蝉しぐれ 

           

          
髙崎靖士
 
    


 
     
 

暑い日だった。深大寺の森は全てを包み込み、優しい広がりを見せていた。しかし、木もれ陽の中から射す光は緑を通し目に傷いほどの輝きを見せていた。英治はいつものように山門に上り、本堂に拝礼し、白鳳仏に向った。奈良初期に作られた関東唯一の仏像だという。彼はガラス越しにその姿を拝むのが好きだった。性別はないらしいが、英治は女性だと信じている。明るい童顔、清純な笑顔、それは、眞奈美の面影があるからだった。

 「もう三年以上経ったんだなあ。」
 つぶやきか嘆きか、彼の言葉は、悲しみに満ちていた。この町に来たのはサラリーマン生活の二年後。ストレスからか会社に向う気力がなくなり休職を命じられ、調布の叔父の処に預けられていた。叔父は江戸時代から続いていた蕎麦屋が、第二次大戦の混乱期に閉鎖されていたのを再興したのである。店は忙しく繁盛していたが、彼の日常にはやることがない。二階の四畳半。何をすることもなく毎日、深大寺を訪れていた。流れる汗を拭きながら、白鳳仏を見つめていると。突然、女性の声がした。
 「いつもここにおいでになるのですね。」
 振り返ると、長い黒髪が目立つ人だった。
 「うん、僕はこの仏像が好きなんだ。あなたは?」
 「おんなじよ。」
 それが、眞奈美との出会いだった。自分より、少し年上なのだろうか。ふくよかでぬけるような白い顔、優しい切れ長の目はどこかで見たような気がした。それもそのはず、白鳳仏の顔そのものだったのだ。その後、三回目の出会いで英治は思いきって言った。
 「食事をしませんか」
 「いいですよ。何を食べましょうか。」懐の寂しい彼には、高級な料理は奢れない。
 「深大寺だから、蕎麦屋でいいですか。」
 もちろん、叔父の店に行くわけにはいかないので、少し離れた店に入った。
 「ここは山菜蕎麦がうまいのです。」
 「私も大好きなの。ついでにビールもね。」
 英治はその口ぶりに、愛らしさを早くも感じていた。
 「僕は近くに住んでいる。あなたは。」
 「野川沿いよ。両親とね。二十分はかかるけど、いつも歩いて来るの。いろんな道があって、楽しいの。」
 その後の何度かの、ささやかなデートも、どこかの蕎麦屋だった。
 「英治さん、お仕事は何?」
 彼は言葉に詰まったが、
 「今、休職中なんだ。叔父の厄介者だ。」
 眞奈美の顔を正視出来なかった。でも彼女は何故か微笑み、
 「私も似たようなものよ。」
 その言葉に、英治はやすらぎを感じた。
 眞奈美は深大寺縁起に詳しく、いろいろな話をした。特に力が入るのは恋物語だった。
 その昔、この地に右近の長者という村長がいて、とても美しい一人娘を溺愛していた。良き婿を迎え跡継ぎにしたいと思っていた。そこへ、福満童子という渡来人がフラリと現れ、一目惚れをした彼と娘は恋に落ちた。それを知った長者は激怒し、娘を湖の小島の庵に閉じ込めてしまった。童子は毎日湖畔に立ち嘆き悲しんでいたが、親から聞いた三蔵法師と深沙大王との故事を思い出し、必死で祈った末、大王からおくられた大亀に乗り、娘に会いに行く事ができた。右近長者もその勇気と信仰心に感じ入り、二人の仲を許した。
 ここで眞奈美の表情が輝いた。
 「その二人から生まれた子供がこの深大寺を起こした満功上人なの。」
 蕎麦屋を出て、賑やかな道を歩く。土産物屋、雑貨屋、おやきや饅頭を売る店。人通りも多い。
眞奈美の足が止まったのは「深大寺の赤駒」の看板の前である。藁で作った馬を並べていた。素朴で何故か惹かれるものがあった。
 「これは、昔、武蔵野国の住民が防人の召集を受け、西国に向った時、その妻が夫の無事と平和を祈り、この駒を作ったそうよ。万葉集に、『あかごまを さんやにはなし とりかにて たまのおくやま あゆかやらむ。』という歌が詠まれているの。いい話でしょう。愛がこめられていたのよ。」
 これはある種の愛の告白ではないかと英治は思ったが、口に出す勇気はなかった。
 白鳳仏については、
 「この仏像には不思議な話があるの。七世紀頃の仏像でしょう。いつの頃か、ずっと不明だったそうなの。それが何故か、明治四十二年、元三大師堂の壇下から発見されたそうよ。何かのために、また現れたんでしょうね。それ以上の事は私には分からない・・・。」
 英治は挫けた心をたてなおし、社会復帰を図ろうと決心した。それは自分のためでもあるが、眞奈美のあの優しい目をいつまでも見つめ続けられるようになるためである。
 ただ、大田区の実家に帰る気はない。ここに住み、地に足をつけ、彼女を安心させ、自分のものにしたい。
 
