翁と媼の物語


                       
崎靖士

 作者独白。この小説を書き続けながら、私は重大なことに気づいたのである。この物語の本質を私は知ったのだ。唯一無二の読者である貴女に、果たしてそれがわかって頂けるのだろうか。これはSFとギャグとブラックユーモアのオブラートに巧みにその本質を隠した一大恋愛叙事詩である。時間と空間とを超越した壮大な恋愛小説! 過去にこのようなものが上梓されたことがあるだろうか。否である。それを思いつつ筆を進める私の手は興奮に打ち震え始めたのじゃ。  1981年8月
 

一 

 2043年、8月だった。日本はその小さな姿を未だ地球の一隅にへばりつかせていた。宇宙ステーションから見る地球はかなり拡大されて壁掛けの一種として写し出されていた。日本人もしくは日本から何らかの理由で世界連邦に脱出せざるをえなかった人々の子や孫でなければ、日本を塵以外にしか見ることはできなかったはずである。
 21世紀の始めに既に世界は大混乱に落ちた。ノストラダムスの大予言はある意味では正しく実現されたが、別の観点からだと、それは予言の実現などではなく予測されたものに過ぎなかった。その大混乱についてはここでは書かない。書いても書いても尽きぬ物語は書くことの意味を有しない。ともかく2010年に至って人類は地球を再編成した。

 人類が生き残るためには世界連邦の成立以外にはなかった。あらゆる悲惨と地獄とは争い続けた人類の手を初めて握らせた。世界連邦の憲法の前文には、何故か昔どこかで聞いたようなスローガンが掲げられていた。「地球は一つ、人類皆兄弟」

 

     二

  世界連邦の本部はアラビア砂漠のど真中に置かれていた。20世紀末には掘り尽くされる予定だった石油はまだその無尽蔵を誇示していた。エネルギーの開発はまだ遅々としており、世界は金よりも高い石油に委ねる悪弊を21世紀初頭まで続けていたのである。
 連邦の政策は人種を無くすことにあった。神が啓示したのか、人類はバベルの塔の哀しみの前に自ら戻ろうとしたのである。現に憲法の条項の半分はそのことを記してあった。
 聖書が復活し、皆バベルの部分を諳んじることを義務づけられたのである。一人一人に番号が付けられた。悪夢の時期に人類は減ったが、それでも50億番を超える番号が付けられた。番号の前にA〜Zの記号が三つ並んでいてそれが人種を表していた。
 それらの記号と数字は各人の胸にはめこまれた。2015年からは産まれた赤ん坊に三日以内に埋め込まれた。
 極限の発達を果たしたコンピューターに、意思を持たせる危険を感じた人類は、再び計算機能と記憶機能のみの作業に押し込めた。それが50億にも上る組み合わせを即時に判断させ、胸のはめ込み認識票をたやすく生産させる力となったのである。

 

     三

  A〜Zの三種の組み合わせは、実に五千万通りもあり、人種を数代にわたり遡って区別できる。
 細々とした法令はこの件に関して数限りなくあったが、簡単に言えば同じ組み合わせの男女はセックスしてはならぬ、ということであった。アングロサクソン系の人がラテン系の人と寝ることも許されないケースが多かった。連邦警備官の重要な任務は許されぬセックスであればあるほど、厳しい規律があればあるほど、破りたがる人間の性を取り締まることにあった。警備官はこの点については全ての権限を有しており、違反者は即その場で掌に入る位小さいが、小象をも一発で倒せるほどのレーザー銃による制裁を許されていた。
 臨検・・・遠い第二次大戦の頃、日本で流行ったそれが鮮やかに蘇ったのである。連邦の政策は当たった。バベル以前に人類が戻るのに30年しか掛からなかったのである。
 言葉は一つになり、産まれる子供の皮膚は一様に褐色となった。金髪やちぢれっ毛や赤毛はもちろんあったが、皮膚は全く同じ色である。連邦の幹部達は50年後には同じ顔をした男女が人間の本来の目的の為に、額に汗する時代を夢見た。機械を排し、コンピューターを廃棄し、自らの力だけに頼り、物を生み出す。驕りたかぶった人間がやっと己を取り戻せる。幹部達は我こそは神の子、キリストの再来との誇りに身を奮わせた。

 

     四

  世界連邦の憲法にはもう一つの柱がある。地球上に生存する全ての人類は連邦に加盟せねばならぬのである。それを破る異端者があった。もちろん、日本人であった。自分勝手な日本人は、地獄をも不思議な精神力で克服し、己の力を膨らませた。そして二度目の鎖国に入った。
 小さな国に溢れる二億人の日本人は、こまっしゃくれた知恵を寄せ合って、世紀末に訪れた危機を難無く切り抜けた。エネルギー問題も、食糧危機すらをもである。連邦はこの異端者に幾度かの説得を試みた。
 大混乱は最早、人類に戦う武器を放棄させていた。武器による説得が無ければ日本人は何事にも応じない。その説得が徒労であると知りつつも、連邦の幹部は自らキリストたらんケジメとして説得を続けたことは言うまでもない。しかし、2043年の夏に至ってもそれらは実らなかった。
 日本にはすでに緑は無かった。極度に老齢化した社会を守るために、70才以上の老人(実に日本総人口の58%に当たる)は全て一人一個のゴム製のハウスを与えられ、(夫婦は二個をつなぐことを許される)その多くは富士山の五合目から樹海にかけて整然と置かれた。最も、緑が無いのだから、元樹海というべきであろうが。
 ゴムハウスは寒暖の区別が無い実に快適なものである。空気を抜くと老人ですら担ぐことができる。(ゴムハウスの構造その他は詳しく後で書く。)

