花は桜木  後篇  
   
                                                    髙崎靖士  
 


  後篇

    (第十一章から終章まで)


         十一


 一ヶ月が過ぎた。放射線の技師は「照射の範囲を狭くします。来週くらいには食事が喉を通るようになるでしょう。」と告げた。快方に向っているのか。だが、医師達はいつものように朝晩来て「治療は順調です。頑張って下さい。」と言うだけ。私はM医師の目を睨みつけた。しかし、睨み返す彼の目は、私より深い処を見ているようだった。

「この目に負けてはいけない。」
 
入院時に私は美佐子に、こう言った。
「多分、オレは助からないだろう。姉と兄以外には病気の事は知らせるな。死んでも葬式はやらなくていい。焼いた骨は田舎の納骨堂に収めてくれ。」
多くの人に世話になって生きて来たのに、私の馬鹿はこの期に及んでも治っていない。美佐子は、珍しく逆らった。
「そういう事は出来ません。恨まれるのは私です。」
そう言いながら、彼女の顔が急に蒼白になったように見えた。死の予感からか。何か言い直そうとしたが、言葉にはならなかった。何となく胸が痛くなり、彼女への愛おしさが込み上げて来た。
「ごめん。君に任せるよ。」
 
こんな私にも、代わる代わる見舞い客が訪れた。熊本や関西からも。友人の多くはあまりの衰えように息を呑んで見つめた。
「元気そうだね。」
何が元気なものか。私は彼らを睨み、心の中で相変わらずの減らず口を叩いた。美佐子が、帰る客をエレベーターホールまで見送りに行くと、彼等に一様に「必ず回復しますよ。あの目は、まだ死にそうもない。」と、励まされたという。
彼女は、慰めではなく真実ではないか、と感じたそうだ。体重は増えずとも、何となく身体に力が漲って来るようにも思えた。やはり、私は多くの人達の支えがなければ生きて行けないのだ。そして、父母の思い出もなければ。

 
       十二

  物さえあれば売れる時代だった。父は大きなリュックを担ぎ、遠くは門司方面まで商品買出しに行っていた。商いは順調で、働き者の父母のお陰で、貧しき世相の中で贅沢は出来ないながらも、人並みの生活はできていた。しかし、父のお人好しが、一家にまた試練を与える。保証人倒れである。頼まれれば断れない彼は、商売仲間や知人の連帯保証人を何件も引き受けた。それも倒産間近だったり、借りたその日に夜逃げされたり、騙されのオンパレードである。戦後七・八年頃の事だ。金融機関も小商人には大口の融資はしなかったが、まとまればバカにならない数字となった。母はその都度、父をなじったが「もう保証人にはならない。」と決心した頃は遅かった。正規の金融機関の融資枠を超えてしまった分は、やむなく街金に頼る事になった。街金といっても暴力団がらみのように、ややこしいものではない。小金を貯めた老人とか、裕福な家の奥さんが旦那に内緒でとか。無届けで違法だったのだろうが、切羽詰ればそんな事は、どうでも良かった。この手の借金取りとの攻防のクライマックスが、大晦日に繰り広げられる事は江戸時代と変わらない。その日は、小商売といえども書き入れ時である。我が家の手提げ金庫にも、お金がどんどん入り、そしてどんどん出て行った。
「戦いすんで日が暮れて」金庫は空っぽとなる。それでも借金取りは来る。井原西鶴の「世間胸算用」の現代版となる。
「払って貰うまではここを動かんばい。」と座り込む強者に父は金庫を見せ、「これこの通り空っぽです。良かったら金庫を持っていってくれ。」さすがの強者も、「年が明けたら、すぐ払って貰いますけんね。」の捨て台詞を残して、寒空に身を屈めながら帰って行く。江戸時代と同じで、年を越せば松の内が明けるまで借金取りは来ない。商売をしていると、子供達も暮には何かと手伝わされる。店じまいの後、居間で一息つくと、父が、件の手提げ金庫を持って来る。開いて、書類の奥をごそごそ掻き回すと一枚の千円札が現れる。
「ご苦労さん。少ないが三人で分けなさい。」
お年玉だ。文房具は自家調達出来たし、買い食いは禁止されていたので、我が家にはお小遣い制度がなかった。貴重な現金収入である。風呂に入って寝室(といっても座敷が夜に転用されるものだが)に向う。枕元には新しい下駄と足袋。並んで、まっさらの下着。心が豊かになり、子供心にも、
「さあ、来年も頑張るぞ。」と誓ったものである。
 
