その二階建ての家は、護岸工事された殺風景な神田川の豊橋のほとりの僅かな敷地に、頼りなげに建っていた。北側の窓を開ければ、窓の下に黒ずんだ細い流れがあり、異臭が鼻についた。一階の曇りガラス戸に「小料理
たぬき」と遠慮深げな看板がある。二階は六畳一間。片付いているというより、殺風景に近い。二郎は障子を開け、神田川と対岸の紅葉を見ていた。既に暮れかかっている。紀代美が階段を上ってきた。
「もう、秋だね。また、年をとるのよね。」
二郎はそれに答えず、ラジオのスイッチを入れた。歌が流れて来た。
『あなたは もうわすれたかしら 赤い手拭 マフラーにして 二人で・・・』
紀代美は、ラジオのスイッチを乱暴に切った。
「私は、この歌が大嫌い。いい気なものよ。」
「オレは好きだよ。情感がこもっていて。」
「ふん。あんたも、若い娘と同棲したいんでしょう。こんなお婆ちゃんじゃなくて。」
「バカなことを言うな。オレはママが好きなんだ。」
「私の、どこが好きなのよ。あそこでしょう。」
二郎は、言いようもなく凶暴な気持ちになった。飛び掛ると下着を剥ぎ取り、下半身を叩きつけた。「ママを好きなんだ。大好きなんだ。」
「じゃあ、もっと優しくしてよ。痛いじゃないの。」
二郎は、それを聞かず攻めたてた。紀代美は目を閉じ、喘ぎ始めた。
「いい、いい。もっと、もっと。」
終わると、紀代美は二郎の肩に手を回し、唇を重ねた。
「私は、二郎のことを、本当に好きなんだからね。捨てたら恨み殺すよ。」
胸に飛び込んだ白い裸身は、驚くほど小さい。
「捨てるもんか。こんな大事なものを。」
「もう、二年近くになるのね。」
腰に手を回し抱きしめた。滑らかな肌が細かく震えている。
「何だ。寒いのかい。」
「ううん。恐いの。」
「何が?」
紀代美は、それに答えず、手をつき、ゆっくりと起き上がると身支度を始めた。
もう、外は暗くなっている。
「店を開けなきゃ。今日は泊まっていってね。」
「いや、学舎の総会なんだ。その後は飲み会。また来るよ。」
二郎も服を着て、急な階段を下りかかった。
「男って、いつもそうよ。何処かに帰って行き、そのうち、いなくなるのよ。」
背中で、紀代美の声を聞きながら階段を下りる。胸が締め付けられるような愛おしさを感じながらも店を出、学舎への坂道を急いで駆け上がった。三回生の秋だ。
二郎は熊本県の城北の、ある町で生を受け育った。町は大河のほとりに細長く位置し、有明海からの舟運で江戸時代以前から栄えていた。彼はひとりっ子で、生真面目な父親と、優しい母親房子に大事に育てられた。町外れにある小さな一軒家。豊かではなくとも、つましい生活にはふさわしいものだった。しかし、二郎が小学三年の時、生活は一変した。市役所に勤めていた父親が自殺したのだ。役所で不祥事があり、全責任を取ったのだ。遺書は一行だけだった。
「二郎を頼む。」
退職金も出ず、弔慰金もない。困った房子は、実家を訪ねた。そこは町の西方。山深い所だ。茅葺の家は、百年以上も経っている。玄関で声をかけると、小柄な老婆が現れた。
「お母ちゃん、久し振りね。お父ちゃんはいますか。」
老婆は、目をしばたたきながら、
「房子。お父ちゃんはこう言っているよ。房子が来ても、この家の敷居を跨がせるな。犯罪者の夫を持った娘は一族の恥だ。」
「彼は、犯罪者ではない。ただ・・・」
「私には分かっているよ。でも、お父ちゃんは肥後モッコスの典型だし、私の言うことなど聞きはしない。」
房子は肩を落とし、道なき道を下った。房子には手に職もない。仕事を探し働きづめたのだろう。二郎は格別の苦労もなく地元の高校に進んだ。
そして大学受験の時期となった。
「東京の大学に行きなさい。」
「金がかかるよ。熊大を受ける。」
「ダメよ。お父さんの遺志を継ぎなさい。早大に行きたかったけど、経済的なことで断念したのよ。学歴がないばかりに、あんなことになって。」
「でも、受験には金がかかるし、もし、合格したら、入学時の費用も。」
房子は仏壇の下から封筒を取り出した。
「これは、お父さんが何かの時に二郎に渡せと言っていたものよ。今がその何かの時でしょうが。」
母の顔はにこやかで、二郎は眩しさを感じた。
急行「霧島」は熊本から東京まで二十三時間の長旅だ。特急や寝台車に乗る余裕のない二郎は、やっと確保した固い座席でまどろんでいた。房子が持たせてくれた六個のおにぎりと、大好きなゆで卵が十個。
「一度に食べると、身体に毒だから小分けしてね。」
房子は駅に見送りに来なかった。
「もう、お前も一人前だ。私のことなんか忘れて、勉強するのだよ。」
目を覚ますと、京都を過ぎていた。車窓には、三月の終りなのに雪化粧された山々が続いている。関が原の近くらしい。南国育ちの彼の目には、眩しくも美しくも見えた。浜松を後にした頃、周りの乗客が騒ぎ始めた。
「今日は、富士山が見えるかな。見えると縁起がいいんだが、見える確率は三割だそうだがね。」
曇り空。富士山は姿を見せず、列車は東京駅に滑り込んだ。電車を乗り継ぎ、都電の早稲田駅で降りた。地図を頼りに、重いスーツケースを提げ神田川を渡る。豊橋とあった。だらだらした坂を上ると「朋友学舎」の看板があった。ここは、元肥後藩主細川氏の中屋敷跡。三階建ての古めかしい建物が、コの字型に建っている。背後は目白台の丘。有力政治家の豪邸の樹木が、圧するが如く学舎を蔽っている。ここが玄関なのだろう。無数の履物が散らばっている。多くはちびた下駄だ。