 ここは三合目に当たり、整然と並んだハウスの一棟の広い窓から、家々を見つめていた翁がいた。翁はゆったりと座っていたが突然狂ったように身を震わせ、半ばきかなくなった左足を引きずりながら窓を開くスイッチを押す為に立った。音もなく窓が開き、八月の熱風が待ちかねたようにハウスに流れ入った。 
 翁の額から、たちまち汗が吹き出す。翁はしわの中に埋まり、どこにあるか判らない目をそれでも更に細くし、満足そうに笑う。そこにくっついた隣のハウスから媼が入ってくる。
「まあ、おじいさん。いけませんよ、また窓を開けたりして身体に悪いでしょ。」媼の髪は総白髪だったが、豊かであった。
 それよりも、大きい目の輝きはとても九十一才には見えない。翁は媼を睨みつけて、口をモゴモゴさせながら驚くほど大きい声を出した。
「何がおじいさんじゃ。わしはお前のおじいさんになった覚えはないわい。」

 

     五

  日本には季節が無くなっていた。太陽が照る日は年に幾日もない。雲とも煙ともつかない厚いものが常に上空を覆っている。鈍色に光っていた。
 四季おりおりに目を楽しませた植物は一木一草もない。季節があるとすれば暑さ寒さを感じることだろうが、21世紀になってから平均気温が少しずつ上がり、夏は40度近くもなる日が続いた。冬は肌寒さを全く感じさせない。
 ゴム製のハウスは専用のポンプで空気を入れると30分位ででき上がる。軟らかく、しかも強いゴムだった。ワンルームであり台所も何も無い。内部はくすんだブルーに統一されている。政府からハウスを建てる、いや膨らませて置く土地を与えられた老人達の多くは、一人または夫婦者だけで麓の駅から、動く歩道に乗って運ばれて来る。荷物は大抵がカバン一つである。ハウスでは何もなくても生活ができる。しかし果たして生活と言えるのかどうかは判断が難しい。
 ともあれ、20世紀に「うさぎ小屋」に住むニッポン人と取沙汰された日本の住宅。今はむしろ四角い金魚鉢という方が正鵠を得ていよう。ハウスとハウスの間隔は2メートルも無い。膨らませ終わると道路の所々にニョキニョキ生えているパイプをハウスに繋ぐ。20本近く繋げば一丁上がりという訳だ。このパイプは全ての命の綱である。あらゆる供給はこのパイプのいずれかを通じてなされる。
 翁は媼が窓を閉めるスイッチに手をかけるのを機嫌の悪い顔で見つめていた。窓が閉まると室内は快適な温度にすぐ戻った。パイプの一つが冷暖房の役割を自動的に果たす。室内は常に18度に保たれている。翁はまた大儀そうに立ち上がると10畳ほどのワンルームの隅に一列に並ぶ蛇口の所に向った。蛇口に手をかけると自動的に蛇口の下が明き、グラスが現れた。これもゴム製らしく不透明だった。
「おじいさん・・・じゃなかったあなた。また飲むんですか。今日の割当てがもう無くなりますよ。」
「大きなお世話じゃ。無くなりゃお前の分を飲むよ。」
「ダメッ!私は少しずつ節約して飲んでんだから。」
「お前は相変わらず目だけは大きいな。そんなに目を開くとコンタクトレンズが落ちるぞ。」
「残念でした。五十才の時手術をして近眼、老眼両用のレンズをはめ込んでありますよーだ。」
 念の為に付け加えるが、これらの会話は書いた字を読むほどスムーズになされているのではない。なにせ九十九才の翁と九十一才の媼の会話なのだ。その会話のニュアンスは到底筆で表され得るものではない。その点をご承知おきの上、読み進めて頂きたい。

 

     六

  蛇口をひねると、ボコボコと音がしてグラスが充ちた。無色透明な液体だが、まぎれもなくアルコールの類であろう。翁の細い目がしわの中に隠れて笑ったかのように見えた。家具は何もない。部屋の中央に細長い低いテーブルが、申し訳なげにあるのみである。翁はグラスを両手に握り、まるで掌中の珠を扱うごとく・・・正に翁にとってそれは珠以上ものであるのだ。
「おじぃ・・・じゃなかった。あなた、もう百才になるんだからお酒は控えたほうがいいでしょうに。」
「誰が百才になった。ワシャまだ九十九じゃ。」
「だってもう二ヶ月で百才じゃありませんか」
「アホぬかせ。まだ九十九じゃ。お前こそ、わしより先に一つ年をとって九十二になるじゃないか。なぁ、お前。」
「あなた、私のことをお前、お前と呼ぶのはよしてください。私にはちゃんとした名前がありますよ。」
「名前・・・忘れてしもうたわい。お前は何ちゅう名前じゃったかのう。」
「まあ、いやだ。耄碌しているとは思ったけど、よりによって私の名前を忘れるんなんて…。」
 媼は急にしょんぼりして大きな目を伏せた。まつ毛は全てまっ白だったが、長くそれだけが生き物のように動いた。
「あんなに私の名前を呼び続けていたのに。男なんて皆そんなものかしら。」
しわくちゃだが豊かな頬を大粒の涙が伝わり落ちた。翁はその涙を見て叫んだ。
「思い出したぞ、その涙じゃ。お前さんのその涙は昔と全く変わらんわい。思い出したからもう泣くでないぞ。」
 そこで翁は一呼吸し、頭のてっぺんから声を出した。
「まり子じゃ、お前さんの名前はまり子に決まっとるわい。」 ジャジャジャーン
 賢明なる読者諸君(と言ってもひとりだったっけ・・・)は既にお気づきのことと思うが。本編のヒーローとヒロインは、正しくあの崎靖士と江良まり子の六十二年後の姿だったのである。

 

