
「そんな事で他人の心配は受けたくない。ほっといてくれ。」と普段なら怒鳴るところだが、入院中の身。力なく答える。
「僕は環境が変わると、出るものも出ないんです。」
 実は僅かでも食べてはいたのだから、幾らかの排泄物は出口に集まっていた。しかし、ご主人には、それを押し出す力さえなくなっていた。また、もともとベッドが大の苦手だ。恐ろしく寝相も悪い。勿論、占有面積は我がマンションの寝るスペースよりも狭い。まして自由のほとんど利かない現状。力をこめて、やっと寝返りを打つと転落防止のパイプに当たる。しかもベッドは宙に浮いている物だ。浮遊するのは息を引き取ってからにしたいのに。日本人は「畳の上で死にたい。」とよく言う。実感した。
 
支那事変の後、日本は日米戦争へ向け風雲急を告げていたが、一家は平穏に暮らしていた。父は、二度の出征を経験したせいか、日米戦争には従軍しなかった。歴戦の英雄の出番とも考えられるが、その辺の事情は語られなかった。内地勤務となり、昭和十六年に福岡県甘木で男子を儲けている。長男で、兄の軍士である。名前からして如何にも軍人の子らしく、両親の愛国に懸ける意気込みが感じられる。
 
母は研ぎ澄まされた能力と、恐るべき強烈な性格と優しさを併せ持っていたが、それらを軍人の妻というベールに覆い隠し、慎ましく控えめな銃後の妻を演じていた。「三歩下がって師の影踏まず。」というが、それに習ってか、外出の際は、三歩後を背が低く見えるように首と背を屈め、しとやかに歩いていたという。これはこれで様になっていただろう。この頃、一家は珍しく豊かだった。姉弟には、それぞれ保険が掛けられた。三百円の一括払い込みで、二十歳になった時に、一千円の保険金が下りるというもの。一千円あれば立派な家が建ったそうで、両親の愛情が籠められている。日本の保険会社は、ちゃんとしたもので、敗戦と戦後の混乱期を経ても、契約条件はシッカリ守られ、それぞれ二十歳になった時、一千円の保険金が下りている。その当時は、数日分のおかず代くらいにしかならなかったろうが。
 
母は、繊細すぎる異常な体質でもあり、妊娠出産においても同様だった。医学的には証明されえないだろうが、受精したその日から、産み落とすまで、激しい悪阻が続いたという。兄を胎内に宿している間、毎朝、父は姉の腰に襷を巻き、母が横たわる枕元の柱に一方を縛り、食べ物を置き出勤していた。時は産めや増やせやの時代である。ましてや軍人の家。もっと多くの子が望まれたのだろうが、これでは子作りの打ち止めもやむなし、となったらしい。ところが何かの間違いというか手違いというか、母は妊娠した。例の症状で、病院に行って確かめる必要もない。第三子は、次の勤務地の小倉で生まれ、靖士と名付けられた。私である。言うまでもなく、靖国神社に祀られるような兵士になれ、という願いが籠められている。父は語らなかったが、志願兵の苦労も味わったに違いない。「この子は、幼年学校から陸軍士官学校に進ませ、将軍にさせる。」と言っていたそうだ。望むほうは勝手だが、生まれながらにして戦場で死ぬことを義務付けられるというのも酷い話だ。でも、付いた名前は付いた名前。この名には誇りを覚える事もあったが、なんとなく重く感じる事も多かった。終戦となり、表面的には少なくとも平和な世が続き、今日まで私は生きながらえている。


    

  空襲は北九州の各地を襲い、母と三姉弟は母の実家に疎開した。父は軍都と称されていた要塞地帯、小倉の第十二師団の司令部に属していた。終戦まで、一人で小倉にいたわけだが、原爆を免れている。八月九日、広島に続き米軍の原爆搭載機は小倉を目指していた。諸説は有るが、雲が厚く三十分の旋回の後、諦めて長崎に向ったという。父も戦場でならともかく、原爆の餌食になったとしたら死にきれなかったろう。被爆者や犠牲者には申し訳ないが、生き延びる運命にあったのだろう。日本の無条件降伏により、戦いは終った。世の中は一変する。一家は全てを失った。終戦時、まだ二歳に満たなかった私のおぼろげな記憶の始まりは、二枚の戸板に置かれた文房具の店先に座っている頃からである。戦後の事とて、人心は荒れていたのであろうが、一家はこの商店街に温かく迎えられた。そして我が家は何故か理想的な家庭と見られるようになっていた。温厚な父親、優しくて愛想のいい母親、素直で礼儀正しい子供達。そういう面も確かにあったが、世の常として見かけと実情は違うものである。
 