「ごめんください。どなたか。」
何度呼んでも返事がない。しかし、声高な騒ぎは聞こえている。さらに声をかけると、どてらを着た男が顔を出した。
「なんだい。」
「今日から、入舎する柳井です。」
「部屋は決まっているんだろう。早く上がれよ。俺は委員長の渡辺だ。今は、飲むのに忙しい。何号室だ。」
「六十四と聞いています。」
「銀座通りだな。なかなか眠られんぞ。部屋はそこだ。俺は一号室。三階の端にいる。今度ゆっくり話そう。」
風体と口の聞き方は、乱暴だったが何となく、親しみを感じた。六十四号の表示のある部屋の引き戸を開けようとしたが開かない。中から声がした。
「そんな開けかたじゃ開かないよ。一度、蹴飛ばすんだ。」
軋みながら開いた戸の向こうに男が立っていた。声と違い、細身の長身の男だ。
「柳井二郎です。先輩にはお世話になります。」
男は笑い出した。
「先輩か。そりゃあそうだな。昨日、来たばかりだけどね。まあ、入れよ。僕は伊藤。」
六畳には何もない。押入れには襖もなく、カーテンがかかっている。
「布団と荷物はチッキで送ったが、まだ届かない。きみもか。」
「はい。」
「今夜は先輩の部屋で、炬燵に足を突っ込んで寝るしかないな。」
人に馴染めぬ二郎だが、伊藤には親しみを感じた。
「あんまり神経質にならない方がいいよ。ここは、バンカラで乱暴な人が多いと聞いている。でも、それだけなんだから。僕は新聞の配達を始めた。店に住み込む手もあったが、自由も欲しいしね。まあいいや。配達で、朝も早いし、夕方も配達。お互いに気にせずやろうよ。」
大学へはだらだら坂を下り豊橋を渡る。学生街の賑やかな通り。帽子屋、書籍店、洋品店。最も多いのは食堂。二郎は、それらには目も向けず、教室に入り、講義を受けた。少しでも、いい成績を残し一流商社に入るために。そして、母親のために。夏休みには、建設現場の作業員になり、飯場に住み込んだ。奨学金では、舎費や食費、教材費は賄えても、後期の授業料には届かない。学舎は、渡辺の言葉通り騒がしかった。彼は、むしろそれらを、勉学の励みとしていた。伊藤は寝る以外には、殆んど部屋にいない。小さい彼のデコラの机は、二郎の勉強机となっていた。
十二月。この学舎の盛大な祭りがある。大広間には近在の人々も集まり、演芸、かくし芸。夕方からは大饗宴となる。父親は下戸だったが、二郎は酒が飲めた。でも、飲める身分じゃないと自制していた。座が乱れ始めた時、渡辺が近付いて来た、赤ら顔で酒臭い。
「柳井、お前は暗くていかん。飲みにつれてったる。」
「充分に飲んでいます。それに、まだ宴会の最中でしょう。」
「これは、朝まで続くんだ。骨休めにいこう。伊藤も連れて行くぞ。」
この夜が、「たぬき」と、紀代美との最初の出会いだった。店は混んでいたが、カウンターに三人は割り込んだ。ふっくらとした顔の女性がカウンター越しにいて、料理をしている。割烹着姿。ひっつめた髪のうなじの白さが、目についた。
「ママ。繁盛しているね。」
「あら、なべちゃん。久し振りじゃないの。」
「こんな高い店に、しょっちゅう来られる訳がないだろう。ええと、こいつは伊藤。何回か来ているね。隣のごっついのが二郎。真面目いっぽうだ。」
「へえ、あそこに真面目な人もいるの。」
「俺もそう思う。で、前にも聞いたが、この店は何故、たぬきというのかね。」
「何回も言わせないで。私が、たぬきに似ているからよ。キツネには見えないでしょう。」
「じゃあ、二郎と同類だ。顔も坂上二郎そっくりだ。」
その女は二郎を見詰め、微笑んだ。優しい目、なんとなく、心が和んだ。
歳の瀬となり、舎生の多くは帰省したりスキーに出かけたりし、学舎は閑散としていた。同室の伊藤も、ちょっと出かけると言ったままいなくなった。物寂しい。懐を探ると、一月の舎費を払っても幾許かの金が残りそうだ。「たぬき」のあの女の微笑が胸に浮んだ。
八時すぎに、「たぬき」の戸を開けた。客は誰もいない。
「もう、店じまいよ。今日は三十日よ」
上げたその顔には、何の化粧っけもない。
「あら、こないだの同類だね。どうしたの。」
「皆、いなくなっちまった。ママお酒飲まして。」
「もう、火も落としたけど、まあいいか。明日から三日まで、お休み。私も飲もう。でも、つまみはないよ。」
コップに注いだ冷酒で、乾杯した。
「あなたのことは、なべちゃんに聞いたの。母ひとり、子ひとり。苦労したんでしょう。」
その目は母親の目に近かった。
二郎はコップを一気に呷る。
「いいよ、そんなことは。もう一杯。」
「だめよ、そんな飲みかたをしちゃあ。それに、出世前の早大の学生さん。こんな店には来るもんじゃないよ。見かけはともかく、変な女に狙われるよ。」
「じゃあ、飲ませなきゃいいじゃない。」
「それもそうだね。今日は、歳末大サービス。私も飲むよ。言い忘れたけど私は紀代美。名前だけは一丁前。」
何杯目だったのか。二郎は急に酔いが回り、睡魔が襲って来た。身体が前後に揺れる。
「もう、止めなさい。帰れるの。」
二郎は、カウンターにがくんと頭を垂れた。