    七

  媼の顔にぽっと赤味がさした。
「私も飲んでいい?」老女とは思えぬ艶っぽい声になっている。翁がしわだらけの顔を更に、前後左右がほとんど判らなくなるほど表情を崩した。
「差し向かいで一杯やろう。」
媼の曲った背筋がスーッと伸び、跳ねるような足取りで例の蛇口に向った。
「ちょっと待てよ、まり子。それはわしの蛇口じゃ。お前さんは隣に行って自分のを持って来んかい。」
「ケチ!フーんだ。男ってすぐ変わるのよね。ほんのこの間・・・そう六十四、五年前には、あんなに気前よく『まり子、どんどん食べなさい。飲みなさいボクはまり子が飲んでいるのを見るだけで楽しいんだ。ボカァ幸せだなあ』なんて言ってたくせに。」
 それでも媼はもう一方の壁に向った。すると壁の一部が左右に開き隣のハウスが見える。というのも前述したようにこれは夫婦用のハウスで二個がくっついているのだ。媼も両手でグラスを押し戴いてテーブルの向い側に座った。
 翁は左手もやや不自由のようである。両手で包んだグラスは触れたがチャリンとは言わぬ。音として表現すればグニャとでも言うべきか。かといってヤワなグラスではない。硬質のゴムでできていた。
 翁は九十九才とは思えぬ速さでグラスを口に運び、なめるように一口啜った。不可思議なアルコール飲料である。無色無臭で味はさっぱりしているので飲み易い。
「ウィスキーの水割りかビールもたまには飲んでみたいな。」
 しかし爽やかに喉を通るビール、琥珀色が誘うウィスキーを飲めるのはごく少数の人だけである。
 なぜならば、製造が法律で禁止されている。作ろうったって原材料は日本には無い。それでも物事には裏があり、密かに出回っているらしい。そしてその価格はビール一本が一年分の生活費分もするんだから、まともな人間には手が出ない。この不思議なアルコール飲料は、きのこ類から作られているらしい。 
 酒の製造は全て国が管理し専売しているので、本当のことは一般には解らない。長野の山奥に大工場があるそうだ。原材料はカビの一種とも噂では伝えられていた。翁は大事に飲んだ。胃に入るとたちまちカッときて良い気持ちになった。
「まり子、お前さんはこの酒が何から出来とるか知っとるかね。」媼は翁のそんな問いかけをいつも飲む度に受けるのである。媼は面倒くさそうに、
「私は頭が悪いから解りません。」とだけ言い、翁よりもっとゆっくりと酒を楽しんでいた。「すぐそう言うのがまり子の悪い癖だ。お前さんは頭が悪いんじゃない。数字に弱いだけじゃろがね。」
「そのかわり、顔がいいからね」媼はすましてそう言った。この婆さんこんなところは昔と変わらんようですな。

 

     八

  大地震が起きたのは、2020年のことだった。世界連邦に加盟せず、独自の道を歩み続けていた日本に大地震は壊滅的な打撃を与えた。東京は膨れ上がった大都会であったが、それが小気味良い位の廃墟に変わったのである。
 その時翁と媼がどこに居て、どうして生き残ったかの事情は作者にも良く解らない。とにかく一時は2億数千万にまで達した人口が7千万位になってしまったのだ。翁と媼の子や子孫がどうなったのか、読者諸君には誠に気になるところであろうが。そう焦るでない。その辺は追い追いこの物語に出てくるであろうから、期待しないで待つべきである。
 翁は七十を超えても、雑踏の中を歩いたり裏通りを覗くのが好きだったらしい。媼はそんな年になってまで二人で新大久保のラブホテル街の裏の飲み屋とか、歌舞伎町を徘徊するのを嫌がった。21世紀になってもあの辺は変わっていなかったのだ。
「おじいさんは、いくつになってもこんなとこばかり好きなのね。今日は新宿に行くっていうから、とっておきのゾウアザラシのコートに、猫の皮で造ったロングブーツを履いてきたのに。」翁はそれには返事もせず、
「またおじいさんと言う。おれがいつからまり子のおじいさんになったか。」
「だって孫が三人もいるから、おじいさんじゃない。」
「孫がおじいさんというのはいい。だが、まり子におじいさんと呼ばれる筋合いはないね。おれは、お前のことをおばあさんと呼んだことはないよ。お前だって、もうしわくちゃ婆ァじゃないか。」
「よく言うわね。まり子、まり子ってついこの間まで私にむしゃぶりついていたのに。もうおっぱい、飲ませないよー。」
 媼は背筋の通ったとても古希を終えた風には見えぬスタイルである。そして胸を張ると翁にぶつかるようにした。翁は数年前軽い中気を病み、左手と左足がやや不自由で白木の杖を突いていたが、頑丈な身体つきをしており媼を受け止めた。そして、だらしなくもこう言ったのである。
 「じゃあ、新宿京王プリンス帝国ホテルの280階で食事をするから、オッパイだけは飲ませてね。」
 このじいさん、いくつになってもばあさんに惚れてるようだ。

 

     九

  媼は白髪を黒く染めていた。豊かな髪と通った背筋を後ろから見ると、まだまだ捨てたものではないが、さすがに七〇才である。顔面はかなりの波で侵略されている。何たって、波が顔に出て来る女だから婆というぐらいじゃ。しかし、大きい目は輝いており老人のそれではなく口紅をつけなくともたっぷりと量感ある唇には、ほんのりと赤味がさしており、コケティッシュですらあった。
「いいのよ、おじい・・・じゃなかった、あなた。それでは『きたじま』に行きましょうよ」 そう言えば随分昔のことになるが、新大久保駅南口の横っちょに『きたじま』なる店があったなぁ。あの『きたじま』がこの2020年の地震前まではまだ存在していたのである。客も大して来ないのにね。
 ほとんど傾いてしまったような雑居ビルの一階に『きたじま』はあった。媼が先に立って引き戸を開けようとするが、なかなか開かない。7時過ぎだから店はやっているはずだし、中からは明かりももれていた。媼は両手を戸にかけ、思い切り引っ張る。派手な音を立てて戸は開いた。いや、開いたんじゃなく外れたのである。
 店はしなびた竹の子みたいな複雑な色調の中にあった。入った所は狭い三和土で、左端に塗りがはげて所々が欠けている粗末な下駄箱がある。10畳ほどの赤茶けた畳に、これも風雪にさらされた如き風体のテーブルが五、六台並べられている。左手の厨房の前がカウンターになっていて、四、五人もかけられそうだ。厨房は薄暗く、まるで洞窟である。媼が、例のロングブーツを脱いで、翁の靴をしゃがんで脱がせる。翁は背を丸めている媼の腰のあたりを見ていたが、突然うめくように言った。
「まり子、近頃お尻が落ちて来たよ。」

    