我が家の五人は独特の個性を持っていた。さらに、私を除く四人は他に抽んでる器用さという才能を有していた。一家の不運は、その才能を金銭に換える才覚に欠けていた事にある。特に父は天才的に器用だった。物を作る。修理する。材料を調達する。全て、お茶の子さいさい。家こそ建てなかったが、店の内装は勿論、机、本棚、下駄箱、台所の流し等。しかも、その素材は拾うか貰った物だった。町内や近在の人達からは、多くの依頼が寄せられる。雨漏りがするに始まり、当時普及してきた石油コンロの芯が燃え尽きた。屋根裏に蛇がいる。猫の具合が悪い。はたまた夫婦喧嘩の仲裁。ラーメン屋からは麺をきる網が壊れた。水道管が詰まった。茶碗屋からは顧客からの記念品の金泥での名入れ等々。まるで江戸、東京の鳶の親方である。それらを、父は二つ返事で引き受け片付けた。せめて使った道具の損料でも取ればいいのだが、全ては無償で行われていた。母は、この無償の行為に驚くほど寛容であり、むしろ父が行う元祖ボランティアの活動に手助けをし、その時だけは上機嫌だった。世情もやや落ち着いて来て、政府の方針により青色申告制度が導入された。この町の商人達も商工会議所に集められ説明を受けたが、説明不足のせいか、申告の時期が来ると、毎夜数人が我が家に訪れて来た。いずれも大きな風呂敷包みを抱えている。父は、一人一人の帳簿や領収書を点検し、申告書の作成を教えていた。母は、順番待ちで狭い座敷に座っている客に茶菓を振舞っては、談笑していた。父は、いつしか、近在の人達に『まんまいさま』と呼ばれるようになる。仏様の意味だろう。裏に揶揄が含まれている事は言うまでもあるまい。
 
母は蒲柳の質だったが、繊細かつ鋼の精神を持つという、子供にとっては厄介な人だった。父に対する暴言も、子供への異常なまでの叱責、折檻、恫喝。それが、溢れんばかりの愛情から来ているという事は子供心にも分ってはいたが、辛い時もあった。それも彼女の早世により、全て良い思い出として残った。数々のエピソードがもはや神話となり、親族のみならず今も語り継がれている。母もまた器用な人で、少女時代から縫い物を始め、女として身につけるべきことは、全て迅速にこなす事には群を抜いていたという。清潔好きも異常だった。茅屋の内部は、いつもピカピカに磨きたてられていた。
 
このような事もあった。何かの行事のある前日、母は和ダンスを引っ掻き回していた。
「明日、着て行く着物がなか。」
彼女は結構衣装持ちだった。ただ、この頃は家計も逼迫気味で、しばらく着物の新調ができなかったのであろう。
「着物は沢山あるだろう。どれか着て行けばよか。」と父。
 その声を無視し、手提げ金庫に手を突っ込み、幾ばくかの金を握り、走り出て、反物を買い求めて来た。次の朝、いつものように早起きし台所仕事を終えた母は、初めて見る着物に身を包み、背筋を伸ばし颯爽と茅屋を出立した。何と、一晩で縫い上げたのである。母は早世したが、『のさり』を充分に全うしたのだろう。
 