「しょうがないねえ。少し休んでいきなさい。」
紀代美の肩にすがり、二階に上がると、二郎は崩れ落ちた。
「今日は寒いのよ。それじゃあ風邪をひくわよ。」
二郎は花色木綿の布団に寝かされた。
気がつくと、障子が白んでいる。シャツとパンツ一枚で布団にくるまっている。焦った二郎は起き上がろうとした。すると、右手を摑まえられていた。隣に寝ている紀代美の左手だ。振り払って、
「オレは帰るよ。」
「何よ、つれないね。昨日は、あんなに激しかったのに。」
狼狽した二郎。
「悪かった。迷惑をかけたな。」
「冗談よ。あんなに飲んじゃ、何も出来るわけがないでしょう。」
紀代美は掛け布団を剥いだ。シャツをたくし上げ、二郎の胸に唇を当て、乳首を吸った。
「いい身体しているねえ。スポーツやってたんでしょう。」
「うん。高校まで相撲部だった。」
「若いって、いいねえ。」
唇を合わせてきた。二郎はそれだけで震えを覚えた。こじ開けた紀代美の舌は二郎を吸いまくり、口内を蹂躙した。
「ママ。」
「子供は黙っているの。」
紀代美の手が下半身に伸びた。交わったのだろうが、二郎には何も分からない。突然、体中に戦慄が走った。それは、快感というよりも、苦痛に近いものだった。
「ごめんね。」
「何が。」
「早すぎて。」
「生意気言うんじゃないよ。初めてなんでしょう。そのうち巧くなるよ。」
その蓮っ葉な言いかたに愛おしさを感じ、乳房の間に顔を埋めた。
「ほら、吸いなさい。オッパイの味を忘れているでしょう。悪いわね。二人も子供を産むと垂れるのよ。」
紀代美は背中に手を回し首筋に舌を這わす。
「やばいな。何だか好きになりそうよ。」
「ママ。もう一度。」
「今日はダメ。眠いの。あなたも、もう一眠りしなさい。」
目を覚ますと、時計の針は十一時を指している。紀代美はいない。店に下りると、濃紺のロングコートの紀代美がカウンター内にいた。店では、ひっつめている髪を肩まで長く垂らしている。昨日の彼女とは別人のように見えた。関係が出来たせいなのか。
「お早う。いや、もう早くもないか。」
「どこか、出かけるの。」
「埼玉の実家よ。日頃は滅多に行けないから、三が日は帰るの。娘二人も預けているしね。今日は大晦日よ。あなた、食事なんか、どうするのよ。」
「今日までは、賄いの舎食がある。でも、三が日は、お休みだ。」
「それじゃ少しかわいそうだね。」
紀代美は、風呂敷包みをカウンターに置いた。
「残り物で悪いけど、元日はこれでやりなさい。四合瓶も入れたけど、ちびちび飲むんだよ。二日には、前の「のぶちゃん」が開く。のぶちゃんに頼んでいくから、そこで食事をしな。」
「ママ。オレは。」
「私は、しつこい男は嫌いだ。またね。」
ボストンバックを提げた紀代美は、店の鍵をかけると、足早に都電の停留所に去っていった。その背中は何かを拒否しているようだった。北風が急に強くなる。安物のブルゾンの襟を合わせ、風呂敷包みを提げ、学舎への坂を上る。足元が覚束ない。初体験のせいなのだろうか。
年が明け、二郎は紀代美の不可思議なおせち料理を一人寂しく食べた。日頃は騒がしいこの学舎も静寂に包まれている。両替していた十円玉を握りしめ、公衆電話に走った。驚くほどの早さで十円玉は落ちる。房子が出た。
「お母さん、ごめんね。正月も帰れなくて。」
「それはいいけどちゃんと食事はしているんだろうね。学校には真面目に行っているの。東京には悪い女が多いそうだから、騙されちゃならないぞ。」
二郎は一瞬、言葉に詰まった。母親の直感なのだろうか。
「心配しないで。オレみたいな田舎者を相手にする女なんて、東京にはいないよ。元気でね。また、電話する。」
紀代美は、母の言うような悪い女なのか。二郎は、それを否定したかった。あの優しい目は、そうではない。
新年二日、ぬけるような青空。穏やかな日だった。朝と昼の食事は遠くのストアーの弁当で済まし、暗くなって「のぶちゃん」のドアを開けた。中はカウンターだけ。四十がらみの細面の女性が目を向けた。それが、のぶちゃんだ。結った髪は、やや乱れていたが、それが、かえって粋な感じだ。「いらっしゃい。正月早々に、こんな店に来てくれるとは嬉しいね。いや、おめでたいというべきかな。」
「ビールを」
栓を抜きながら、彼女は二郎を見つめた。
「二郎さんじゃないかい。」
「そうだけど。」
「やっぱりそうだ。たぬきのママが晦日に来て、身体がごっつくて、顔はたぬきみたいなのが来るかもしれない。二郎っていうの。面倒見てねって言っていたの。でも、よく見るといい顔しているね。味がある。」
「いや、僕は、正月は開いた店が少ないから、ここに行けと言われただけなんだ。」
「まあいいよ。正月だから私も戴くよ。」
のぶちゃんは、手酌でコップに酒を注いだ。
「紀代美は、実家に帰るって言ってたね。そういう時は、浮かない顔をするんだけど、今度は妙にはしゃいでいたよ。顔の色艶もいいの。そして、聞きもしないのに、二郎とは姉弟みたいなのとぬかしたの。姉弟もいろいろあるからね。その男はいくつなのと聞いたら、早大の学生だというじゃない。何よと言いかかったけど、紀代美の顔を見ていると何も言えなかった。
