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埼玉県深谷市鉢形城

埼玉の城 

埼玉県深谷市にある鉢形城跡は成就院からも車で20分ほど。この戦国時代の鉢形城は、交通の要衝地に位置し、戦略上も極めて重要な城郭の一つでした。

城の北西側は、水量豊富な荒川に面した高さ100メートル程度の断崖になっています。また、城の背面には、荒川の支流である深沢川が流れており、天然の要害にふさわしい地形となっています。

室町時代の禅僧で歌人の万里集九が「鉢形の城壁は鶏すらもうかがい難いほどである」と『梅花無尽蔵』に書き記しています。

伝承によると、平安時代末期から鎌倉時代除気にかけて、源経基や畠山重忠がすでにこの地に拠っていたという伝承があるようです。

たしかな史料によるならば、文明5年(1473年)から3年ほどかけて、長尾影春が築城したとの記録があり、鉢形城をめぐってはかつて関東管領山内上杉氏と執事長尾氏が争ったことがあるようです。

のちに北条氏綱が山内上杉氏を討伐すると、天神山城主藤田康邦の女婿となった氏康の三男乙千代(乙千代は永禄7年頃に元服、北条氏邦と名乗る)が鉢形城に移り城主となりました。

埼玉 武蔵の拠点

埼玉県深谷市の鉢形城の位置は、秩父から雁坂峠を越えると、武田氏の領国である甲斐に行くことができます。また、鎌倉街道上道を利用すると、上野国を経て越後国や信濃国へ行くことも可能ですので、隣国の動静を探るうえで、重要な拠点でもありました。

鉢形城主となった、北条氏邦は、城下町の整備に腐心するとともに、領内の土豪や地侍は、埼玉県秩父地方の「秩父衆」などのように地域ごとに編成され、軍事編成にも力を入れるとともに、城郭の整備にもあたらせていたようです。
現在、鉢形城は公園として整備、解放されています。中には博物館もあり埼玉の自然と埼玉県の歴史の見どころがあります

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