ある愛




                  
                 

                 
崎靖士
 
 

 多摩川の川面を、うすい煙ときな臭い香りが静かに流れていた。夜の帷は既に降り、満員電車の如く蝟集していた多くの人々は去り、数組の若者達の集団、若いカップルを除き多摩川の両土手には、静けさが戻っていた。イベント用の照明も消され、土手裏の人家の明かりと薄暗い街灯がかろうじて川面のさざ波をとらえていた。この川にも清流が戻ってきたが、夜の為か青黒く漂う水面に、二本のふくよかな足が立っていた。ふくらはぎの半ばは水中にあり、その上部とひざ小僧、そしてまばゆいばかりに白い太ももが、その多くを薄紫の紫陽花柄の浴衣に覆われつつも、川面に揺れていた。今日は調布市の年に一度の花火大会である。年々来場者は増え続けているが、華やかな宴の後の淋しさは変わる事はなかった。道夫は急に胸が痛み出し、異様な不安に襲われた。その時、実穂の口から絶叫が放たれた。

 「だれか私の足を切って!私の足を切って!」
 絶叫は嗚咽に変わった。
 「実穂さん、やめろ。」
 しかし、道夫の口から出たものは言葉になっていなかった。草むらに腰を下ろした身体は、金縛りにあったように動かない。立ち尽くした紫陽花の花模様の浴衣は激しく揺れ、二本のふくよかな足は、別の生き物のように水面に漂った。
 ここは小泉八雲の怪談{雪女}の舞台である。対岸に渡った杣人の幸せとも不幸と思われれる物語。実穂は雪女なのか。道夫の心は揺れた。