暮のてんやわんやはあっても、平穏な新年はどこの家にも訪れる。母と姉の葛藤を中心とした元旦が慌しく終わると、二日から早くも初売りだ。正月は楽しいものだったが、この時期ほどサラリーマンの家庭を羨ましく思えた事はない。でも、松の内はどの店も早仕舞いとなる。夕食後には蜜柑食べ食べ、百人一首やトランプに興じた。九時になると「子供はもう寝なさい。」となる。まだ遊興の興奮が冷めやらず、そっと居間を覗き見る。掘り炬燵の上に座布団を敷き、父母が真剣な目つきで向かい合っている。座布団の上で舞っているのは、まごうことなく花札だ。母は「花札なんかは、堅気の人間がするもんじゃなか。絶対にやってはいけないよ。」と常に言っていたのに。この勝負、どちらが勝利を収めたかは、翌日のおやつで明らかとなる。父が勝った時は甘納豆。逆は塩せんべいか花あられ。甘党の父と違い、彼女は甘い物を全く受け付けない体質だった。祖父も母の唯一の弟も、斗酒なお辞せずの酒豪だった。現代の如く、女性はおおっぴらに飲酒できなかった事は、母にとって幸いだった。いや、それ以上に家族にとって。あれで、酒まで入れば堪ったものではない。父母のこの饗宴は、兄も当然知っていた。珍しく二人で外出したとき、兄と家中を探したが、狭い家の何処からも花札は発見出来なかった。
 
少しは元気になったのだろうか。無理に押し込む食事も喉を通るようになった。治療も半ばを過ぎていた。五分も座れなかった数日前と違い、今日は窓越しに東京湾の花火大会をベッドに腰掛けて見ていた。七時の面会時間は過ぎていたが、今晩は特別とかで、美佐子も寄り添うように腰かけて見つめている。
「来年はC市の花火を見に行こうね。」
「花火より、花見のほうが先だ。」口に出かかったこの思いは、快方に向かっている事を本能的に感じていたのであろうか。

 

       十三

  昭和三十二年。私は中学二年生、兄は高校二年生。その絵にはますます磨きがかかり、将来を嘱望されていた。「兄貴は高名な画家になるのだ。」自分の事のように胸が膨らんだ。
一方、姉はこの年、国立大の入試を受け、見事に不合格となった。学業成績は女性としてはトップクラスだったので、学校はもとより周囲も驚いた。驚かなかったのは、本人と母だけだったろう。通常、我が子が受験に失敗すれば、共に泣き、慰めるものだろうが、母はあろうことか横手を打って喜び、
「あんなに勉強もせず眠ってばかりいて、大学に受かるわけはなか。この怠け者。」
と罵倒した。
 
正しい指摘だろうが、かくなる時に母親の吐くべき言葉ではない。これだけは、深き愛情の裏返しとはとても思えない。姉は「就職したい。」と懇願したが母は許さない。
「まともな家庭の娘は、勤めになんぞ出るもんではなか。」
果たして我が家がまともな家庭だったのかどうかは、判別し難き事ではあるが、祖父がその昔、母に告げた「おなごは・・・」に酷似している。かくて、姉は花嫁修業の名の下、厳しい監視下に置かれ、稽古事以外の外出もままならず、この後、母の死までの看病、そして継母を迎えるまでは、頼りない父を支える主婦業まがいまでも務める暗黒の青春時代を送る事になる。
 
この年の夏、「魚屋を始める。」と父は宣言した。文具店の営業は、駅から県立高校・農業高校・女子高に通ずる道が新設された為、大きな顧客だった登下校の生徒達が、誰も通らなくなってしまった。父の第一回目の軍人恩給を元手に始めた貸し本業は繁盛していたがテレビの普及が不安を思わせた。
「娯楽が様変わりするので、貸し本業の将来も難しくなるぞ。」
父は、評論家的口調でそう言った。
周知のように、二年後には皇太子のご成婚があり、日本中がミッチーブームに沸き、テレビのアンテナもこの地にまで乱立し、貸し本業は衰退への道を進んだ。父の予言は的中した。彼には将来を見通す力があったが、惜しむらくは、見通せるのは不吉な事に限られていた点にある。
 