      十

  畳に上がるとテーブルの一つに差し向かいで座る。その時、端っこに置かれた招き猫と覚しきものが、どっこいしょの掛け声と共に動いた。
「きゃあ!」翁からはその不思議なものが見えていない。
「なんじゃ、娘っ子がお尻でも触られたような声を出して。」
「あれ! あれあれ」
「なんじゃ!?」翁が、今度は座ったまま飛び上がった。すすけた招き猫が歩き出したからである。それは招き猫ではなく、小さく萎んだ老婆であったのだ。
 老婆は丁寧におじぎをし、「いらっしゃいませ、お久しぶりでございます。」と言ってボトルが10本位並んでいる棚の下の引き出しをごそごそ探していたが、一本のラベルの原形も留めないようなウィスキー瓶を抱えて来てテーブルの横に尻から座ると、
「今どきの若い者は全くしょうがないもので、誰のボトルかよう覚えんのですよ。」
 翁と媼は顔を見合わせたが声にならない。どこかで見覚えある老婆の声と穏やかな物腰、挙措は二人の胸を打った。今の『きたじま』は三十才位の夫婦でやっていた。翁と媼は昔、よくこの店に通っていたらしい。そして今も年に二、三回は顔を出していたのだ。しかし、この老婆があのオカミサンであったとしたら、何十年ぶりであろうか。優しく垂れた目は翁と媼をして遠い昔のタイムマシンの働きをした。翁と媼はいつか時の流れを忘れてお互いと老婆を見つめていた。
「ボトルはこれでございましたね。」
 媼がそのボトルを手にとって、よく見ると、ほとんど判断はつかぬのだが微かに記されている何かがあった。翁も同じことを考えてボトルを凝視している。
「あなた、見えるほら、ここに。」
 媼の指差した場所には何もなかったであろうに、二人は同時に叫んだのである。
「見える。見える。  が」
 本作品が絶対に出版も発表もされない理由が賢明なる読者にはもうお解かりでしょう。この魂をゆさぶる本編最初のクライマックスが、ある二人を除いては、何のことか全くわからぬからじゃ。なんちゃって。 

 

十一

 舞台を再び金魚鉢の方に移そう。夕暮れが近づいてきた。日本には夕焼けも無くなっており、ただ暗くなりかけることのみが夕暮れを知らせるのである。 
 部屋は前述したように窓が一ヶ所あり、片方は誠に味気ない万能魔法蛇口が並んでいて、もう一方が情報についての壁であった。これはテーブルについているスイッチにより壁の半分もあろうかという大スクリーンが写し出される。世は新聞も本もなくなっていた。新聞や本の出版が禁止されたのは21世紀に入ってすぐのことだった。時の政府は出版の禁止に当たって、既出版物・・・個人の蔵書等全てを含めても、廃棄するという計画を立てた。
 あの頃は年に二、三の禁止法が必ず出されたものである。そのどれもが、既存のものも許さぬという厳しいものであったが、その罰則も熾烈を極めた。犯せばほとんどが死刑であり、手間がかからぬように阿蘇山の噴火口に突き落とすのである。しかし本の禁止令は既存のものについては黙認された。しかしあの大地震により、仮に阿蘇山の溶岩の餌食とならずとも、世のほとんどの書物は消えてしまった。 
 翁は読書家で五千冊を上回る蔵書が大切な心の財産であったが、火の海に消えるとき一冊も持ち出さなかったという。身体が不自由な老齢の身では、翁の心情をもってすれば書物と共に死んだほうがましであったのかもしれぬ。二、三冊の本だけを持ち出すことを翁は他の見捨てる本に対して恥じた。
 だが、翁は書物とも心中せず生きのび、次の地球の世代をも経験することとなった。大地震は人類、すなわち日本人の社会の行き詰まりに終末をつけさせるべく神が仕組んだドラマだったのかもしれない。翁はそれを感じていたらしい。
 見かけによらず翁は世の誰よりも繊細なる神経を若い頃より持っていたのだ。その位のことは解るであろう。それでも、翁が生き残ったのは、媼と一日でも長く暮らしたかったからに相違ない。媼もすべてのものを失った。残ったのは、ひからびながら、やや太めの汚いじいさん翁と、隠し持った一冊の文庫本であった。
 それは瀬戸内晴美の隠し子でクリスチャンのセント・ナイハルミ著の「比叡っ!」であった。

 

十二

 情報は一台の壁掛け(はめ込みというべきか)式超大型テレビジョンスクリーンのみによってなされる。そしてその内容は綿密に計算されたプログラムが組まれ、その基本方針は日本国の現在を存続させる為に国民に何を見せたら良いかであった。もちろん、当初は多くの世論の反対で満ちたが、情報はこれしかない。文化的資質が高いと称する人間ほど、情報を欲しがるものである。このテレビプログラミングにはそういうものを洗脳する働きを持っていることを有識者は知っていた。その証明として全国民が洗脳されるのに、政府の当初の予定五年をも要しなかったのである。反骨精神を持ってなる翁が、九十九の齢を数える現在、それらに反発しうるエネルギーを未だ秘めているとは思い難い。
 しかし、翁は次々に流れる情報に、老いの力をもって抵抗した。だが、哀しいかなその抵抗とは、唯一人、ブツブツとつぶやくことでしかなかった。テレビ映像の内容については、本篇では触れない。ただ、既に「歌」なるものは日本に存してなかった。  
 大地震を遡ること十年位前に、全ての音楽は禁止令によって姿を消した。そのきっかけはカラオケの氾濫にあったのは想像に難くない。地震前は鼻歌を歌っただけで獄に繋がれるほどであった。この時のカラオケ禁止令に政府がかけた力は凄かった。国家権力の全てを集中したと言ってもよい。その頃の赤新聞(落書の役割を果たしていた)には日本国家総理大臣兼総統幕議長の超音痴ぶりを揶揄する記事ばかりで埋められた。
 カラオケ禁止令に続く諸令が、この世の歌と音楽なるものを抹消した。そして今ではそれとは別の理由により、歌は無かった。歌を作り、歌い、拡める余裕とエネルギーを日本人は失っていた。テレビから時に流れる唯一の音楽は、政府が音楽家受難の時代をも生き続け、大地震さえも乗り越えた唯一の音楽家に作曲させたものである。媼はその曲が流れると、いつも口ずさんだ。覚つかなげに・・・ 翁も媼もその作曲家の名前は知らなかったが。
『歌は死にますか・・・』