姉は、一言で言えば奇人である。見た目は固太りで、丈夫そうだったが、少女時代から病気がちだった。母に似ず丸顔で目が細い。引き締まったキリリとした唇から発せられる言葉は意味不明で、ケケケと哄笑が混じる。女性は何のかんの言っても、見かけも大事である。贔屓目に見ても、やや足りなそうである。そのせいか、小学生時代の年三度の通知表の成績欄は、悲惨なものだった。教科毎に丸印が捺されている。五段階評価で、最も優れている、優れている、普通、やや劣っている、劣っている。このような表現は、現代ではとても通用すまい。かけっこすら順番をつけないで、と喚く父兄もいるのだから。姉は六年間、ほとんどの教科が「やや劣っている」だった。この学校は一学年六クラスだったが、面白い事に六年間、担任の教師は同一人物である。夕方になると学校勤務を終えたこの人は、自転車を降りて店先の長椅子に座り、母の勧める茶を啜りながら談笑するのが日課になっていた。この席で、できの悪い少女の学業について話が及んだことは、一度もなかったという。母と担任教師とは、娘を通じて不思議な友情で繋がれていたらしい。ところが中学に進み、最初の学年テストで、姉は一躍、トップに躍り出る。これは、彼女は奇人というより奇矯の人と称すべきだろう。その細い目で、何を見、何を考えていたのだろうか。父は、単純に娘の豹変した成績を喜んだが、母は褒めるでもなく平然としていた。その奇矯と、裏にあるものを見抜いていたのかも知れない。外からは教育ママの典型と思われていたが、その願いは悲しくなるほど単純で、ただ「娘らしく」育てる事にあった。姉は、弟の目から見ても信じられぬほどの天邪鬼で、ことごとく反抗した。かの狂気じみた母にである。叱りつけ、鯨尺を振り回され、姉が泣き叫ぶのは日常茶飯事だった。「何で、おまえはこうなんだ。天邪鬼。山川め。」戦いが終わると姉は狭い自室に引き籠り、泣きじゃくりながら、打たれてもいない両足先にヨードチンキを塗りたくっていた。為に、姉の足先はいつも赤かった。後年、この事を思い出すたびに「全ての行為は母の深き愛情の裏返しであり、姉もそれは分っていたのだろう。」と考えるが、まだ確かめてはいない。分かっていながら、それでも反抗する。女は怖い。男にはできぬ業である。
 
特に記憶に残るのは、めでたき正月元旦の儀式だ。大晦日の仕事を終え床に着くのは、暦の上ではもう新年だ。雑煮とおせち料理で新年を寿ぐ。丸餅と野菜や鰤の切り身を入れゴッタ煮した雑煮はボリュームたっぷりだが、おせちはアッサリしている。もともと肥後は食文化に乏しい。なにせ、今日も名物料理が、辛子蓮根、いきなり団子、馬刺し、ひともじのグルグルぐらいだから。
 
正月の町は静かだ。閉めきられた町並みを歩き、お宮参りに行くのが風習だった。修羅場は、姉が何を着て行くかに始まる。母が勧めるのは大抵、可愛らしい和服の晴れ着。勿論、姉は拒否。それからはタンスから和服といわず洋服といわず引っ張り出されるが、全て拒否する。どう見ても、これは姉が悪い。じゃあ、何を着て行くのかね。最後は泣きじゃくりながら最初の着物を着ることによって収まる。毎年、同じように揉めるのならば、最初からその着物を着ればいいのだが、そうでないところに凄みがある。男三人衆はその間、仲裁に入るでもなく、座敷の片隅で終結を待っていた。下手に口を出せばトバッチリを受けるからだ。歴戦の英雄もまた、然りだった。お宮参りの後は必ず、写真館で記念写真を撮った。今も残るこれらの写真全てに、姉の泣きはらした顔がある。帰宅後、丸餅の海苔巻き焼きを砂糖醤油につけて食べるだけの、ささやかな元旦の夕食を終えると、家族揃っての、楽しいお正月がやっと始まる。百人一首である。読み手は父。源平に別れて兄と私、母と姉の組み合わせ。圧倒的に源軍が不利で結果もその通りになったが、私の抗議にも拘らず、この組み合わせは変わらなかった。兄が確実に取れる札は、蝉丸の「これやこの いくもかへるも わかれては・・・」と、実方朝臣の「かくとたに えはやいふきの さしもくさ・・・」の二首だけだった。兄はその二枚の取り札を膝元に置き、激しく叩きあう熱戦を、ただ楽しげに眺めていた。対戦ごとに母と姉は頬を寄せ合って、次の取り札の並べ方の作戦会議を開いていた。姉は、札を取るたびに例のケケケの笑いを発した。そういう彼女を、私は愛していたし、今も変わらず愛している。
 