 話は十年前にさかのぼる。彼の実家は深代寺城跡の近くにあり、農業の傍ら植木業を営んでおり、比較的豊かだった。彼は次男坊で兄とは七つ違い、既に兄は都立農業高校を卒業し、家業を継ぐべく励んでいた。忙しい父母の代わりに昨年亡くなった祖母に育てられていた。広い敷地には大小さまざまな植木が繁茂し、数人の職人がいつも出入りしていた。国分寺崖線、通称はけの南だったがやや高台となっていた。小学校は深大寺の東に位置していたので緩やかな坂を下って行く。下りきると目の前には深大寺の参道。寺の背後には緑が天を覆うようにかぶさってくる。通りを右に折れ、だらだら坂を五分も歩けば学校に着くが、参道を通り山門前に行くのが習慣だった。山門手前で一礼。これは祖母に教わった事だ。
 「道夫、お寺や神社の前を通る時は必ず立ち止まり一礼するものですよ。それが日本人というものです。」
 蕎麦屋や土産物屋が立ち並び、朝から活気を見せている町中を通り、不動の滝の横から急な坂道の緑のトンネルを一気に駆け上がるのが好きだった。その日は運動会の振り替え休日の翌日だった。教室に入ると、日焼けしてイベントが終わった安堵とやや気抜けした級友の顔が並んでいた。突然、担任の鬼瓦が現れた。顔はいつもより赤黒く膨れ上がっていて、道夫も級友達もこれから起こるであろうことを察知し戦慄した。
 「運動会の前の日、ライン引きの時に、しいのみ学園の真似をして走った者は前に出ろ!」弾かれるように十名ほどが進み出、整列した。平手打ちが飛ぶ。泣き出す子もいた。最後は道夫の番だ。
 「こういうことは何時もお前だ。児童会長のくせに!」
往復ビンタ。止んだとき、鬼瓦の目が涙を湛えているのを見た。席に戻る途中、空席が目に入った。いつもにこやかに微笑んでいる実穂の席だった。『こういうこと』が何であるかを知らされたのは昼休みだった。クラス委員の圭子が私に詰め寄った。
 「みんなあなたが悪いのよ。あの悪ふざけが実穂を決心させたの。新宿の病院で手術を受けるの。」        実穂の足がやや不自由なのは知っていた。しかし。悪童達の不幸は数日前に引率されて見た映画の一場面を、悪気はなく再現した事にある。
 「手術は金曜日だそうよ。今度の日曜日に、皆で見舞いに行くの。でも、あなたは来ないでいいよ。」
 それだけ言うと圭子は踵を返した。その背中は怒りに震え、実穂の気持ちを代弁しているように見えた。放課後、道夫は深大寺通りから水生植物園、深大寺城の素朴な緑を左に眺めながら坂を下って行った。いつも通る深大寺の山門前を通る事を憚ったのか。まだ小学六年生だが、罪は感じていたのだろう。歩きながら、祖母が行事のあるごとに手を引いて連れて行ってくれた深大寺の諸々を思い出していた。正月、だるま市、縁日。喧騒する人々の中をぬいながら祖母はいつも言っていた。「このお寺さんは優しいのよ。皆を包んでくれる。その為、こんなに混んでいても、私ら年寄りも安心して歩けるのよ。道夫も優しさは忘れないように。特に人の心を傷つけてはいけない。身体の傷は時が来れば治る。でも心の傷はなかなか治らないものなのよ。」
 子供心にも彼は決心した。嫌がられてもいい。見舞いに行こう。
 京王線はいつもよりスピードを上げているように感じられた。新宿駅のホームを歩く足は重かった。地図を頼りに病院に着き、五階の病室の前に立った。入院者名の表示を確かめてノックしようとした時、病室から笑い声が洩れてきた。病院には相応しくないような声には実穂の声も混じっている。ノックしようとした右手は硬直していた。重い足を引きずりながら、再びエレベーターに乗った。あの笑いの中にはやっぱり入れない。少年ながら彼の身体は悔しさに震えていた。自らに対する嫌悪感のせいだった。
 秋も深まった。深大寺をとりまく常緑樹と研を競うように紅葉する木々も多く、美しさを更に増していた。実穂が教室に姿を現した。ふくよかで色白の顔はにこやかだったが、歩く姿は以前にまして傾いでいるように思え、まともにその姿を見ることは出来なかった。手術は失敗したのだ。道夫の胸の痛みは表現の仕様もなかった。
 中学、高校も同じ学校に進んだが、同じクラスになることはなかった。だが、たまに顔を合わせるたびに彼女はにこやかに微笑んだ。その度の胸の痛みは何なのか。犯せし罪のせいか。あるいはそのために受ける罰なのか。大学は関西の志望する学部に合格した。この町を離れるとなると実穂のことが気になる。胸の痛みを抑えつつはがきを書いた。その返事。
 「遠くに行ってしまうと思っていたのに。有難う。帰省したら必ず連絡してね。」
 大学に入り何か吹っ切れたのだろうか。長期休みに帰省すると実穂に電話し、時々会った。それはデートと呼ぶにも恥ずかしい、他愛のないものではあったが、待ち合わせは決まって深大寺の山門の前。実穂の実家は通りの中ほどに大きな雑貨店兼土産物屋を営んでいた。二人で山門への階段を上る。上る彼女の姿を正視したくなかった。拝殿に参詣した後は寺内を巡り、弁天池の端に腰掛け、とりとめのない話をした。名物のおやきを食べながら、実穂は『深大寺縁起』を好んで話した。
 力が入るのは恋物語である。
 「昔、このあたりに右近の長者という村長も兼ねた人がいたそうよ。一人の娘がいて、良き婿を迎え跡継ぎにしたいと思っていたところに、ふらりと現れたのがいずれの素性か分からぬ福満という青年。娘に一目ぼれした彼と娘は恋におちた。それを知った長者は激怒し、娘を近くの湖の小島に隔離したのよ。福満は毎日、湖畔に立ち、思いなやんでいたそうよ。彼は渡来人だったの。そこで、幼少の頃、母から聞いた話を思い出したの。玄奘三蔵と深沙大王の故。大王に祈った彼は、送られた大亀に乗り、会いに行ったの。右近もその信仰心と勇気に感じ、許したんだって。、その子供の満功上人が深大寺を創建したそうよ。彼の勇気がなかったら、私たちはここにいなかったのかもしれないのよ。」
 実穂の白い細面の顔、切れ長の目が道夫を見つめていた。彼はこれは、ある種の自分に対する愛の告白かとも思えたが、それを口にする勇気はなかった。しかし、愛おしさは感じていた。
 あの花火大会の翌年、道夫は京都の医療器械のメーカーに就職した。旅発つ数日前、実穂に電話した。
 「家に来てね。」
 初めての誘いだった。彼女の実家の裏には立派な玄関があり、小柄な母親が迎えてくれた。面識のあった母親は
 「よくいらっしゃいましたね。ごゆっくりどうぞ。」
 「お母さん、お茶はいらないよ。二人っきりにしてね。」
 はしゃぎ気味に実穂は二階に案内した。黒光りし磨き抜かれた階段を上り、部屋に通された。娘の部屋らしく華やかで、真ん中に置炬燵が置かれていた。三月とはいえまだ冷え込む夕方だった。表通りはまだ参詣客で賑わっているのだろうが、ここは静寂に包まれている。向かい合って座る。紺の絣を着た実穂からは、今までとは違う女の匂いがした。
 「京都はいいとこなんでしょうね。私は恥ずかしいんだけれど、まだ行った事がないの。」
 坂の多い京都の町を美穂と歩くのは楽しいだろうが、可哀想にも思えて暗い気持になった。
 急に彼女の目が今まで見たこともない光を放った。
 「道夫さん、そっちへ行っていい。」
 返事もせぬうちに狭い空間に躍りこんだ。狼狽した右手が実穂の裾をわけてしまい、太ももの微妙な部分に触れた。
 「あっ、悪い」
 実穂はそれには答えず身を縮めるように肩を寄せた。急に愛おしさが増し、道夫は抱きしめた。初めての体験であり、身体が震えたが、柔らかい感触は胸をときめかせた。
 「私はいいのよ。」
 目は閉じられていた。道夫のこれに対する返事は情けないものだった。
 「オレ、帰るよ。」
 実穂は、切れ長の目を大きく見開いて道夫を見ていた。まばたきもせずに。弾けるように飛び出た。
 