 

十三
 この辺で翁と媼の風采について触れるべきであろう。翁は一事で言えば、萎びたカボチャであろう。萎びた牛蒡でないのは小太りであるからだ。頭髪は全く無い。もともと額が狭かったのだろう。まっ白で、5センチメートル以上もあろうという眉の上はすぐにつやのある頭になっていた。ということは頭はかなり光っていることになる。
 顔は縦横自在にしわが走っている。細い目は、そのしわの一本であろうが、判断は不可能である。鼻はそのしわの中央にかなりの位置を占めていた。まっ白な鼻毛がどんどん伸び、媼がしょっちゅう、抜きながら苦情を言った。歯が一本も無い口は、すぼまっており、何か言う時は口を開けずブツブツ言った。前述したように、やや左半分が不自由である。 
 六十八才の冬、軽い中風で左半身が麻痺した。その時翁は右手をずっと股間に当てていた。看護婦がその手を離そうとしても効かぬ身体で必死に抵抗した。ずっと看病していた媼が二人だけになった時そっと聞くと、翁は口をゆがめつつも媼だけ理解できる言葉遣いで言ったという。
「左半身が麻痺すると医者が言うとったから、あれを右側に寄せとったのじゃ。」

 

十四
 次に媼の風采に触れる。これも一言で表せば、顔がくたびれたまくわうりで、身体はしなびた青首大根であろうか。総白髪は束ねもせず、手入れをする道具も何も無いのにふんわりと両肩に掛かり、歩くとたおやかに揺れた。個性的な顔立ちが、九十一才の歳を重ねることによりどのように変貌したかは、年をとっても女性は女性であるからあえて描写は避ける。想像力豊かな読者の判断に委ねるのみである。
 服装というと翁も媼も全く同じものである。多分、お仕着せであろう。明るいベージュの上下で、下着は何もない。暑さ寒さに関係ない金魚鉢暮らしのため、入居と同時に従前にこのお仕着せ上下のみを支給される。色はベージュで身体の線を隠すためか、ゆったりとした作りである。規則としては毎日着替えることになっている。例の万能蛇口の一番右端のボタンを押すと、壁に丸い穴がありその中の同じ服を取り出し、一日着用したものを放り込む。この小さな穴は完全消毒洗濯機(もちろん全自動)なのだ。便利だけども色気がない。
 翁と媼がうまそうにアルコールを啜り終わる頃には日が暮れたのであろう、鉛色の空が藍色にかげった。
 翁は「もう一杯のみたいな。」と一人言。
「ご自分のでしたらお飲みになって結構ですよ。」翁は聞こえるのか聞こえないのか、別の話をしだした。
「お前さんは何でも良く似合っていたのう。そのベージュ色を見ていると昔を思い出すわい。
「それにしても、ファッションにうるさいまり子が、こんな物を着せられて。」いつのまにか翁は涙声となり、涙がしわを伝って八方に流れた。媼もちょっと感傷的になったみたいだったが、急に背筋を伸ばすと軽やかに言った。
「私のは、他のとは違うのよ。あなたも目が悪くなったのねぇ。」媼は立ち上がり、翁に背を向けて尻を突き出した。尻の部分の布地が何枚かしわになっていて、その形が妙に色っぽい。翁がよく目を近づけて見ると、今から遡ること六十数年前の、懐かしくも愛おしい、シワシワマークがそこにあったのじゃ。

 

十五
 話は、またまた2005年に遡る。読解力に富む読者(賢明なるとばかり書くと、嫌味になるからね)であっても空間を超え、時間を超越せる本物語であれば、整理がつかなくなる恐れもあり、書いてる方も良く解らなくなるため1981年から2043年に至るまでの日本の歴史の簡単なる紹介をしておく必要があろう。
 高度成長期から安定路線を選別した八〇年代の日本であったが、飽くことを知らぬ日本と日本人は再びモーレツ成長のレールを突っ走った。それは過去のどれよりも他国を無視したものであり、機関車に炭をくべた日本はブレーキが故障したかの如き有様だった。
 まさしく暴走機関車「日の丸号」である。経済大国は米国をもしのぐものとなりつつも、その裏側にある矛盾がさらに広がっていることを多くの国民は自覚していた。しかし、走り出した機関車を再び止める力と勇気は誰にも無かった。力には力の報復。 
 世界は日本を除き大同盟を結んだ。時は21世紀の黎明期である。日本には打つ術がない。世界は武威による単純な制裁をとらず、真綿で首を絞める方法をとった。経済制裁であった。日本は2010年に正式に発足した世界連盟への加盟を永世せぬことを誓って、鎖国を始めた。物資の不足は毎年出される禁止令によって補われた。日本人の能力はそれでも、あらゆる問題を巧みにしのいだ。しかし、それが限界に近づいたとき、神は地球に大地震を与えたのである。生き残った多くの日本人は、むしろ壊滅を安堵して迎えたのだった。
 全てが無くなったが、生き残った人達はやはり生きねばならない。地震より20年も経つと日本はまた安寧を取り戻した。国民が誰も知らない秘密政府が全てを取りしきり、国民はその奴隷となった。それは労働の無い精神的な奴隷であり、考えようによっては肉体的なものより辛い。しかし、日本人は唯々諾々と従ったのである。むしろそれは働き続けた日本人がやっと見つけた安息の地とも言えた。
 2005年の日本は物質的には頂点を迎えつつ、不安はひしひしと押し寄せており、人々は迫り来る恐怖を感じながら享楽に明け暮れていたのである。この年の春、翁は六十一才、媼は五十三才であった。

 