これは別に職業蔑視ではないが、当時は「魚屋風情」という言葉が残っていた。文具店・貸し本業と何となくインテリの香りのするお店に「魚屋風情」の併設。アンバランスだが、母は素直に従った。増改築は、例により一部を除いて父の手によってなされた。父が漁師の育ちという事もあり、「風情」は順調な売上げを続け家計は持ち直すかと思われた。そこに再び悲劇が起きる。母が発病したのだ。私が高校二年に進級したばかりの春の事だ。子宮瘤の摘出から始まった病は、終ってみれば、がんだったのだが、田舎町の事とて特定されず、病院を渡り歩き、二度のわけの分らぬ開腹手術を受け、年が明けた頃、K大付属病院の医師によって、がんと通告された。通告は、父に対してのみである。K高校に、往復三時間以上もかけて汽車通学をしていた私は、受験戦争の真っ只中。自宅に帰ると母の嘔吐。正直に言えば、勘弁して下さいと言うところ。兄は、九州に一つしかなかったS大の美術専攻科に在籍し、画家への道を歩んでいたが、その死が彼の繊細な神経に与えた影響は大きく、気が抜けたようになり、大学卒業後、画家への道を捨て中学教師の道を選んだ。私と違い堅実型だったのか。あるいは、父を反面教師とし、まともな道を選んだのだろうか。「絵筆を捨てるのか。」との私の問いに「捨てやせん。」と答えたが、最初に赴任した天草の自然と純朴な生徒達や村人との交流が、その気性に適ったのか。教え子の中から、あろう事か選りに選って、亡き母に見かけも気性もそっくりな女性を娶り、二男を儲け幸せに定年を迎えた。確かに絵筆は捨てなかったが、その絵筆は子供や生徒達の為に振るわれ、彼自身の為に振るわれる事はなかった。
 
母はK大付属病院に入院した。保険のきかない抗がん剤と個室の費用は、かなりのものだったろう。姉は付きっきりで病院に寝泊りする生活。私は、不本意ながら高校の近くに下宿をした。他人の飯を食べたのは初めてである。放課後、三十分かけて病院に通った。人間はここまで痩せられるものかと思うほどやつれていた。やはり母子であろう、今の私に似ている。ある日、いつものように病院に行き部屋に入ると、そこは片付けられていた。焦った私は、そのフロアーの全ての部屋を探し回ったが、母の姿はなかった。「死んじまったのか。」病院の人に聞く余裕もなく、下宿に帰ると父からの電話。
「もう、随分回復したから自宅療養して下さい、と言われた。おまえも金曜日には帰って来い。」
それが医師の定番のセリフとは思いもよらなかった。家には十数人の親戚が横たわる母を囲んでいた。もう既に意識はなく、喉だけが異様な音を鳴らしていた。叔母の一人は
「昨日まで、やすしは、やすしはと言うとったのに。なんで早く帰って来んだったのか。」
と私をなじった。母の心残りは、馬鹿な私の事だったのだろう。二日後、家族親族の見守る中で母は永眠した。経済的にも精神的にも主柱であった母の死は、家族に大きな打撃を与えた。特に、姉は一週間も食事を摂らず、昼も夜も泣き続けた。受験勉強中の私にも相当のダメージだったが、辛うじて立ち直った。支えてくれたのは、因循姑息で古き因習の残るこの地を離れたき強い思いだった。再び膨らんだ借財の中で、姉は二十二歳の娘盛りで主婦の役目を負わされ、私の母代わりとなった。彼女には迷惑だったろう。どうやりくりしていたのか分らないが、受験の為の上京の費用を渡された。
その一ヶ月ほど前の事だ。全盛期の十分の一の売上げとなっていた貸し本業を引き受けようという奇特な人が現れた。三万円で引き取るという。中には惜しい本も多くあったが、父は二つ返事で承諾した。店舗の半分を占めていた本は、全て持ち去られた。受験への出発の三日前、姉は父に懇願した。
「まだ、あの代金は一円も入っとらんでしょう。うちは、こんなに困っているのに。幾らかでも貰って来てよ。」
自転車で出かけた父は、二時間後に帰って来た。しかし、その手には一円の金も握られていなかった。怒る姉に、父はこう言った。
「うちも困っとるけど、あそこは、まあだ困っとらす。」
「まんまいさま」健在なり。
 