あの子も苦労したんだ。もともと客商売には向いていない。向かい合わせに店を開けたでしょう。商売敵だね。でも、いつのまにか何とかしてやりたいと思い、おにぎりの握り方から教えたんだよ。あんな子を騙したら、あたしが承知しないからね。」
二郎はそれには答えず立ち上がり、
「おあいそ」
「紀代美に言われているの。ツケは、たぬきへと。三倍頂くけどね。」
週に二、三度は「たぬき」に行き、看板後に紀代美を抱いた。まだ学生の身である。女に溺れてはいけないと、よく言うが、彼は、自分に言い聞かせていた。
「女に溺れているんじゃない。紀代美の優しさに溺れているんだ。勉学の力にもなっているのだ。」と。
二回生になった。ある日、ことが終わった後、紀代美は真面目な顔になり、
「二郎、ルールを作ろうよ。だらだらでは、男と女の仲は続かないよ。私はあんたが好きなの。」
「どんなルールなの?」
「いつも、あれの時は、あんたは看板までいるでしょう。こんな店でも人気商売だよ。私目当ての客だって多いの。あんたと出来ていると分かれば、お店、やっていけないかもしれない。その日を決めて昼間にしましょう。仕込みは三時には終わるし、三時以降講義のない日をカレンダーに書いて。私だって体の都合とかあるじゃない。でも、店にはいつ来てもいいよ。勘定は出世払いね。」
「昼下がりの情事か。」
「古いね。私はヘップバーンか。似ているわよね。あんなに口は大きくないけども。」
「でも、仕事前では、疲れるのじゃないかい。」
紀代美は二郎の頬を両手で挟み、おどけた表情を見せた。
「ほほお、私を疲れさせるほど腕を上げたのかい。おにいさん。」
二郎はふくれ顔になる。
「ふふ、ふくれてる。可愛いね。こんなことで、怒るうちが男も華よ。」
近付いた口を吸おうとしたが、それは額に移った。軽く唇を当て、
「今日は、これでおしまい。またどうぞ。」
彼には姉も妹もいない。紀代美は姉ではなく妹の感じがした。十五、六は年上だろうに、可愛らしく思った。
梅雨に入り、蒸し暑い日だった。北側の障子と窓を開けた。神田川も雨に靄っている。紀代美が階段を上がって来た。
「嫌な陽気だね。」
「窓を閉めて。」
「蒸し暑いよ。」
「いいから。」
閉めると、耳元に口を寄せた。いつもと違う淫靡な匂いがした。囁く。
「たまには、後ろからね。」
紀代美は、手早く布団を敷き、素裸になり腹這いになって、両膝をつき、高く尻を上げた。引き締まった尻だが、大きく見える。
「二郎。早く来て。」
声は上ずっている。あてがおうとすると、内腿には早くも愛液が流れ落ちている。挿入する。それだけで紀代美は「ひいー」。絶叫を上げた。獣の声だ。腰を使うと、両尻はそれに応じ激しく前後左右に動いた。絶叫は続く。
「ママ。声が大きすぎる。まだ昼間なのに。」
紀代美はシーツを噛んだ。背中には大量の汗。内部は、濡れすぎているのだろう。いつもと違い締め付けられる感覚がない。萎えそうだと思った時に、紀代美は突然、髪を振り乱し、シーツから口を離し、絶叫して両膝を伸ばしうつ伏せになった。挿入したままだ。離れようとすると、
「まだ抜かないで。背中に乗って。」
二郎の上半身も紀代美の汗にまみれた。全身はまだ、痙攣している。数分経った。
「あんたって重いね。」
「自分勝手なことは言うなよ。オレはまだ。」
やっと離れ、仰向けになった。
喘ぎながら、汗まみれで横向きに抱きついた紀代美の目は、まだ宙をさまよっている。
「良かった。死にそうだったけど。」
「それは、それは。でも、俺は、このやり方は嫌いだ。」
「何故?」
「ママの顔が見えないからね。ママとしている気がしない。」
紀代美は、笑い出した。
「何よ。私しか知らないくせに。じゃあ、いつものように。」
「今日はいいよ。」
「じゃあ、明日はどうなの。その日じゃないけど。講義あるの?」
「ない。」
「では、今日のお返しに、特別講義をしよう。」
翌日、また、二階へ。紀代美は既に布団を敷き、浴衣姿でちょこんと座っていた。
「よく来たね。本日は貴重な講義をやって頂くそうで、ありがとうって言いな。」
「よろしく、お願いします。か・・・」
「早く脱いで足を伸ばして座りなさい。」
何となく期待があったのか、素直に従う。
「あれ、まだ私の裸も見てないのに、こんなに元気になって。若いんだねえ。」
浴衣を脱ぐと、何も身に付けていない。いきなり跨ると、すんなりと入った。
「ほら、あんたの大好きな紀代美ちゃんの顔が、よく見えるでしょう。」
二郎はむしゃぶりついた。たわわな乳房が、彼の胸で弾んだ。
「ママ。」
両尻を抱え、動こうとすると、
「だめ、じっとしているのよ。」
と言い、下唇を強く噛んだ。奇妙な感覚が、二郎と分身を襲う。吸い込まれたそれは、前後左右から、責められている。蠕動しながら強く軽く。中の何かは蠢いていた。二郎はうめく。
「ママ、止めてくれ。」
果てそうになると、更に締め付けて、いくのを拒んだ。歪んだ紀代美の顔は、苦痛に耐えているのか快感に耐えているのか分からない。そして、血の滲んだ唇を開け、
「ああん。」
二郎はその瞬間、大量に放出した。紀代美は上体を布団に叩きつけるように投げ出した。肩が激しく揺れ、乳房は波打っている。二郎も離れ、横たわった。頭の中は真っ白だ。息苦しささえ感じる。やっと呼吸が整うと横を向き優しく抱いた。