十六
 中野坂上の15階建の瀟洒なマンションの10階の一室で、令夫人とオバハンが昼間からウィスキーの水割りを飲んでいる。令夫人もオバハンも五十がらみの年配で、グラス片手におしゃべりに夢中。三才位の女の子がうるさく二人の背に交互にまつわりつくが、そんなものはおかまいなしのようである。
「何でも物はあるのに、政府はなんであんなに禁止令ばかり出すんでしょうね。」
「ほんとよ。まさかお酒は禁止にはならないでしょうね。」
「いや。わかんないわよ、政府の偉い人の好みですぐ禁止令がだされてるみたいだもん。」
二人の顔は誠に対照的であった。しかし、体型と雰囲気はなんとなく似ている。オバハンが言った。
「旦那さん、相変わらずなの?」令夫人が答える。
「そう、昼間は売れない映画を作って、夜は売れない小説を書いてるわ。」
「小説は、まだものにならないの?」
「そうよ、二十才の時、文学界新人賞の最終審査まで行ったのが最高なんだもん。ねぇ、聞いて聞いてぇ。この間喧嘩した時、言っちゃったの。売れない小説のこと。あの人ったらね。何を書いてもお前のことが頭にあり感情がのめり込むので駄目なんだ。って私のせいにするのよ。」
 令夫人はふくれてみせたがまつ毛の長い大きな目は笑っていた。
「あれっ。結局のろけられたわね。」
 時計は4時を差した。マンションは広いワンルームで、さっぱりとした造りである。毛足の長いじゅうたんに直接座り、あんまりお行儀良くない格好で昼酒を飲んでいるのだが、何となくサマになっているのだ。チャイムが鳴った。令夫人はさっと立ち上がり、玄関に向う。
 老紳士が入って来た。オバハンが立ち上がり、「おじゃましてます。」と垂れた目をさらに細くする。老紳士は手に何かを抱えている。
「映画の配収がやっと入って来るんだ。これはお土産。」
 令夫人はきちんと頭を下げると相好を崩して受け取る。
「いいわねえ、あなたは。相変わらず何でも買ってもらうんでしょう。私なんか何も・・・でもこれはあなたには無いものね。」
オバハンは、じゅうたんに転がって、まるで生きてるような猫ちゃん人形と遊んでいる女児を膝に引き寄せた。
「かわいい児でしょう。」
令夫人はちょっと悔しそうに言った。
「あなたのところは子供は三人とも大きい目で可愛いのに、孫は、どうして、そんなに目が細くて、垂れてんだろうね。」

 

十七
 オバハンは固辞したのだが、夕食を共にすることになった。折りたたみだが趣味のよいテーブルが出され、ウィスキーがどんどん減る。老紳士は終始笑顔を絶やさず、結構飲んでいる。女児が満腹したのか、席を離れて老紳士の腕にまとわりつく。そして
「おじいちゃん、どうしてお酒を飲むの?」とこまっしゃくれた調子で聞いた。
「何じゃと?」一瞬に老紳士の穏やかな顔が厳しくなった。
「わしがいつお前のおじいちゃんになった!」老紳士のどら声は老人とは思えぬほど大きく、女児は火がついたように泣き始めた。
「あなた、いいじゃありませんか。子供から見るとそう見えるのよ。私の妹分の孫なんだし」老紳士は憮然として答えた。
「じゃあ、せめて、おにいちゃんとか、おじちゃんとでも呼んでもらいたいね。」

 

十八
 『きたじま』では翁と媼が飲んでいた。何故かこの物語の登場人物はどこでも誰でも酒ばっかり飲んでるね。これは主人公の設定が、アノお二人であるので必然性があるのじゃ。たまには高級レストランでフランス料理とか、純喫茶で上品なおしゃべりとか・・・読者がそれを期待しているのはわかるけど(ん? 期待してねーか・・・)いくら筆にまかせての作者でも、キャラクターにとらわれて書くのが作家の悲しい宿命なのであーる。グスッ。
「何か、つまみは?」媼はおうむ返しに答えた。
「あさりバター!」
「あれは昔の味が無くなってるよ。」
「でも、ここへ来ると、どうしても。」
「お待たせいたしました。」店の造りに不似合いな三十がらみのおかみさんが、大きい皿を持って来てテーブルに置いた。五ミリぐらいの固まりが十二、三個もあろうか。茶色のがあさりで、黄色はバターとお味噌のスープエキス。
 何と、日本の味覚はこの時代には激しい変わりようを見せていた。このキューブが、あのあさりバターの変わり果てた姿とは・・・ トホホ。
 老婆が勝手から、また顔を出した。
「本当に世の中変わりまして、こんなもんですみません。けれどもお好みに合わせてスープの方を多くしておきましたからね。」

 

十九

 金魚鉢では、翁と媼がかなりいい気持ちになっていた。三、四杯は杯を重ねたらしい。
 既に陽はとっぷりと暮れたのだろうが、空には一条の光を放つ月も星も無く、どす黒い藍色が重く垂れている。
「あなた、もう飲まないほうがいいわよ。来月分も終わったんじゃないの。先取りは一割ずつ引かれるわよ。」
「いいじゃねえか、オレがオレの酒を飲むのは、ウィー。」翁は恍惚の中にあるようだ。
「そんなに酔って、知りませんよ。酔うと寝る時、私にからむからイヤ。」
「オレがからむ? いつからんだ。」
「いつだってそうじゃない。この間なんか、なかなか寝ないので、私は自分の部屋で寝ますよーって言ったら、泣き出したくせに。」
「それはお前さんがおっぱいを飲ませなかったからにゃろ。」翁はもうロレツが回らない。
「お前さんも昔は優しかったのう。いつでもおっぱい飲ましてくでたのに。」
「今だっていいんですよ。だけどあれ以来嫌になったのよ。」
「なんじゃ、あれって。」
「あなたも年とってしまって感覚無くなったから思い切りかむじゃない。昔みたいにピンと上向いた豊かな乳房じゃないでしょう。おっぱいにあなたの入歯の上下が噛み合って外れなかったでしょうが。」
「ああ、あの晩か、いやワシはゆっくり寝れたよ。」
「そりゃそうよ、総入歯はそのまま私のおっぱいにかませたまま、あなたは先に眠ったんですもの。」

 