私は、それでも受験に合格し、晴れて東京の大学生となる。勿論、二つの奨学金のお陰ではあるが。
 
病院の天井を見ながら考えた。貸し本業を営んでいたせいもあろうが、かなりの数の本を読んだ。神田の古本屋街にも足繁く通った。売った本そのものを、五年後に買い戻した事さえある。しかし、あれらの本は私に何かを与えてくれたのだろうか。いや、私は何を得たのだろうか。ふと、中原中也の詩の一節が浮んで来た。
「本は一冊持ってはいたが、中には何にも書いてはなくて、ときどき手に持ち、その重さ確かめるだけのものだった。」
あんなに読んだ本なのに、中には何にも書いてなかったのかも知れない。回復したら確かめてみよう。そう考えた時、おかしさが込み上げて来た。。回復する気になったのかと。

 

         十四

  入学して最初の夏休み、肉体労働のアルバイトで帰省費用を作り、照りつける太陽の中を、駅に降り立った。
「よう帰って来た。ちょっと話がある。」
父の最初の言葉は、後妻探しの件だった。不愉快になった。母の死から、まだ二年半も経っていない。
「姉ちゃんは何と言うとるの。」
「賛成じゃ。このままでは征乃は嫁に行けん。」姉に確かめると、
「女手は私だけだけん。あの家は娘を嫁に出さん気だ、と言われているんよ。」
「姉ちゃんも、嫁に行きたいんか?」
「私だって女よ。当然でしょう。」
私は愕然とした。
「姉が結婚を願っている。」
大学生にもなっていたのにこのアンバランスな精神の持ち主は、たとえ自分が結婚しても、一緒に暮らしてくれると本気で考えていたのである。
 
後妻探しは、わりと速やかに進み、亡母・姉に続く第三の犠牲者は、翌年春、嫁して来た。驚く事に相手方の強い希望によるという。継母となった人は、駅から車で二十分ほどの田園地帯の真っ只中で生まれ育った。実家は旧家で、農地解放までは、年八百俵を超える徳米が蔵に積み上げられる大地主だった。当主は脳軟化症を患い身体は不自由だったが、威厳に満ちた「モッコス」だった。元気な頃は獣医もやり、私財を投じて特定郵便局を開き、篤農家でもあった。口癖は「我々地主は、小作人のお陰で食べさせて貰っている。小作人より贅沢してはいかん。」だった。式の二ヶ月前、顔見世の為、そこに向った。二百年前に建てられた黒光りする重要文化財の如き母屋に、まず圧倒された。裏に回ると、広大な庭が広がっていた。庭というより、里山と称すべきか。無数の鯉が泳ぐ池、畑、雑木林。奧には竹林が。胸の高さもある上り框の向こうには、三十畳はあろうかという座敷に、紋服袴に身を正した二十数名のおじさん達がコの字型に座り、ここよりは都会の香りのする四人を睨みつけていた。まさに、犬神家の一族の世界である。よくは分らぬ儀式や自己紹介が終わると宴会となった。座は盛り上がり、少しはほっとした。新しき母となる人は、宴席の途中で現れた。頑丈で幅広い体つきで、男ならばさぞ見事であろう厳つい顔を、その上に乗せていた。名前は、綾子といい三十五歳。父とは十九も違う。姉とは十歳違い。ニアミス気味だ。私とも十五歳差の若き継母である。彼女は何故、我が家への嫁入りを望んだのか。一つには、姉と同じく池坊流華道の教授であり面識があった事。戦時中及び戦後の混乱期に娘時代を慌しく過ごし、気がついたら妹二人は戦後の風潮に乗り、恋愛し結婚。その後縁談が来なくなった事。それから多分、町の生活に憧れを持っていたのではないか。しかし、決め手は我が家の見かけにあった。勿論、住まいの見かけではない。人間構成である。恰幅が良く鼻筋通り、温厚で「まんまいさま」と呼ばれている父親。優しげで、華道、茶道、和洋裁に長けている長女。地方で中学の教師をしている長男。東京に遊学中の大人しげな次男。綾子さんならずとも騙される。実態は、酒もタバコも嗜まないが金銭感覚に乏しい父親。強烈な個性に加え、自己主張が強く妥協を許さない三姉弟。綾子さんの運命や如何に。  
 
古式にのっとるほどのスペースがあるわけもなく、街中の式場で披露宴を終えた新婦は、初めて茅屋を訪れた。魚屋を始める時に増築した六畳間に入り、彼女は、奥の(と言っても入り口の目の前だが)障子を開けた。「あれっ、可愛いお庭ね。」しかし、このお庭は当家のものではなく、表通りに店を持つ下駄屋のものだった。我が家のお庭は境界線までの五十センチ足らずだった。
 