「ママ。最高だったよ。大好きだ。」
紀代美は、まだ朦朧な目を開け、
「私を、それとも講義が?」
「ママがだ。そしてママの全てが。」
急に不安が胸を過ぎった。これは自分だけのものなのか。いや、そうでなかったとしても、もう紀代美の全てを他人には渡したくない。どんなに時が経とうと。
「二郎。そんなに良かったのなら、ご褒美を頂戴。」
「何が欲しいの?」
「今度の日曜日、東松山に行くの。一緒に行って。」
「何をしに?」
「実家に行くの。唐子と言う町、いや村というべきかな。いい所よ。」
「オレはなにを?」
「両親に会わせたいの。娘にも。」
その意味が二郎には分からない。無言の彼をどうとったのか、
「あんたが心配するようなことではないの。ただ、私の生まれ育った場所を見てもらいたいだけなのよ。」
「だが、オレが行くと変に思われないかい。」
「私にまかしとき。これでもあんたより人生経験は豊富なの。十一時に東上線池袋駅の改札でね。」 最後は命令口調だった。
日曜日は、梅雨の中休みなのか、青空が広がっていた。
池袋の駅の改札口に紀代美が立っていた。和服姿だ。大島紬なのだろう。濃紺の中に朱色が散らされている。結い上げた髪が、顔の白さを際立たせている。
「お早よう。なんだ、その格好は。まるで貧乏学生じゃないか。」
紀代美の声ははしゃいでいた。
「まあいいか。二郎は貧乏学生なんだからね。」
特急に乗る。梅雨時のせいかすいている。隣り合わせに座った。紀代美は手を握り、肩に頭を乗せる。珍しく、かすかな香水の香りがした。電車は都会地を通りぬけ、車窓には田園と雑木林が飛んでいく。
「二郎。なんだか、旅に行くみたい。新婚旅行か。新婦は、かなりくたびれているけどね。」
「ママ。オレはこの電車に乗るのは初めてなんだ。それに。」
「心配しなさんな。あんたのことは、昨日、母に電話して伝えている。早大の苦学生だが,素直で、いい子だから、バイトで、うちの店を手伝ってもらっているってね。もっとも、本当に手伝っているのが何かは、口が裂けても言えないけどね。」
何時の間にか、紀代美は、寝息をたてはじめた。
車内放送が、次は東松山と告げた。目を覚ました紀代美の顔は厳しいものに変わっていた。駅に下り立ち、タクシーに乗った。
「唐子の役場までお願いします。」
数分も走ると、植えられたばかりの早苗の田が目についた。しかし、草ぼうぼうの荒地も多い。車を降りると、そこは高台で、見渡す限り自然が残っている。
「田舎でしょう。この辺りを走りまわって過ごしていたのよ。」
「オレも似たようなもんさ。」
心が和んだ。紀代美の愛も、ここから来ているんだと。
「あそこよ、私の実家は。」
黒光りのするがっちりした二階建てだ。
「このあたりを支配していた、比企一族の末裔なんだって。小代氏だと。野暮な苗字で、私は嫌だった。」
「ただいま。」
声をかけると、背筋の伸びた老婆が現れた。
「紀代美、お帰りなさい。」
「この人は電話で言ったように、店を手伝ってもらっている柳井さん。」
「こんな田舎までようこそ。お上がりください。食事は?」
「済ましてきたよ。気を遣わないで。芳江と美佐は。」
「二人とも、学校の行事で出かけている。おっつけ帰ってくるよ。」
すぐに女の子の声がした。
「ただいま」
「美佐。お帰りなさい。この子は小六なの。」
紀代美と、瓜二つの顔。
「いい子にしているかい。ええと、このお兄さんはうちで働いてもらっている二郎さん。挨拶しなさい。」
美佐は、紀代美の背中に隠れ、盗み見ている。だが、その目は紀代美に似て優しかった。
「お母さん。美佐はこの間、数学で百点取ったよ。」
「へえ、見せなさい。私に似て頭いいんだ。」
「これ。」
「本当だ。じゃあ、ご褒美。」
バッグから何枚かのお札を渡そうとした。
「いいの、おじいちゃんから、お母さんには、お金を貰ってはいけないと言われているの。」
美佐は逃げるように、走り去った。
「お茶をポットに入れろ。まだ仕事が残っている。」
がらがら声とともに、七十は越えているのだろうが矍鑠とした老人が玄関に立っていた。
「お父さん。この人は・・・」
老人は一瞥もくれず、ポットを摑むと出て行った。
「イーイだ。」
紀代美はべろを出して、毒づいた。
「頑固親爺だ。私のことを、今も許してくれないの。」
「頑固にしたのはママのせいなのかな。」
「余計なことは言わないで。まだ子供みたいなあんたには分からないのよ。」
「ただいま。」
「芳江よ。お帰りなさい。」
セーラー服を着た長身の美形だ。
「芳江、この人はね。」
芳江は敵愾心に燃えた目で二郎を見た。
「挨拶くらいしなさいな。」
芳江は、そのまま姿を消した。
「あの子は容貌も性格も、あいつにそっくりなの。二郎。悪かったね。外に出ようか。都幾川に行こう。その坂を下るのよ。母に挨拶して来るよ。」
新緑の季節は終わっているのだろうが、木々を渡る風は優しく頬をなでる。トンボも飛んでいる。
河原に着いた。