兄もまた不思議な人である。穏やかで、大きな瞳が目立つ細身の美少年で口数少なく、家庭内では無類の癇癪持ちである事など、外から見れば信じられなかっただろう。小学校一、二年生時は、ほとんど学校に行っていない。寒い時期以外は、もっぱら登校途中の小川でエビ(カッツンエビと称していた)や小魚を、終日追い駆けていた。川に入れぬ季節には野山を駆け巡り、動植物と遊んでいる。彼にとっては、イタチも蟻んこもカラスもドクダミも、大事な友人だったのだ。おそらく人間よりも。あれだけ姉と私に厳しかった母も、兄だけには寛容であり、何の叱責も与えていない。動物好きは父も同様で、狭い中庭には動物が溢れかえっていた。犬、猫、家鴨、鶏、亀。父が拵えた鳥篭には、カナリア、錦糸鳥、十姉妹、目白。ある日、あろうことか兄は「子馬を飼いたい。」と言い出した。私が、仮にこのような事を言い出せば一喝されたに違いない。しかし、父母は「馬を飼うには、ここはあまりに狭か。」と真剣に悩んだというから、尋常な一家ではない。この不登校児が、三年生の時、いきなり脚光を浴びる事になる。県内最大手の日刊紙、熊本日日新聞主催の絵画コンクールで「熊日賞・最優秀賞」に選ばれたのだ。現代とは違い、かかるコンクールは稀少なものだった。学校はもとより、町もこの快挙に盛り上がった。一番驚いたのは我が家族だった。信じられぬ事だが、彼が絵を描くなぞ考えもしていなかったのだ。担任の先生は、飲み会になると、「あれは、ワシの手柄じゃ。」と上機嫌だったが、酩酊すると、「ワシは、アイツの絵をコンクールに出した覚えはなか。」と、のたまわったそうだ。不登校児の拙き絵を出展することはありえなかったのだろうから、不可思議な話である。副賞として贈られた銀色に輝く目覚まし時計は、当時は物珍しくもあり、店頭に飾られた。客や通りがかりの人は、「これがあれですか。」と声をかけていた。母は店先で一々応対しながらも冷静だった。そういえば受賞の知らせがあった時も、母は表情も変えず、兄の目を見つめ肩に手を置いただけだった。兄も微笑を浮かべただけで母を見つめていた。母子と言うより、一卵性双生児を思わせた。また、繊細な神経は母譲りで、癇癪持ちと併せて、これまた家族にとっては厄介な存在である。何か気に食わぬと、居間を飛び出し、訳の分らぬ事を喚きながら座敷を走り回ったりした。だが、熊日賞を貰った後は登校拒否を続けるわけにもいかず、人並みに学校へ通うようになった。その後は、銀の鈴全国絵画コンクールの特選を始めとし数々の賞を得、画家への道を志す。そういう兄は私の誇りでもあった。
 
こういう話もある。結婚し長男が生まれた頃である。一般に(あくまで一般的にではあるが)先生、坊主、医者は三大助平と言われている。ある宴席の後、同僚の教師に誘われて、兄もソープランドに繰り込んだ。個室に通され裸になり風呂に浸かった後、背中を流された。酔いも手伝って、ここまでは気分が良かったのだろう。しかし、この手のお店としては次の段階がある。ソープランド嬢の手が微妙な部分に伸びた時、兄は叫んだ。「何をする。オレは帰る。」通常「何をする」為に、男はかくなる場所を訪れる。ソープランド嬢の驚きは同情に値する。彼は着替えもそこそこに帰宅し、兄嫁に宣言した。
「オレは今日、ソープランドに行った。穢れている。一週間はオレに触るな。」
狂人とはいえなくとも変人とはいえよう。凡人であり、見かけによらずフェミニストである私には、とてもそんな真似はできない。

 ホームページ編集上、前編と後編に区分しました。引き続き、後編にお進みください。⇒後編

  
 
   
  ほかの作品もお読みください。

    『翁と媼の物語』

    『神田川

    『蝉しぐれ

    『SFもどき』

    『ある愛』

    『狂歌』

    
『喪春記』


   烏森同人Top頁に戻ります。