先回の 「古文奮闘記 - 其の壱」 では、古文の指導のために古文単語と文法を覚えようとしたのですが、覚えてゆくほど余計に考えてしまって、かえって頭の中が混乱してしまう・・・そんな状況について書きました。
では、何がこの状況を変える助けになったのでしょうか?
僕にとってそれはいみじくも「古典」、つまり古文で書かれた本そのものでした。
単語のられつや文法より、本そのものの方が面白いことは、皆さんも容易に想像がつくと思います。
古典そのものの内容に少しでも興味が持てれば、それをもっと読もうとして文法学習にも意欲が湧いてくるものですし、そうした結果文法が解る、つまり問題が少しづつでも解けてゆく時の快感は、学習の動機付けとして何にも変えがたいものだ、ということに気付いたのです。
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私は常々、一つ一つの科目は「友人」と同じようなものだと考えています。
人それぞれに性格があるように科目にもそれぞれ「性質」があって、それらと「うまく付き合う」ためには、個々の「性質」を知らなければならないと思うのです。
では、"古典君"との付き合いの中で学んだ、彼の「性格」ですが、一言で言うと、"英語君"と大変性格が似ているという事が分りました。
反対に言い換えると、古典を「日本語」と甘く見てはいけないのです("現代文君"とは性格が違うのです)。
英語を母語とする人の会話を聞いてどれほど分るだろうか、と考えると私を手含めて大抵の方は、あまり自信が無いはずです。
それでは、仮に中世の日本人といきなり会話したとして、どの程度理解できるでしょうか?
皆さんもご存知のように、当時の人が「をかし」「あはれ」「ありがたし」などと言ったとしても、これを可笑しい、哀れ、ありがたい、などととったのでは意味がまるで通じませんね。
このように言葉そのものが今の日本語と似ているからこそ余計に混乱したり、分りにくく感じる、という事があるのです(中には意味が今日の日本語と同じものがあるのでなおいっそうですね・・)。
では、こうしたいわば"外国語君"達と付き合うためには、何が必要なのでしょうか?
それは、辛抱強さです!
何故なら、言語の学習の進歩は階段状なので、成果が見えないように思えてもあきらめずに学ぶ事が大切だからです。
そうしてゆくうちに、進歩は階段の垂直部分のように、飛躍的にやってきます。
それからまた、なぎの状態・・ その繰り返しなのです。
ですから、古典の学習でもある一定期間、黙々と学ぶ態度が必要なのだ、という事が分ります(大学入試科目として取り組んでいる場合には特にそういえます)。
焦ってはいけない、あるいは焦る必要はないのです。
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古典(対訳つき)の本を読む利点のもう一つは、その当時の文化や、人々の考え方が分る、というものです。
他の外国語もそうですが、その土地の文化や考え方が分ると、文章もずっと読みやすくなります。
いくら同じ日本といっても、1,000年前と今では文化が違っていて当然なはず。
僕は、特に「枕草子」や、「徒然草」などの随筆が読んでいて役立ちました。
「源氏物語」などは、ダイジェスト本などであらすじをつかむのも良いかも知れません。
当時の人々のやり取りから分る、筆者やその周りの人たりの考え方、感じ方。
「同じ日本人でも、こうも違うのか」なんて感じられたら、もう古文が楽しくなっているんでしょうね。
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これは後日談ですが、そんなこんなで私がみていた生徒が大学に合格し、その事を知らせるメールを送ってくれました。
そのメールについてこれから書くのは、それがどなたかの何かの役に立つことを願うからです。
そのメールの一文です。
「先生の指導は素晴らしかったです」
きっと頑張り抜いた人が言える言葉ではないかと思います (大した指導も出来なかった自分にこのように言えるというのは…) 。
受験に向けて努力を続けている全ての方にエールを送ります!
「其の壱」と「其の弐」にお付き合い下さり、有難うございました。
文責 八田 知明
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