「汚れているなあ。あんなに綺麗だったのに。ここで、いつも遊んでいたのよ。夏は水遊び。小学校二年だったかな。泳いでいる人達を見ていると私も急に泳ぎたくなったの。でも水着は持って来ていない。パンツ一枚で泳いだ。上がると洋服がないの。泣きながら家まで走ったの。怒った父は学校に抗議。犯人探しのすえ、同級の子が白状したんだ。何故こんなことを、と問い詰められると、私のことが好きなので、気を引きたかったんだって。父は、ただではおかぬと言ったけど、許してあげてって言ったんだ。そうね、こう見えても、小中学校の頃は結構もてたんだ。成績も良かったの。それから高校・・・。思い出したくない。高校の時、二郎と会っていれば良かったんだけどね。」
二郎は吹きだした。
「だって、その頃は、オレはまだ生まれたばかりじゃないか。」
「それでいいの。赤ん坊の二郎を養子にするの。育てて今ぐらいになったら、ね。」
「いくらオレが好き者だって、母親とは。」
「スケベ。すぐ、それを考えるのね。」
「しょうがないだろう。ママを愛してるからね。それよりママ、気になることがあるんだ。」
「何よ。」
「オレ達、避妊してないよね。子供は出来ないのかな。」
「それもそうだね。まだ、私も上がる年でもないし。やりすぎか。ヘヘへ。でも、二郎、子供が出来ても心配しないで。迷惑はかけない。」
「いや、オレが言いたいのは。」
「その話は、おしまい。あら、いい時間になったね。」
急に日が落ちかかった。
「ここの夕日はいいのよ。」
早くも周辺は赤く染まっている。
「夕日を見ながら帰ろうよ。」
立ち上がった紀代美の頬に、夕日が映えた。
「綺麗でしょう。」
「うん。だけど、夕日を浴びたママの姿が、なお綺麗だ。」
「巧いことを言って。女の口説き文句かい。何処で覚えた。」
「ママのお腹の上でかな。」
「ふーん、あんなもんじゃ、まだ発展途上だよ。」
二郎は、堪らず肩を抱いた。応じて、胸に顔を埋めた紀代美は体を摺り寄せたが、
「何よ、固いものが当たっているよ。ここは神聖な場所なの。それなのに、もうその気になって。あんた、あれしか考えてないの。今日はダメなの。唐子に来たんだから昔の清らかな体でいたいの。」
「ママの体は、いつだって清らかだ。」
「嬉しいこというね。でも、今日はダメ。次の、その日にね。」
桜は、もう散り際を迎えている。二郎は四回生になった。青田刈りのせいか、多くの先輩から入社の誘いが来た。しかし、彼はM商社に照準を決めていた。「たぬき」の戸を開ける。七時過ぎだ。店内は花見帰りの客だろうか。混んでいた。帰ろうとすると、紀代美が振り向き、
「柳井さん。そこに。」
カウンターの端に座った。やくざ風の大柄な客がこちらを見た。相当、酔っているようだ。何人かの連れもいる。
「ママ。あの若いのはよく来ているね。新しいイロかい。ママも若いのが好きだからなあ。」
「よしなさい。真面目な学生なんだから。」
「真面目な学生が、しょっちゅうこんな店で、飲んだくれてるのかい。ママはおれに任せときな。こないだもね。あんまり大きな声を上げるんで、さすがの俺も参ったよ。東京中に聞こえるかと思ったね。」
二郎は、両手を握り締め、荒々しく戸をあけ外に出た。桜の下を通り、ベンチに座る。桜の花が落ち、体を包んだ。哀しいというより、虚しい気がした。やはり、紀代美とは縁がなかったのだ。これきりにしよう。でも、もう一度会ってからにしよう。
閉店時を待ち、店に着くと、ひっそりとしている。紀代美は、二郎の顔を見ると、顎で二階を指した。すぐに、上がって来た。
「着替えるからね。」
スカートを脱ぎ、下着一枚になった紀代美に二郎は襲いかかった。剥ぎ取り、仰向けに倒し、両足を広げる。
「何するのよ。バカ。」
構わず、シミ一つない両腿の中心にある漆黒の草叢を唇でこじ開けた。そして、吸った。
「止めてよ。私はこれは嫌いだと言っていたでしょう。」
紀代美の両手が二郎の頭を摑み、振り回す。二郎はその両手を払い、舌をさらに奥へ進ませた。紀代美の左足が、小柄な体に似合わぬ力で、肩を蹴り上げた。二郎はふっ飛び、壁に頭を打ち付けた。
「嫌いだと言っているのに。」
二郎の胸は破裂しそうになっている。
「ああ、そうかい。他の男には許しても、オレとはいやなんだな。」
「何てことを言うの。私のことを信用しないの。それとも嫌いなの。そんなことを言うようじゃあ、私達はおしまいよ。」
下半身は、まだ剥き出しのまま、屈めた体は、何時もより小さく見えた。
「私には、あんたしかいないんだよ。でも、捨てたきゃ捨てな。」
と言いながら泣きじゃくった。
「えーん、えーん。」
それは少女の泣き声に近かった。急に愛しさがつのった。
「オレだって同じだ。ママしかいない。」
二郎は近寄り抱きしめた。
「ごめんね。酷いことを言って。ママを好きなんだからね。」
「だったら、もっと強く抱いて。骨が折れてもいい。そうじゃないと二郎が遠ざかる気がするの。」
「何処にも行きゃしない。生涯離さないんだ。悪かった、本当に謝る。」
紀代美は涙で腫れ上がった顔を上げ、
「許してあげる。でも条件がある。」
「何なの?」
「二人の時は、ママと呼ばないで紀代美と言って。私はあんたのママではないの。でも、お店では紀代美はいけない。ふふふ。」
「ママが笑った。許してくれたんだな。」
「ママじゃなくて紀代美でしょう。今晩は遅くなったけど、仲直りに。」
「今日は、その日じゃないよ。」
「いいじゃないの。物日だ。」
「何の物日かな。ママもあれが好きなんだな。」