二十

「もうそんな話はやめよう。」
「都合が悪いと、すぐこれだから。」
「それより、まり子、歌でも唄えよ。」
「だって、歌は禁止されてるでしょ。」
「かまやしない!」
「だけど、バンドもカラオケも無いし、ダイイチ、聞いている人がいないでしょ。」
「ワシがおるがな。」
「あなたはだめ! オンチだったのを私があんなに教えてあげて、やっと下の中の並位には歌えるようになったのに、カラオケ禁止令が出ると、一月も経たないうちに元のオンチに逆もどり。そして近頃じゃ、何の歌かも解らなくなってるじゃないの。」
「そう言うでない。ワシはまり子の歌を聞くと心が和むのじゃ。」翁はそう言って奇妙な声で笑った。媼もごく単純な性格の持ち主と見える。翁のお世辞が効いたのか、
「久しぶりに歌っちゃおうか。」と瞳を輝かせた。媼の顔には酒のせいでほんのり色がさし、翁の心は弾んだ。
「それじゃ歌え。ほいほい。」翁は不自由な左手のために巧く合わない両手を、それでも苦心して手拍子を始めた。
「またこれだから、あなたは、何の歌でも手拍子をとるんだから。ナウくないのよ。」
「いいじゃないか、手拍子に会わせて歌えば。」
「たくもう。正調東京音頭とはチャイますからね。あなたなんか、東京音頭ばかりヨイヨイヨイヨイと歌ったので本当にヨイヨイになったじゃん。」
「じゃ、手拍子やめるから早く歌え。」
「それじゃ歌うからね。」媼はまるで二十代に戻ったような口調である。当然目は輝いており、立ち上がって、ちょっと身体を斜めに構えると腰で調子を取って歌い始めた。
「何を歌ってるの。」
「また、忘れて・・・私のつい最近までの心境を託して、皆んながいつも感じが出てる、声もピッタリだって言っていた歌でしょうが。」
媼はまた最初から歌いだすが、翁は首を傾けて、口をへの字に曲げている。
「やっぱりワシにはわからん。何じゃ。」
 2043年は禁止法後すでに30年以上も経っているので、作者には全く思い出せないのである。
「だからさ、ええじれったい!私の持ち歌『瀬戸の花嫁』に決まってるじゃないの」
「ギョヘッ!」

 

二十一
 
 中野坂上は陽もとっぷりと暮れた。完全防音の十階の一室では、大宴会となっていた。部屋全体に組み込まれたカラオケ装置がボタン一つで操作される。カラオケ禁止令が出されたのをきっかけに、次々と音楽に関する禁止令が出されたのはその翌年からであった。カラオケ文化はこの頃には極度に発達していたのである。令夫人とオバハンの喉は、なかなかのものであった。
 老紳士は時々令夫人に「あなったってオンチね。」とか、「そこんとこチャウチャウ。」などと叱られながら、人の良さそうな顔を更にゆるませて、それなりに歌っていた。
 歌い疲れて三人が一休みして水割りを飲んでいると、傍らのカラオケの大ボリューム音量を子守唄代わりに聞きつつ寝ていた女児が目を覚まし、両手で垂れ目をこすりこすり起き上がった。
「コチミ。目が覚めたの?」とオバハンが声をかけた。この女児の名前は何故かコチミというらしい。
「あたいも歌うの。」コチミが舌ったらずの口調で言う。
「そう、コチミも歌うの。じゃあ、何の歌にしようかな。『ゾウさん』がいい?」オバハンが勝手にスイッチを入れると、『ゾウさん』なる歌の前奏が鳴り出した。コチミはおしゃまっぽく頭を下げると、マイクを両手で押し戴くように口元によせて、頭をちょっと傾けた歌い出した。
「ゾウさん、ゾウさん・・・」コチミは歌いながら垂れた目をさらに細くして、小首を振り振り、しなをつけて歌った。老紳士は驚きに目を瞠った。コチミが歌っているのは、明らかに『ゾウさん』だが、老紳士の目にはあのコチミの母、オバハンの一八番である『カスバの女』としか思えなかった。

 

二十二

 『きたじま』特性あさりバター。箸のかわりにピンセットが添えてある。一粒ずつあさりとスープエキスを口に入れて味わうというのが食べ方であった。翁は、げんなりしつつも手慣れた様子で、ピンセットに挟み口に運んだ。あさり粒が口中に収まるやいなやのところで、翁はペロリとすくうようにしてそれを入れた。
「あなたぁ、またそんな食べ方をする。昔、あなたがすぐベロを出して食べる癖があるので、私が口うるさく言ってやって、ようやく直ったのに。やっと一緒になれたらとたんに気が緩んだのか・・・何度言っても直んないのね。」
 この媼も気が強いわりにはよくしょげるのである。ストンと両肩が落ちた。立っていれば、多分、尻も落ちたことであろう。
 あさりバターには、固形になっても、何となく昔の風味が残っていた。
「スープが多いように特に調合したんですがね。」老婆は首をちょっと曲げ、心配そうに覗き込んだ。
「いや、なかなかのもんです。」媼は右手を顔の前でヒラヒラさせながら言った。
「まり子、他になにか食べるかい?」
「そうね、ワンパターンだけど、なまこ酢とつぶ貝煮がいいわ。」
 あさりバターが固形になってる時代に、なまこ酢とつぶ貝煮なるおつまみが、どのような形でテーブルに運ばれて来たか。作者には敢えてそれを書く勇気はない。

 