継母は、この後四十年近く、父と我が家の面倒を見てくれた。厳格な躾けを受けて育った古風の彼女は、優しい人だったが、姉弟に間違いがあると厳しく戒めた。だが、亡母の面影が忘れられぬ姉とは、そりが合わず、しょっちゅう揉めていた。一度は、町内の寄り合いがあり飲酒した姉は喚きちらし、父母を人前で罵倒した。これも血のなせる業か。しかし、普段の愚痴は父についてである。
「お父ちゃんは卑怯な人よ。自分さえ良ければいいんだから。」
「まんまいさま」を斯様に評して嫌っていた。その憎しみは父の死まで続いたが、そのくせ、嫁いだ後も、毎日実家に顔を出していたのだから真意は分らない。死に目に会えなかった私が駆けつけた時、彼女は泣き疲れて腑抜けのようになっていた。腫れ上がった目は更に細くなり、一本の糸になっていた。
「お父ちゃんは、お人好しでアホな人だったけど、本当はいい人だったんよ。なんもせんでいいから、何年も座っていてもらいたかった。」
彼女もやはり、父を愛していたのだ。
 
継母が来て一年。縁あって姉は嫁いで行った。やはり人並みに結婚したかったのか。私はそう思いたくはなかった。この家に疲れて、逃げるように去って行ったのだろう。今もそう信じている。それに、彼女がまともに他人と住み、家庭生活が送れるのかが心配だった。しかし、世の中は巧くできているもので、姉婿となった御仁は、姉に相応しい人だった。勿論、奇人である。肥後モッコスに熨斗を付けて神棚に置いたような人物で、その信条とするは、
「男子たる者、世の為、人の為に尽くすべきで、己や家族等は二の次、いや三の次である。」と、幕末の勤皇の志士が発するような言葉を、昭和の御世に真顔で主張するほどの、前世紀の遺物そのものだった。こういう御仁は、端から見れば面白き存在であろうが、家族や親族は手を焼く習いがある。奇は奇を呼ぶのか。姉は、そこが気に入ったらしい。二人の会話を聞いていると両者とも勝手にしゃべり、噛み合っていない。だが、それは些細な問題らしい。一年後には長男が、三年後には長女が生まれた。
 
長男が小学校に入り、ある行事があり、姉は珍しく薄化粧をし、口紅を塗った。息子の事を考えてだろう。その姿を見て姉婿は激怒した。
「なんだ。口紅なんか塗って、見苦しか。」
その後、姉が化粧をするのを見る事はなかった。子供達は都会に去って行き、夫婦は淡々と二人だけで穏やかに暮らしている。配剤の妙と言うべきであろうか。
 
継母は商才があったのか。あるいは父に商売は任せられないと思ったのか。主導権を握り、鰻の生簀を作り、鯖の蒲焼やコノシロの丸鮨し等の新商品を開発し、身勝手な子供達に代わり、この家を支えていた。ご主人様である父は、女性に人気があった。その容貌と穏やかな性格が、肥後人の中で特異だったのか。町内・近在の奥様達、正確には田舎のおばちゃん達は、世間話をする為に買い物もしないのに店先の長椅子に座り、父の調理の手が空くのを待っていた。継母は、かかる事に嫉妬はしなかったが、こう聞かれた事がある。
「お父ちゃんは、私でなく誰でも良かったんかな。」
「そうでしょう。」と喉から出かかったが、辛うじてそれを止めた。
「そがん事はなか。」と、ごまかした。女性の目は鋭い。姉も、そういう父を嫌悪していたのかも知れない。でも父を庇って言いたい。
「しょうがないじゃないか。まんまいさまなんだから。」

 

         十五

  その日は、この寮の年に一度のお祭りで、私の六畳の二人部屋には、酩酊した溢れんばかりの寮生が管を巻いていた。そこに、賄いのお姉さんが駆け込んで来た。
「―さん。熊本から、お電話です。」
電話口からは珍しく、兄の声が流れて来た。
「おやじが倒れた。すぐに帰って来い。」
 十二月八日の夜だった。日米開戦の記念日だ。何かの縁なのか。部屋に帰った顔は蒼ざめていたのだろう。事情を説明した記憶はないが、一年年下の寮長が現れた。
「すぐに帰って下さい。旅費は何とかします。」
翌朝、彼は小さなズタ袋を手にしていた。ズタ袋は重く、金属の触れ合う音がした。
「寮中、掻き集めたがこれだけです。何とかこれで。」
 