「紀代美でしょう。それに、私はあれが好きなんじゃないの。二郎が好きで、あれはおまけなの。おまけにしては、良すぎるけどね。」
秋になった。M商社から採用通知が来た。二郎は、それを握りしめ「たぬき」に走った。戸は開かない。
「ママ、オレだよ、開けて。」
「あれ、どうしたの。まだ、二時前よ。それに、今日はその日でもないのに。」
「採用通知がきたんだ。」
紀代美の顔が、輝いた。
「おめでとう。」
「ママのお陰だ。」
「紀代美でしょう。」
「だって、ここはお店だろう。」
「減らず口叩かないで、上で待ってて。」
なかなか、上がって来ない。階段を覗くと、一升瓶と数本のビールを持って
「二郎。これを運んで。それと卓袱台を出しといてね。」
大皿二枚に料理を乗せて紀代美が上がってきた。ビールの栓を抜くと、
「休業の看板を出してきたよ。まずは乾杯。」
一気に飲む。冷えたビールは爽やかに喉を通った。
「今日は、お祝い、いや、お祭りね。エーイ、エイエイお祭りだい。さあ、食べて食べて、お客用だったんだけどね。今日は長丁場だぞ。栄養つけなきゃね。」
三杯も飲むと、紀代美の顔は赤らみ、目が潤んできた。
「二郎。横になって。」
珍しく丁寧に、ズボンとパンツを脱がした。頬ずりする。もう、それは怒張していた。
「ほう、お前も嬉しいのか。それにしても、立派になったね。使い込みが足りないのか色が綺麗過ぎるけどね。こんな太いのが、紀代美ちゃんの、おちょぼ口に入るとは不思議だねえ。」
咥えこみ、首を上下に振る。両手を二郎の尻に回し腰を浮かせる。それは更に奥深く喉をついた。「紀代美。いい。もういきそうだ。」
上下運動は激しくなる。根元を握った指に脈動が感じられた時、跳ねたそれから大量のものが、紀代美に流し込まれた。喉を鳴らし飲み込む。縛めを解くと、唇の周りに白いものが垂れた。紀代美は手の甲でそれを拭い舐めとる。二郎は堪らなくなり、
「紀代美」
起き上がり、唇を求める。
「ダメ。まだ口の中には息子さんが一杯。今キスしたら親子どんぶりだい。」
「口をゆすいできたら。」
「ううん。この生臭さは日本酒に合うね。」
一升瓶からコップに注ぐと、呷った。
「この旨さは男には分かないね。」
「もう、酔ったのかい。」
「冗談じゃないよ。お祭りはこれからよ。」
障子が赤らみ、そして暗くなった。二人だけの饗宴は続いた。
「二郎。就職したら、学舎を出るんでしょう。」
「そりゃそうだ。」
「部屋探しか。ここに下宿って訳にはいかないか。いずれにしても、近くに住んでね。お呼びがあれば、娘さんと、すぐ駆けつけられるようにね。」
二郎も酔いが回ってきたのか、トロンとした目で、そんな紀代美を見つめた。紀代美は急に真顔になり、
「私のこと、淫乱でバカな女だと思っているんでしょう。来年は一流大学を出て、エリートサラリーマン。わたしゃこんなしがない飲み屋の遥か年上の女。教養もない。あなたにしてあげられるのは、あれだけ。あなたにふさわしくないのだけは確か。いつ捨ててもいいのよ。」
「何を言うんだ。オレは紀代美を生涯、離さないと誓っただろう。」
「生涯はどうでもいいの。私は恐いの。抱かれるたびに、遠ざかる二郎の背中が見えるの。でも、いい。今夜は抱いて。何度も。死にそうになるまで。」
十二月になった。単位も取得し終わり、卒業を待つだけだ。紀代美は昨日、余韻を楽しみながら、「背広は、上等なのをプレゼントするよ。」「安いのを二着がいいな。」「ケチ。でも二郎のそういうところが好きなんだ。惚れた弱みか。いい加減にせい。」
翌日の早朝、賄いの女性が部屋のドアを叩いた。
「熊本から、お電話です。」
叔父からだった。
「姉が倒れた。すぐ、帰って来い」
呆然とした二郎は、学舎を出、坂を下った。
「二郎」
買い物袋を提げた紀代美だ。普通の主婦に見える。
「まるでストーカーみたいだね。こんな所で会うなんて。」
思いつめた二郎の目が、紀代美をみつめた。
「何かあったの。その顔は。」
「おふくろが倒れたんだ。」
紀代美は二郎の手を引き、「たぬき」に向かった。
カウンターに入ると背を向け、封筒を取り出した。
「早く、熊本に帰りなさい。お金がないんでしょう。はいこれで。」
「貰う訳にはいかないよ。」
「上げるのじゃないよ。貸すんだよ。返してもらうからね。ここのツケと私の体を抱いた分と。利息もね。高いぞう。もっとも、出世払いだけどね。さあ早く、お母さんの所へ。」
「紀代美、ありがとう。」
橋を渡り、坂道を急いだ。橋のたもとで、紀代美は遠ざかる後姿を見て呟いた。
「二郎も、遠くへ行ってしまうんだなあ。こんなに愛しているのに。」
目には涙が溜まっていた。
病室に入ると、房子は眠っていた。昨年、帰省した時より、もっと痩せ、髪は殆んど無くなっていた。
「お母さん、オレだよ。」
房子は目を開けた。
「二郎、何しに来たのか。」
「倒れたって、叔父さんから連絡あったから。」
「私のことは心配しないで。」
胸が熱くなった。
「お母さん。就職したら東京に来てよ。一緒に暮らそう。」
「それはだめ。生まれ育ったこの町で死にたいの。」
主治医に会う。
「相当、疲労されていますね。すぐに、どうってことはないが、仕事は無理ですな。四、五日で退院は出来ますが。」