二十三
  
 あさりバターはあさりとスープエキスが対になっているはずなのに、一個だけスープの粒が残った

「あれ、まり子、また数字を間違えて食ったな。」

「なんでよ。」
「だって、これは対になってんだから両方同時に無くなるはずじゃよ。」
「んなことどうだっていいじゃん。あなたは、最近年とったせいか、つまらないことにこだわるのね。」
「いや、こだわっているんじゃない。数が合わんと言っとるだけだ。」読者諸君も、作者と同じ感想を抱いていると思うが、ホントこのカップルは、いつの時代もつまらんことでもめるのである。・・・そこで読者がどなる。・・・「そこが良いとこなんじゃい」
「数、数って、何かというと、数字に弱い私をバカにするんだから。」
「バカになぞしとらんでしょうに。」
「いいんです!私は文系の頭だから。第一、数字に強い女くらい嫌なもんはないわ。」
もめながら、翁の媼を見る目は優しかった。ジャーン!
『きたじま』を出て、ガードの横を歩く。ウィスキーの質が落ちたのか、心地よい酔いとは言い難い。
「今日は少し冷えるわね。」媼はコートの襟を立てる。
「ちょっと歩こうよ。」翁は媼の返事も聞かず、先に立って危なっかしい足取りで雑踏の歌舞伎町へ向った。歌舞伎町は快楽と堕落の澱を更によどませて、やはり若者で栄っていた。翁は媼に左手を差し出す。媼は優しく翁の手をとった。
「お前さんは、昔から、ワシと手をつなぐのが好きだったな。こんな年で手をつなぐのは、さすがのワシも面映いよ。」
「また、そんなこと言って、いつ転ぶかワカンナイから支えてるだけじゃないの。」
 現実は昔も今も厳しいのである。

 

二十四 

歌舞伎町を抜けて大通りに出る。この通りは、この頃には大きな変貌を遂げていた。道路を含めた両側が一つの大きなビルディングの中に組み込まれている。しかし、虚しい巨大さと豪華さであった。数々の禁止令が、そこにしつらえられたすべてを空虚にしていた。これこそ日本崩壊の前兆と言えた。
 翁と媼は足早にそこを去り、旧伊勢丹ビルの裏へと歩いた。伊勢丹は見るかげもなく廃虚と化していたが、隅の方に一条の明るい灯が差しており、行列が出来ている。20人余りの行列は全て若い女性であった。灯りの中に腰が曲り、頭髪の大部分が抜け上がった老婆・・・どうでもいいけど、バアさんばかり登場する物語ですな。・・・が、大きな天眼鏡を片手に持ち、立ったまま手相をみているのである。媼はそれを見ると立ち上がった。媼の目が一瞬細くなり遠くを見るような目つきとなった。媼の頭を去来したものは何か。それは筆では表現しえない。ただ、媼の和んだ顔が美しく、灯影に揺れているのを作者は見たのである。
「おじい・・・じゃなかった。あなた、憶えてますか。」
 翁は、握った手を通じて、媼に支えられているのだから、必然的に媼とともに立ち上がり、見るともなく灯影を見ていた。
「思い出さないの、あなた。ほら『新宿のハハ』じゃありませんか。」
「違うね。」
「どうして?」媼は目を凝らした。
「やっぱりそうよ。小さいけれど看板が後に立ってるじゃない。『新宿のハハ』って。」
「違う。目はまだワシの方がいいんだよ。良く見てみなさい、まり子。濁点が付いてるよ。」 媼はもう一度、良く目を凝らした。
 看板には確かに『新宿のババ』とあったのだ。

 

二十五 

オバハンは疲れてあどけなく眠ったコチミを背負って、満足そうに中野坂上のマンションを辞した。老紳士が新聞に見入っていると、令夫人はマンションの広い窓越しに、東側の家並みを見下ろしていた。
「どうした?」老紳士が声をかけても令夫人はじっと佇んでいた。新宿の派手なネオンが漆黒の空に、
 令夫人のスリムなプロポーションを浮き立たせていた。
 老紳士が立ち上がり、令夫人の両肩に手を置く。令夫人の目はうるんでいる。
「どうしたのかね。」
「ここから見てると、何故か昔のことを思い出すの。よくは解らないけど・・・」
「あの新宿のネオンがそうさせるのかい?」
「ううん、あれ。」しわがかなりあってもスーッと伸びた美しい指はマンションの真下にある一軒の汚い、毀ち家のようなアパートを指さしていた。
「あの二階の部屋から灯りがもれてるわ。カーテンも無いのかしら。あそこに住んでいる人は何を考え、何に希望を持って生きているのかしら。かわいそう…幸せになればいいのに。」
 令夫人の目は、美しい涙を湛え、頬にこぼれ落ちた。老紳士は胸をつまらせて、優しく令夫人を抱いた。

「お前はほんとにいい娘さ。」
「良い娘?こんな、おばあちゃんになったのに。」
「いや、お前の本質は昔とちっとも変わらない。」老紳士の胸の奥から急に湧き上がるものがあった。彼は広い胸に令夫人をかき抱くと、激しく唇を求めた。
「だめ、見えるわよ。」
「見えるわけない。ここは2階じゃなくて10階だ。」二つの唇はお互いを吸い込むように合わされる。柔らかい感触に二人は昔を想った。ふいに令夫人が唇を離して、目を丸くした。涙は湛えているが、既に目には笑いが戻っていた。老紳士は訝りつ言った。
「どうかしたの?」令夫人は甲高く娘みたいな口調で答えた。
「あなたの唇って、どうして、そんなにおいしいの?」

  

二十六 

この辺で話は2043年の金魚鉢に戻って、新しい展開を期するべきである。
 しかし、翁と媼はもうすっかり寝込んでいる。最近の翁は以前にも増して、寝るときに媼を手こずらせているようだ。しかし既に二人は夢路をたどっている。作者としては、そっとしておいてやりたいのだ。そして、ここで作者はこの物語の筆を置くのである。
 2020年の大地震後の翁とその子と孫たち、2005年の老紳士と令夫人がその後どうなったのか。この小説を終わらせる為には、もちろんもっと多くの枚数を要する。しかし一旦はやはり筆を置くことにする。

  作者はこの物語で永遠の愛について語りたかった。その真意の一部は読者もくみとってくれたと思う。今はそれだけに満足して、筆を置くのである。
 将来、この物語を再び書き始める日が来た時、作者はもっと、もっと、優れた愛の物語を書けると思う。読者もその日を待ってもらいたい。
 最後に何よりも、何よりも、この変てこな、そして素晴らしい小説を真に理解できる読者がいたことを無上の喜びとし、神に感謝するものである。         未了 


 ほかの作品もお読みください。

     『花は桜木』
     『神田川
     『蝉しぐれ
     『SFもどき』
     『ある愛』
     『狂歌』
     『喪春記』

   烏森同人Top頁に戻ります。