二十四時間の普通急行での眠れぬ旅の末、故郷の駅に着いた。家の前は異様な雰囲気だった。六畳間に父は寝かされ、大きないびきをかいている。親族で部屋は埋まり、見舞いの人達は魚屋の奥から、見つめている。中には手を合わせ拝んでいる人もいた。いくら「まんまいさま」でも、まだ早い。継母は枕元に座り、目を閉じていた。私の顔を見ると泣き出して、
「すみません。私が付いていながら、こぎゃん事になって。」
声にはなっていなかった。父の病は、今でいえば、脳内出血か脳溢血、あるいは、くも膜下出血か。当時は一括りにして中風と称していた。だが、軽症だったのだろう。一週間もしないうちに意識は戻り、今にも立ち上がりそうになっていた。しかしその頃は、中風は二度目の発作が起きれば命取りと言われており、継母の看病は戒厳令下に置かれていた。それがリハビリ(まだ、この言葉はなかったが)を遅らせ、足を引きずる歩き方は終生直らなかった。しかし、長生きしたのは、一病息災。この病のお陰かも知れない。父、この時五十九歳。
 
その後、私は就職をし都会の荒波に揉まれ故郷を顧みなかったが、回復した父は魚屋を続けていた。ある夜、電話がかかって来た。「今月で商売は止める。六月に上京する。よろしく頼む。」
父にとっては御大典以来の上京。継母は初めての事だ。会社に無理を言って、四日間の休暇を貰い父母を迎えた。新幹線のホームで二つの鞄を抱えながら聞いた。
「疲れただろう。明日は、どうするね。」
「皇居と靖国神社に行きたか。」と父は答えた。
この頃、私は郊外の一軒家に住まいを構えていた。自宅に着くまで、母は車窓に映る景色を眺め、はしゃぎ気味だったが、父は無言だった。翌朝、いつもより早起きして二階から降りると、父は応接間に端正に座り、既に、一張羅と思われる背広に身を固めていた。テーブルの上には、グレーのソフト帽が置かれている。慌てて朝食をかっこむ。六月としては妙に蒸し暑い日だったので、薄いブルゾンを着て、
「出かけましょう。」
父の目が光った。
「何だ、その格好は。今日は皇居に赴き、英霊に会う日だ。無礼ではなかか。」
慌ててスーツに着替え、ネクタイを締め、初年兵の如く従う。早くも勝負ありの感だ。皇居前の玉砂利を、やや足を引きずりながらも、父はしっかりした足取りで進んだ。ここでの心配が一つあった。あの八月十五日、この広場で多くの国民が土下座して陛下に詫びたという。父もやりかねない。しかし、深々と最敬礼はしたものの時間は短かった。毎朝、神棚に二礼二拍手し皇居に遥拝していたが、その時間と大差ないように思えた。次は靖国神社だ。
「九段坂はきついから、タクシーで社前まで行きましょう。」
「九段下から上りたか。」と、はっきりした口調。
地下鉄の九段坂で降り地上に出ると、強い日差しが照りつけている。左手を見て父は言う。
「あれは軍人会館だな。」
「九段会館ですよ。僕は仕事で、ここのホールに何度か来てます。」
それには答えず、汗一つかかずに一歩一歩足を踏みしめながら上って行く。大村益次郎の銅像の脇を通り拝殿に着いた。私は、いつものように十円玉を取り出し、賽銭箱に投げ入れる。父は、背広の内ポケットを探り、封筒を取り出して一歩進み、丁寧に差し入れた。二礼二拍手の後、父は深々と最敬礼をした。顔を上げたので、振り向いて拝殿を降りようとしたが、父は、まだ直立不動の姿勢で、奥を見つめている。この目は、やはりあの時の目だ。遠くを深く見つめている。どのくらいの時間だったのだろうか。長い拝礼は終わり、その顔には何故か安堵の色が窺えた。
「千鳥ヶ淵に行こうか。桜の時期には毎年来てるんだ。今頃は緑に囲まれた皇居とお堀が美しかよ。」
「いや、ここはもうよか。浅草に連れて行ってくれ。天丼が食べたか。」
関東風の天丼は、最近まで熊本の食文化にはなかった。まして、父が味わったのは昭和三年である。時空を超えて、浅草の天丼を食したかったのだろう。うまそうにむさぼる様子を優しく見ていた継母は、
「私のも食べてよかよ。」
「いや、そんなには食えん。でも、そのエビの天麩羅を一つ貰おうか。」
長生きする人間は、根性が違う。

 