叔父を訪ねた。
「何時もすみません。お願いがあります。こちらに就職口は、ありませんかね。」
「就職、もう決まっているんだろう。」
「母を、ほっとく訳にはいきません。帰郷したいのです。」
「分かった。当たってみる。」
年が明けた。叔父からの手紙が来た。市役所の内定通知が同封されている。父の同僚だった人が助役になっていて、「あの件は柳井には何の責任もなかったんだ。それを知っていながら助けてやれなかった自分を恥じている。彼のご子息の学歴では、こんな田舎の役所じゃ、どうかと思うが、ご希望ならば。」の趣旨だった。
二郎の頭は混乱した。オレは何てことをしたんだ。「たぬき」に向う。
「あれ、開店の時間だよ。」
「ちょっと疲れている。休ませて。後で話がある。」
紀代美の顔が曇った。
「話ってなによ。」
「後にしよう。」
二階に上がり、布団も敷かず横になった。下からは賑やかな声が聞こえてきた。二郎は自分が何を考えているのか分からないまま、いつのまにかまどろんだ。
「待たせたね。しつこい客がいてね。何よ、布団も掛けないで。いくつになっても世話のやける子だねえ。これじゃ、まだ目が離せない」
努めて明るさを装おっているようにも見えた。二郎は愛おしさを感じ胸が詰まったが、意を決して言った。
「紀代美、オレは田舎に帰ることにした。商社に入り、世界を相手に商売をするのが夢だったが、おふくろを捨てる訳にはいかない。叔父の紹介で市役所から採用の通知が来たんだ。」
「いいじゃないの。そんなこと、私に言ったってしょうがないじゃない。」
「だけど、オレは紀代美と別れるのが嫌なんだ。」
「ほんとに、あんたはいい年をしてまだ子供ね。別れるってのは、違うのよ。私とあんたは同棲しているわけでもない。私は愛人でもない。ただ、通りかかった男と女でしょうが。そこには別れるって言葉はないの。」
「だけど、紀代美のことが大好きなんだ。」
「じゃあ、本当のことを言うわ。私もまだ四十前よ。若い身体が欲しかっただけなの。」
「それはないだろう。オレはオレは。」
「分からないねえ。じゃあ、証拠を見せてやる。」
いきなり二郎に飛びかかり、ズボンとパンツを剥ぎ取った。のしかかった時には、彼女の下半身も剥き出しだった。
「紀代美、止めてくれよ。」
「なによ、何時も喜ぶくせに。」
まだ屹立しないそれをあてがって、紀代美は腰を上下に激しく振った。
「私は、これだけが欲しかったんだ。相手は誰でもよかったんだよ。」
「分かったよ。紀代美とは別れない。」
「バカ。あんたなんか嫌いと言ってるでしょう。まだわからないの」
腰を振り続ける彼女の目からは涙が溢れ出ていた。その涙はいつまでも二郎の頬を濡らし続けた。二郎には、それが自分の涙か、紀代美の涙か分からなかった。
それから二十数年の時が流れた。二郎は故郷の父と同じ市役所に勤め、叔父の紹介で妻を娶り、二児をもうけた。母は十年前、静かに息を引きとった。
平穏な毎日である。あの町や紀代美のことは、記憶の隅に押しやっていた。それも消えようとしていた。何回か東京への出張はあったが、神田川に足を向けることはなかった。三月の末、急に東京出張を命じられた。
出かける前日、テレビで、昭和四十年代歌謡名曲集をやっていた。南こうせつとかぐや姫。懐かしいなと見ていると、
『窓の下には神田川・・・』
二郎の胸に急激にこみ上げてくるものがあった。
出張の二日目、仕事を早めに切り上げ、あの町に向った。豊橋に立った。周辺は激変していたがこの橋からの眺めはあまり変わっていない。ただ、「たぬき」は跡形もなく更地になっている。陽は落ちかかっていた。振り返ると「のぶちゃん」の提灯が昔のままに下がっていた。まだ、店は開けていないだろうと思いつつ、引き戸を開けると、
「いらっしゃい。」
のぶちゃんの面影を残した顔がそこにあった。
「まだ、早いのかな。」
「いいわよ。」
昔どおり、カウンターだけの小さな店。
「ビールを。のぶちゃんはどうしている。」
「母は二年前に死んだの。私はこんな商売は嫌だけど、後やる人がいないから。」
「たぬきのママみたいだね。店は消えちまったみたいだが。」
「五年前かな、不法建築で取り壊しを命ぜられて、店をたたみ、東松山の実家に帰ったの。でも、娘さん一家が近くにいて幸せそうよ。」
急に顔色が変わった。
「あなた、二郎さんでしょう。」
「そうだけれど。」
「ああ、良かった。たぬきのママが、母に頼んでいったことがあるの。二郎が訪ねて来るかも知れない。ここを引き払うんだから、来るとしたらたぶんこの店でしょう。これを渡して下さいと。」
奥の部屋から一通の封書を取り出してきた。確かに二郎の名前が記されていた。
「ありがとう。また寄るよ。」
外に出ると夕闇が迫っていた。川を覗くと数匹の鯉が泳いでいる。遠くには川鵜の姿もある。浄化されているのだろうが、二郎にはただ時の流れを感じさせるだけのものだった。
握りしめていた封書を、幾重にも破り、川に投げ捨てた。紙切れは浮き沈みしながら遠ざかって行った。
「ママ!いや紀代美!ありがとう。」
絶叫したつもりだが、声にはならなかった。 完
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