襖を開け一階に向け声高に言った。
 「お母さん、道夫さん帰るそうよ。」
 靴を履き、上がり框の実穂を見上げた。
 「ごめんね。」
 一筋の涙が白い頬を流れ落ちた。それは悲しみの涙だったのか。それとも、福満童子のような勇気のなさを非難するものだったのか。今となってはもう確かめようがない。
 
 道夫は胸の痛みを忘れようとする自分勝手な気持ちから、実穂を過去の世界に置こうと努めた。幸いにも会社での研究も性に合っていて仕事に没頭し、帰省する暇もなく二年間が過ぎた。ある日、遅くなって寮に帰ったとき、一通のはがきが届いていた。実穂からだった。
 「その後、お元気ですか。一向にご連絡を頂けないのは私が結婚した事をお知りになったからでしょうね。彼は平凡なサラリーマンですけど、こんな身体の私でもいいと一緒になってくれました。七月には子供も生まれます。」
 実穂は結婚したのだ。
 道夫は「これで胸の痛みが消える。」と快哉を上げようとした。しかし、なぜか更に胸は痛んだ。これは何なのか。自らが犯した罪のせいか。あるいは罰なのか。痛みが消える時が来るのだろうか。
 その二年後であろうか。高校の後輩である道夫は、この話を私にしてくれた。    
 「なんでオレに話す気になったのだ。」
 「誰かに話さないと、この胸の痛みが消えないと思ったからです」
 「それで、痛みは消えそうかね。」 彼はそれに答えず
 「万葉集に調布を詠んだ歌があります。たまがわに さらすたづくり さらさらに なにぞこのこの ここだかなしき」

 彼の目は遥か遠くを見つめているように思えた。

                                                                               完

 



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