         十六

  この時を最後に、父母が上京する事はなかった。病気により、中断のやむなきに至っていた父の元祖ボランティア活動は、商売の店仕舞いにより復活する。この頃、兄は蜜柑の産地である近くの村の中学校に転勤し、父母と同居する事になり、駅通りのランドマーク的存在だったボロ屋も取り壊され、総二階のスマートな建物に様変わりした。玄関を入ると八畳の中央に置炬燵が一年を通じて置かれている。晩年の父は、朝夕の犬の散歩以外には、玄関を正面に見て、炬燵に座っていた。ここは狭いながらもサロンとなっていた。民生委員や婦人会の役員を務め、外出も多い継母に代わり、座っているだけでボランティア活動をやっている。訪れるのは近在のおばちゃん達が主力。時にはおじさん達も。野菜や果物や菓子を持ち込んでは、勝手に茶を入れ座り込んで、父に話しかける。多くは頑固な旦那や嫁の愚痴、身体の不調である。父はにこやかに聞いているだけだった。
 
この頃、私はほとんど帰省していない。自分勝手な理由により離婚していたからだ。前妻は、実家から十分と離れていない処の生まれ育ちで、しかも同級生だった。親類縁者が複雑に絡み合い、共通の友人も多くて帰り辛くなっていたのだ。十年以上も父母に連絡すらしなかった。親不孝の極みであろう。生活も荒み落ち込んでいた頃、美佐子と知り合い結婚した。しかし、父も老いており、このままでは郷里の土を踏まぬまま、その死を風の頼りに聞くのではないか、と不安になった。そこで意を決して、美佐子を伴い、駅に降り立った。久し振りに見る駅通りは、ほとんどの商店の戸は閉まり、人影も少なくなっていた。美佐子は大阪以西は未踏の地。緊張の面持ちで歩いていた。玄関を開けると、炬燵に父が座っていた。
「ただ今帰りました。」
「よう帰って来たな。まあ、上がれ。」
美佐子はサロンの隅に身を屈めた。継母が台所より現れ、父の横に座る。
「美佐子と申します。不束者ですが、宜しくお願いします。」
ありきたりだが、彼女としては考えた末の台詞だったろう。三つ指ついた姿は、愛らしいというよりは哀しげに見えた。
「硬い挨拶はよか。今日は妙に冷える。炬燵に入りなさい。」
その言葉通り、十一月半ばとはいえ寒い日だった。妙にギクシャクして会話は弾まない。こういう場合の定番として、父は美佐子に聞いた。
「好きな物は何ね。」
「何でも食べますが、特に海胆ですね。」
「ほう、それはよか。じぶんもそうですよ。で、嫌いな物は。」
緊張のせいか、彼女はとんでもない事を言った。
「蜘蛛です。」
 その時、信じられない事が起きた。壁を大きな蜘蛛が這っている。まるでタランチュラのような蜘蛛が。幸いにも彼女には死角になっていた。とにかく、異常なほどの蜘蛛嫌いである。
「おやじ。ありゃ何だ。」
父は、それを目にすると老齢とは思えない素早さで、卓上のティッシュを握るや立ち上がり、蜘蛛を握りつぶした。美佐子は「何か、あったのですか。」と、目を見開く。
「蜘蛛ですたい。それも珍しかくらい太か。とんだ歓迎で申し訳なかです。」
茶の用意の為、台所にいた継母も騒ぎに駆けつけて、
「すんません。田舎なもんですけん。」
「いいえ。私も田舎育ちですから。」
 
その蜘蛛が、何かを運んで来たのだろう。急に打ち解けて会話が弾んだ。美佐子にとっては本格的肥後弁との最初の出会いである。遠く離れた肥後と津軽だが、不思議に共通する点も多い。文化のみならず、方言にすら似通ったものがある。都から遠く離れている為、中央政府の変化、圧力を受けても、古えの香りを残しているからだろうか。熊本県人は打ち解けると、初対面でも容赦はしない。肥後弁の嵐となる。おそらく、会話の大半は理解できなかったに違いない。しかし、家族の一員として早くも受け入れられたのは、肥後の猛女とはかけ離れた個性が、父母の感性に適ったのだろう。
この後、年に一度か二度は帰省する事となる。遅すぎる親孝行ではあったが。
 
予定の六クールの治療は終わった。体重は僅かしか増えていないが、三分粥とはいえ、病院食を完食できるまでになった。M医師が、いつもの時間に現れた。
 「よく頑張りましたね。午前中の内視鏡検査と、CTの結果は三日後に出ます。内視鏡を見る限りでは、食道はきれいになっているようです。後は、生体を取りましたので、がん細胞が残っているかどうかです。三日後の午前中に伺いますので、ご家族の同席をお願いします。」
完治したのか。「ご家族の同席」がやや引っかかったが、いずれにしろ戦いは終わったのだ。結果を待つ三日間は、人生で最も長い三日間だった。