 銀座の職場に久し振りに顔を出した。意外にも上司と同僚は温かく迎えてくれた。復職し、次に会ったとき、英治は意気込んでこれを伝えた。だが彼の思いに反して彼女は無表情だった。
もっと、話し合わねば、焦りの気持ちが強かった。
 「明日は深大寺のだるま市だ。一緒に行こうよ。」
 「私は毎年、行ってるのよ。でも、朝早くなら行ってもいいわ。」
 早朝の深大寺は、爽やかだった。前日の夜、降った雨が、さらにこの周辺を清めたのだろうか。まだ、蕎麦屋も、並んでいる屋台も閉まっていて、山門を上がっただるまの店では、多くの人達が準備に追われていた。白鳳仏の階段を上ると、そこに眞奈美はいた。初めて見る和服姿。薄紫に梅の花を散らしている。髪は結い上げていて、うなじの白さが目にしみた。こちらを振り返るとにこやかに
 「英治さん、お早う。」
 「着物姿は初めてだね。素敵だ。」
 「もう、若くないってことよね。」
 眞奈美は礼拝するというより、一心に白鳳仏を見つめていた。何も言わず、彼女はだるま市に背を向け、元三大師堂の横を抜ける坂道に向った。萬霊塔の看板があった。眞奈美はその奥を見つめた。まだ早朝のためか、扉は開いていない。
 「ここは何なのかな。」
 「ペットの霊園なの。うちのクロが眠っているの。十四才で死んだんだけどね。でも、私の心の中にクロはずっと生き続けているの。」
 英治は急に胸が締めつけられるような感情にとらわれた。
 「眞奈美さん。ご両親に会わせてくれないか。」
一瞬、 眞奈美の顔がこわばった。
 「それは、求婚ということですか。私には、あなたには言えない過去があります。あなたと結婚する資格はないのよ。でも、楽しかった。私のことはもう忘れてね。もう会う気はありません。さようなら。」
 彼女は植物園の前の、まだ開いていない数軒の蕎麦屋の前の通りを走り出した。
 「眞奈美さん、待って。僕の気持ちが分からないのか。」
 抱きしめ、君をもう放さないと言いたかった。だが、振り返ったその目は、白鳳仏のではなく、夜叉のものだった。足が竦んだ。金縛りにあったような身体。彼はこう言うのが精一杯だった。
 「眞奈美さん、僕は待っているよ。休日には必ず、白鳳仏の前で。」
後姿の肩がやや震えたかに見えたが、彼女は踵を返し走り去った。朝靄の為か、遠ざかる姿は霞んで見えた。あるいは英治の涙のせいなのか。
 
 さらに暑さが増して来たようだ、汗を拭き、今日はもう帰ろうかと思った時、ガラスに人影が映った。白鳳仏の化身なのか。振り返ると眞奈美が立っていた。薄紫のワンピース姿だった。
 「帰って来てくれたのだね。」
 彼女は何も言わず、身体をぶつけるように英治の胸に飛び込み、泣きじゃくった。
 静寂の中、再会を祝福するように、蝉しぐれが二人を包みこんだ。
  
            



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