 

         十七

  九十の声を聞くと、さすがに父も弱り、介護ベッドに臥す身となった。それでも、ベッドはサロンに置かれていて、来客は引きもきらなかった。ある日、継母は着替えを手伝っている途中で倒れた。心筋梗塞である。訪れた客が救急車を呼んだが到着が遅れ、意識不明の情態が続いた。呼びかけても反応はない。私は、本当は彼女にお礼を言わねばならなかったのに、その願いは叶わずじまいになってしまった。継母の入院の為、父は別の病院に送られた。彼女の病気は知らされていない。見舞った時、父はこう言った。
「綾子は、どうした。全然来ないじゃなかか。」
彼は、母にも継母にも、名前で呼びかけた事はなかった。常に「おい」だった。だが、確かにこの時は「綾子」と言った。一度でいいから、本人に聞かせたかった。
 
次の年、十二月の寒い日に、父は息を引き取った。看取った医師は、駆けつけた私に、説明した。
「前日までは、お元気だったのです。朝方、看護婦の悲鳴が聞こえ駆けつけたら、お父上は点滴器を看護婦に突きつける構えをされていました。」
「腰だめにですか。」医師はそれには答えず、
「でも、その後ベッドに戻られ、夕刻、穏やかに亡くなられました。」
銃剣のつもりだったに違いない。父は、その先を何処に向けようとしたのだろうか。
 
葬儀は、ささやかな葬儀会場で行われたが、九十二歳の市井の名もなき爺さんの葬儀に多くの人が詰めかけた。そして、継母は、あくる年の夏、熊本らしい酷暑の中で生涯を閉じた。優しく穏やかな死に顔だった。彼女にとっては、父の死を知らなかった事が、幸せであったのかもしれない。

 

         十八

  緊張と不安を抱えている二人の前に、M医師が現れた。手には部厚いカルテを抱えている。その中から数枚の写真を取り出した。
「完治しています。生体検査の結果でも、がん細胞は消え去っています。」
喜びよりも、信じられない思いが強かった。
「珍しいケースとも言えます。医者として、こういう事は言うべきではないのでしょうが、我々の治療も完璧でしたよ。いや、これはジョークですが。」
医師は、冗談交じりに声を上げて笑ったが、眼鏡の奥の光る目は、笑ってはいなかった。
 
二ヶ月ぶりに娑婆の土を踏んだ。足元が覚束ないというよりは、浮いているような感覚だった。目の前には築地市場が広がっている。しかし、九月初旬の太陽は眩しく、映画で見たSF映画の如く、行き交う人々も建物も輪郭のみの白一色の世界だった。この色のない世界に、私は、これからどう色を付けて行けばいいのだろうか。
 
美佐子の助けを受けつつ、マンションに着いた。エレベーターのボタンを押しながら彼女は言った。
「猫は、いや特にランディには超能力があるのよ。玄関で待ってるに違いないわ。」
久々の愛猫との対面に、私の胸は膨らんだ。
 ドアを開けると、果たして彼は行儀良く座り、久し振りの主を凝視していた。込み上げるものがあった。震える手を伸ばすと、ランディはニャーンと一声発すると奥へ逃げて行った。新たな感動が込み上げた。やっと普通の生活に戻れたと。


        終章

  年を越し、春が来た。私は、千鳥ヶ淵の満開の桜の下に自分の足で立っている。例年より多く詰めかけているように見える雑踏の中、美佐子の手を握り、お堀端の柵に強引に近寄り、水面に浮ぶ散り急いだ桜を、ぼんやりと見ていた。急に熱い塊が胸を突き上げた。父は、やはり桜の如く潔く美しく散り、『のさり』を全うしたのだ。それに引きかえ、私はどうなるのだろう。父の寿命まで、まだ三十年もある。死の淵から奇跡的に生還した私は、この後、どう生きればいいのだろうか。潔く、美しく散れるのか。『のさり』を全うできるのか。涙が溢れて来た。そして、それは嗚咽に変わった。花見客の怪訝な視線を感じつつも、嗚咽は止まらなかった。美佐子は、何も言わず前を見つめ、私の肩に手を回し強く抱きしめていた。いつまでも。           
                                              
       完

 
     
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